経営統合のデスマーチ
地下鉄の駅でホームからじっと線路を見下ろしたことがある。
「私は何のために今ここにいるんやろ。このまま飛び込んだら楽になるかなぁ……」
深夜残業、休日出勤が数カ月つづき、心身ともに疲れ切っていた。
日本航空(JAL)と日本エアシステム(JAS)の経営統合が発表されたのは2001年11月。JASの大阪・伊丹空港に勤務していた簑原さんは、統合プロジェクトのメンバーに抜擢され、翌02年に本社の空港本部へ異動になった。初めての東京勤務だった。
初めは緩やかだった統合プロジェクトは徐々に加速していく。メンタルを壊す同僚が続出する、過酷なサバイバルゲームに変容していった。
簑原さんは、空港業務の統合やシステム移行に忙殺された。期日までに膨大な業務を終わらせるため、やむなく現場スタッフに無理を強いる。職場ではやりきれない思いが広がり、関西育ちで陽気な性格の簑原でも人間不信に陥る寸前だった。
深夜にタクシーで帰宅して3時間ほど眠り、すぐまた出勤することも珍しくなかった。土日も出勤し、完全に休めるのは月に2日ぐらい。
長時間労働は判断ミスを招く。簑原さんは、JALの問題解決の仕組みを導入せよという要請に抵抗した。その仕組みは、現場情報が管理部門にすぐ伝わり、組織的に対応できる点が優れていた。しかしJASでは現場の問題解決力を重要視していたため、「本部任せになってスタッフの責任感や現場力が落ちる」と期日ギリギリまで踏ん張った。
だが、抵抗のかいなくその仕組みは導入された。簑原さんは、JASの現場スタッフから厳しく非難される。
「抵抗したい気持ちはわかりますけど、できないことは初めからやらないでください」
簑原さんの踏ん張りは、現場スタッフから見れば、制度変更の準備期間を縮め、忙しさを増しただけだった。
「なんで私が死ななあかんの」
駅のホームから線路を見下ろしたとき、簑原さんの肉体と精神は限界を超えていた。
だが、よくない考えにとらわれたのはほんの一瞬だった。
「ちょっと待ってよ。なんで私が死ななあかんの。絶対おかしいって」
冷静さを取り戻した。ここまで追い詰められたのだから会社を辞めようと思う一方、苦しい状況からただ逃げだすのは我慢できなかった。
「こうなったら、統合プロジェクトで自分の目標を決めて、入社20年でやり切って辞めるぞ。残り2年間を駆け抜けたる」
持ち前の負けん気が湧き上がってきた。
新入社員の頃から先輩や上司に忖度せず、生意気だとにらまれようが、正しいと思ったことはハッキリ主張して行動してきた。統合プロジェクトでもその姿勢は変わらない。JAL側のメンバーから「そこまで言ったら潰されるぞ」と助言されたくらいだ。
なかには簑原さんのやる気と仕事ぶりを高く評価する人たちもいた。「空港本部の次はぜひウチの部署にきてほしい」とJAL社内からスカウトがあり、最後はその部署で航空業界を卒業することになる。
小学生の頃からキャリアデザインを意識していた
簑原さんが短大を卒業してJASに就職したのは1986年4月。ちょうど男女雇用機会均等法が施行されるのと同時だった。
「航空会社に憧れたわけじゃなく、男女同一賃金で女性が活躍できそうな会社だと思って選びました。女性でも手に職を持て! 経済力をつけろ! と父に言われつづけ、短大では得意な英文科を受験せず、幼児教育を勉強して保母さんの資格を取りました。ただ、保母さんはいざというときの資格で、企業に就職するつもりでした。小学生の頃からキャリアデザインは意識していましたね」
勤務地の伊丹空港は、実家から通えた。「グランドホステス(グランドスタッフ)」と呼ばれる地上勤務の仕事は、航空法に約款、チェックインカウンターやゲートでの顧客対応をはじめとして覚えることが山ほどあった。
「入社した頃は教育の質が高くないうえに、先輩に何度も質問したら怒られ、挙げ句に間違った答えが返ってくることがたびたびでした。これではやってられないと、業務マニュアルを全部コピーして、家に持ち帰って夜な夜な勉強しました。先輩から何か質問されたら、即座に完璧な答えを返してやろうと(笑)」
86年はバブル経済の入り口でもある。好景気で忙しく働きながらもめちゃくちゃ遊ぶ。仕事も遊びもイケイケドンドンの時代だった。
職場婚で女性側が異動する慣習が納得できず、婚約を破棄
24歳の時に同じ職場の男性と婚約した。結婚後は同じ職場にいられない決まりがあり、どちらか異動になる。相手の男性が空港に残り、簑原さんが予約センターへ移ったらいいと言われた。男女同一賃金といいながら、女性のほうが当たり前のように異動させられる慣例にカチンときた。
