※本稿は、NHKスペシャル取材班『中流危機』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
「リスキリング」と従来の「スキルアップ」はどう違うのか
「リスキリング」という言葉、最近よく耳にするようになったと感じる方も多いのではないだろうか。いま日本においては国による明確な定義はなされていない。私たちが番組を制作した際には、専門家取材を踏まえて、「いま持っているスキルをレベルアップさせる従来の“スキルアップ”とは異なり、事業環境の変化に合わせて、新たな業務に必要な職業能力を習得させること」と説明した。さらに具体的にかみくだけば、「企業や行政が主体となって、働く人に、デジタルなど成長分野の業務に就くために必要な新たなスキルを習得させること」と言えるだろう。
よく混同されることが多いが、社会人の学び直しに代表される「リカレント教育」のように個人の関心を原点とするものとは違う。リスキリングは基本的にはあくまで企業や行政が責任をもって行うもので、企業が実施する場合は、“業務”として就業時間内に行うことが必要だと言われている。
また、同じ業務のための学びの中でも、いま担当している業務のスキルを向上させる、いわゆる「スキルアップ」とも違い、あくまで“新たな”成長分野の業務に就くための学びであることが特徴である。リスキリングが目指すのは、分かりやすい例でいえば、工場の製造ラインで働く人や経理事務を担当していた人に、プログラマーやAIエンジニアなどデジタル分野の業務に就いてもらうようなことである。
なぜ世界的にリスキングが注目されているのか?
そもそもなぜいま、リスキリングがここまで注目されているのだろうか? その背景には「技術的失業」に対する強い危機感がある。
「技術的失業」とはテクノロジーが導入されることにより自動化が加速し、人間の雇用が失われることをいう。いまChatGPT(対話型AI)の登場でますます現実味を帯びてきたが、これまでも人間の雇用がAIやロボットに取って代わられる可能性が示されてきた。
AIの発達などで今後5年間、世界で8500万件の雇用が消失
『自分のスキルをアップデートし続ける リスキリング』を執筆したリスキリングの第一人者・後藤宗明さんはこう言う。
「2013年にオックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン教授らが『今後10~20年の間に米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化され消失するリスクが高い』と発表し、世界に衝撃を与えました。その後も、AIや機械学習の劇的な進化は加速し、2020年10月に世界経済フォーラムが発表したレポートのなかでは、『今後5年間で、人間、機械、アルゴリズムの労働分担が進むことによって8500万件の雇用が消失する』と発表されています。ただ一方で、同じレポートでは『9700万件の新たな雇用が創出される』とも付け加えられているのです」
テクノロジーの進展によって業務を失う従業員が新たに創出される仕事に就けるようにし、「技術的失業」を解決していく策として注目されているのが、リスキリングなのだ。
「技術的失業」に対する危機感を背景に、いま世界では、リスキリングを導入する動きが加速している。世界経済フォーラムでは2020年1月に「2030年までに全世界で10億人をリスキリングする」という宣言を採択。こうした中、さまぎまな国や地方自治体、そして企業でリスキリングが始まっているのだ。
「日本企業では人材投資にお金をかける文化が育っていない」
リスキリングに関して日本企業の現在地はどうなっているのか。リスキリングの取り組みを国際的に比較分析するデータはないが、日本では、欧米に比べると人材投資がされてこなかった傾向があるようだ。
図表2のグラフは、企業による人材投資(※)の国際比較を表している。
※OJTを除くOFF-JTの額(企業内外の研修費用等)。OJT(On-the-Job Training)は一般的に、職場で仕事をしながら上司や先輩等の指導のもとで仕事を覚えていく訓練。
日本企業の人材投資は、2010~2014年に対GDP比で0.1%にとどまり、米国(2.08%)やフランス(1.78%)など先進国に比べて圧倒的に低い水準にあり、かつ、近年さらに低下傾向にあることがうかがえる。もちろん日本は、伝統的にOJTで人を育てる傾向にあるなど簡単に比較できない部分はあるが、欧米に比べると人材投資に消極的であることは否定し難い。
