※本稿は、宮口幸治『境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ』(SB新書)の一部を再編集したものです。
「IQ70以上」だと障害とは判定されにくい
知的障害には、おおむね「IQ70未満」という基準があります。逆にいえば、原則として「IQが70以上」あると、社会生活を送る上で生きにくさを感じていても知的障害とは判定されにくいことを意味します。IQが72、73、74などと70を少し上回っただけで、「知的には問題ない」、「知的障害ではない」と診断されるケースも多々みてきました。
エントリーシートの質問がわからないKさん
Kさんは、小学生の頃から授業についていけないことがあり、母親からよく叱責を受けて育ちました。それでも成績はおおむね「3」の評価で、目立つトラブルもなく、どちらかというとおとなしい子どもでした。大学に進学し、2年のときには、ハワイに短期間のインターンシップ留学をして職場体験を経験しました。
Kさんの夢はキャビンアテンダントになることです。4年生になるとKさんは、就職活動のためにたびたび上京し、航空業界やホテル業界を中心に就職試験を受けます。しかし、企業に提出するエントリーシートの質問の意味がわからず、空欄ばかりになることもありました。
実はKさんは、誰にも言えない秘密を抱えていました。就職活動をしながら、臨月の身だったのです。両親はこれまでになく喜んで就活を応援してくれます。「関係が崩れるのが怖い」と思い、相談できません。
2019年11月、就職活動のために上京した羽田空港のトイレでKさんは赤ちゃんを産み落とします。そして直後に殺害。遺体を紙袋に入れて空港内にあるカフェに向かいます。そこでアップルパイとチョコレートスムージーを注文し、写真を撮影。「頑張っている自分へのご褒美」というコメントをつけてインスタグラムにアップしていました。その夜、東京都港区の公園に移動し、素手で穴を掘り、遺体を埋めました。Kさんは翌日、予定通りに就職面接を受けました。
気づかれない「境界知能」だったKさん
赤子の殺害の事実だけを記事で読めばKさんのことをサイコパス的な、まるで理解不能な人間、その行動は常識が通じない身勝手なものだと思われた方もおられるかと想像します。
Kさんの事件の判決は2021年9月に下されました。裁判長は「就職活動への影響を避けるべく、自らの将来に障害となる女児の存在をなかったものにするため殺害した。身勝手で短絡的だ」と述べ、懲役5年の実刑判決を言い渡しました。
でも果たして、「身勝手な人間だからこんな犯罪を行った」のでしょうか。実は、この事件にはある背景がありました。
公判前の検査では、被告人のIQは74で「境界知能」に相当していたのです。境界知能は、図表1のように正常域と知的障害の間に追加されるイメージです。
一般に、IQ70以上は知的障害とは判定されません。しかし、IQ70~84は、何らかの支援が必要とされる「境界知能」に当たります(図表2)。
「知的障害グレーゾーン」とも呼ばれる境界知能は統計学上、人口の約14%が該当します。成人でおよそ中学3年生程度の知的能力です。障害ではないので、行政の支援の対象外です。行政の福祉サービスを受けるには、療育手帳を取る必要がありますが、境界知能では、通常は手帳は取れません(ただし、発達障害で手帳を取れる可能性はあります)。
今、声を大にして申し上げたいのは「発達障害でも知的障害でもない境界知能の人たち」の存在です。今の福祉サービスでは、知的障害の人が受けられる支援や発達障害の人が受けられる支援の両方から外れてしまうのです。
後先を考えて行動するのが苦手
先述したKさんは、裁判中に「自首」や「殺める」といった言葉が理解できず、ごまかすために笑うなどして裁判長がいらだつ場面があったと報じられています。また、「自首を考えなかったのか」と問われ、「自首ってなんですか」と問い返し、「そんな制度があるなんて知らなかった」と答える場面があったそうです。
それでも、彼女の知的能力は「低いとはいえ正常範囲内で大きな問題はない」と裁判所では判断され、懲役5年の実刑判決が下されます。
一般的に、知的障害をもつ人は、後先を考えて行動するのが苦手です。境界知能の人にもその傾向はあります。これをやったらどうなるのか? 先のことを想像するのが苦手なのです。とくにあわてて何かをしなければいけないときに、後先を考えずに場当たり的に判断し、突発的な行動をしがちです。
真相はわかりませんが、Kさんは、計画性があったわけではなく、突発的に殺害してしまった可能性もあります。弁護側は最終弁論で「被告には、エントリーシートを埋めるようアドバイスをする人もいなかった。事件についても、相談できる人がいれば起きなかった」と主張したそうです。
うまく人に相談できないというのも、知的障害や境界知能によく見られる特徴です。とくに境界知能の場合、「やる気がない」「怠けている」ととらえられ、周囲の人に理解されないまま、挫折を重ねて孤立するケースが数多くあるのです。
証人として出廷したKさんの母親は、幼い頃から叱責を繰り返したと打ち明け、「苦しい気持ちを何ひとつわかっていなかった」と泣きながら証言したそうです。本来ならば、社会に出る前に家庭や学校で支援の道筋を立てる必要があったのに、と無念に思います。
知的障害の特徴が「身勝手で短絡的」に
さらにいえば、裁判長が判決文で述べた「身勝手で短絡的」に見えてしまうというのも、まさに知的障害の特徴のひとつとも思われます。先のことを想像して考えるのが苦手なので問題を先送りしたまま現実に直面し、場当たり的な行動に出てしまう可能性もあるのです。
ほかにも、
「空港職員等に助けを求めようともしていない」
「妊娠を隠し続け……これを直視せず、先送りしたまま出産を迎え……」
「問題解決が困難である際に姑息的(一時しのぎ)あるいは強引な行動に至る傾向があり……」
「母親に妊娠の事実を隠すなど……」
といった内容が書かれていました。困ったときに一人で抱え込んでしまい、融通を効かせて他者に助けを求めることが苦手だというのも、まさに知的障害の特徴のひとつと言えるかもしれません。
これだけ知的障害の特徴とも解釈できる様相を呈しているのに、知的な問題があるとは受け止められずに、本人の身勝手さ、思慮の浅さばかりが浮き彫りにされてしまったのです。
これは場合によっては冤罪にもつながりかねない大きな問題だと思っています。
「知的障害」「境界知能」をあまり知らない裁判官
先日もある県で裁判官向けに境界知能について講演をしたのですが、みなさん、知的障害についてすらあまりご存じではありませんでした。「知的障害ってそもそもどういう状態を指すのですか?」というレベルの方もおられました。「境界知能」であればさらに存じ上げない方も多いはずです。
そんな裁判官の方々が、被告人がおぼつかない言動をとり質問に適切に答えられない様子を見せても、知的な問題を疑うのは難しいと思いました。
知的障害があったとしても、気づかれずに「普通の人」として裁かれ、判決が下されることもあるわけです。これは恐ろしいことだと思います。この問題は、コミック版『ケーキの切れない非行少年たち』第4~5巻(新潮社)で描かせてもらっています。