バブル崩壊以降、多くの日本企業では、厳しい経営状況の中で人材投資を圧縮すべきコストと捉えてきた。また、人材投資をしても人材流出につながってしまうという危惧から人材投資を敬遠してきた。多くの専門家は「日本の企業には人材投資にお金をかける文化が育っていない」と指摘している。こうした状況の中、岸田文雄首相は2022年10月、このリスキリングを含めた「人への投資」施策パッケージに5年間で1兆円の予算をあてると公表しているが、欧米の先進国に比べると、取り組みはまだ緒についたばかりだ。
「リスキリングは儲かる」という分かりやすい先行事例
今のところリスキリング途上国にも見える日本だが、先行事例がないわけではない。
日立製作所といえば、家電製品や鉄道、発電所などをイメージされる方も多いかもしれないが、近年、ITビジネスに力を入れており、その企業像を急速に変えている。
変革のきっかけは2008年度。当時、国内の製造業として過去最大となる7873億円の赤字を計上したことだった。
ここから構造改革に着手し、抜本的な人事制度改革、また事業の選択と集中を繰り返しながら、今はデジタル技術を生かし、国内外の社会課題を解決するソリューション事業に力を入れているのだ。
社員の習熟度に合わせて130のコースを用意した
同社は、2019年にこれまで分野ごとに分かれていた研修所を統合し、新しい研修機関「日立アカデミー」を設立。特に注力するのが、デジタル人材の育成だ。
日立製作所では、顧客の課題を捉えて解決策を描くデザインシンキング、膨大なデータを分析し価値を生み出すデータサイエンスなど、デジタル事業に必要な12種類のスキル(2022年時点)を定めたうえで、担当する事業に求められるいずれかのスキルを持っていれば“デジタル人財”に認定している。
この人材育成のために「リテラシー向上」「ベーシック」「アドバンス」「プロフェッショナル」という4段階の教育プログラムを設け、約130コースを提供している。
2020年度には国内のグループ企業の全社員を対象に、デジタルリテラシー向上のためのDXの基礎研修を実施し、のべ16万人が受講。さらに2021年度までに3000人のデータサイエンティストを養成するなど成果を上げ、2022年度末時点で、“デジタル人財”は8万3000人(国内4万2000人、海外4万1000人)となった。
日立製作所はオンラインのリスキリングに4億円を投資
同社は、さらにリスキリングを強化するため、2022年10月には社員ひとりひとりのキャリア志向にあわせた自主的な学びをサポートするため、「LXP」という学習システムを導入した。専用のサイトに、今の仕事や「デジタルマーケティング」「データサイエンス」など強化したいスキルを登録すると、AIが自動で分析し、その社員にあう研修や教材を2万以上のコースから選んで提案し、社員はオンラインで無料受講できるという。日立はこのシステムの導入に4億円投資していて、2024年度末までに“デジタル人財”を国内外で9万7000人まで増やす目標を掲げ、力を入れているのだ。
最高人事責任者の中畑英信専務に話を聞くと、確固たる決意で次のように語った。
「ものづくり中心の時代はいい製品を作れていれば、お客様に買っていただける。以前はそういう世界でしたが、そうではなくなってきました。デジタルに大きく事業展開しているので、従業員もデータサイエンスやAIなどのスキルを身につけたい、あるいは会社としても身につけてほしいので、特に注力していきたいと思っています」
また、新たなスキルは、将来的に報酬と連動していくだろうとも語っていた。
「いわゆる成長する事業に人はどんどん動いていくと思うので、伸びる分野のジョブ、ポストについては多分報酬は上がってくると思います」
デジタル人財の能力開発に予算をかけてもリターンが得られる
他の日本企業に先行して、デジタル事業に先行投資したことが奏功し、目下、日立製作所の業績は絶好調だ。2022年度連結決算は、純利益が前年度比11.3%増の6491億円となり、過去最高を更新した。連結売上高は前年度比6%増の10兆8811億円。驚くべきことに、このうちの約1兆9600億円をデジタル技術を使ったソリューション事業が占める。もはや重厚長大の電機メーカーという日立製作所のイメージは過去のものになりつつある。
利益に占めるデジタル事業の貢献度は高く、同社の成功を見ると、“デジタル人財”の能力開発に多額の投資をしても、それに見合う以上のリターンが得られることがわかる。
人材投資をコストと見なし、極限までのコストカットを続けるだけでは、日本企業の「稼ぐ力」はいつまでも回復せず、日本経済を支えてきた「中流」の復活は絵に描いた餅に終わるだろう。リスキリングにいち早く挑戦して、「稼ぐ力」を取り戻した企業の取り組みには、“負のスパイラル”から抜け出し、所得中間層「中流」を復活させるヒントが隠されているように思えてならない。