「なんで私が異動せなあかんの。おかしいやん」と、納得がいかない簑原さんは婚約を破棄する。
社内恋愛が破局すると、心ない噂が飛び交う。ストレスから飲み歩き、深夜にタクシーで帰宅することが増えた。休日は疲れて家でグダグダしていた。
破局のストレスでグダグダしていた娘に父が放った言葉
「おまえはまったく会社に貢献していない。辞めてしまえ!」
乱れた生活を見かねて一喝したのは父親だった。
父は、発電関連の自動制御技術をメインとした社員70人の商社とエンジニアリング会社を経営していた。戦時中は特攻隊に志願し、最年少だったため生き残ったという父だった。
「うちの会社なら、おまえみたいなクズ社員はいらん。どうすれば会社に貢献できるか考えろ。半年で答えが出なければ辞めろ」
父親としての小言ではなく、経営者としての叱責。半年の期限を切られ、簑原さんはマインドを入れ替える。
「自分でもビックリするぐらい仕事をがんばりました。社外の各種セミナーや習い事など自己啓発に努め、自費で100万円以上を使いました」
会社への貢献を模索する簑原さんに、本社から思いがけない依頼が舞い込む。クリスマス用のボーディングパス(搭乗券)をデザインする仕事。デザイナー経験はないものの、子どもの頃から絵は得意だった。簑原さんの画力を知っていた同僚が伊丹空港から本社へ異動し、急ぎで必要となった搭乗券の絵を頼んできたのだ。
簑原さんが描いたサンタやトナカイは大好評で、全国の空港で乗客たちの手に渡った。社内で評判となり、次に電光掲示板のデザインを頼まれた。
答えを出す期限が近づき、伊丹空港へ父を連れていくと、電光掲示板を眺めて「まだいけそうだな」とだけ言われ、会社に貢献できることを示せた。婚約破棄で乱れていた心に火をつけてくれた父。仕事への姿勢が大きく変化した。
27歳と30歳の時に訪れた「結婚か仕事か」の選択
マインドを切り替えた簑原さんは、新しい仕事に次々と挑戦していく。26歳で現場リーダーに選ばれ、社内研修の教官も務めた。
「結婚か仕事かの選択が27歳、30歳にもあって、やっぱり仕事を選びました。仕事がどんどんおもしろくなり、恋愛もしながら自分磨きを楽しんだ時期です。人材育成のリーダーたちと社内横断的に協力し、組織改革にも取り組みました」
空港の業務全般を教えられる運送教官に選ばれたのは30歳。社内に数人しかいない立場だ。
「天職にめぐり合えたと思いました。人の成長に関われる喜びを感じながら、問題意識が強いことを生かして教育制度や業務マニュアルを見直しました。改革を通して社内外の仲間も増えました」
仕事の幅が一気に広がっていく。カナダの空港でチャーター便のスーパーバイザーを務め、社内で停滞していた新制服プロジェクトを立て直し、JASのブランディングを検討する全社プロジェクトにも参画した。全国の教官を養成するインストラクターにもなった。
東京転勤を命じられたのは2002年1月、36歳の時だった。自動チェックイン機の開発運用担当となり、メーカーの開発者と協力して機械の導入を進めた。慣れない本社の仕事と東京生活に一時はストレスが溜まったものの、2年もたてば空港本部の仕事でわからないことはほぼなくなった。プライベートでも友人が増え、習い事や遊びも充実してきた。
「あと2年がんばって辞める」
「東京生活に慣れてノリノリだったとき、JALとの統合が一気に進みはじめて、サバイバルゲームに突入しました。お休みは月2日ぐらいだから、習い事や遊びの時間なんてない。スタッフの多くがメンタルをおかしくする。ミスやトラブルが増える。パワハラやモラハラが横行しだして人間不信に陥る。悪循環でした」
過酷な状況が続いても、「あと2年だけがんばって辞める」と決めたら悩みが吹っ切れた。
しかし統合後は、JAS時代と違って社内ネットワークがないため、思いどおりに仕事が進まない。簑原さんが会議を開くと参加者はわずかで、決議に不可欠な関係者がみんな欠席したこともあった。
途方に暮れたときに助けてくれたのが、同じ部署にいたJALの仲間だった。簑原さんの想いに共感してくれた仲間が関係各所に連絡し、会議に参加するよう動いてくれたのだ。
組織を動かすことに試行錯誤しながら、最後はJALの仲間とともに新サービスの導入やサービスの品質向上など、無事にやり切ることができた。
夢は40歳で起業
2004年4月の経営統合から2年後、2006年4月に丸20年勤めた会社を退職。1年ほどアメリカ、カナダ、中国などを旅しながら今後の計画を練った。もともと40歳になったら起業したいという夢があった。キャリアコンサルタントの資格も活用し、働く女性のキャリア支援を事業化しようと構想した。同時にエステ、ネイル、整体など働く女性たちに心身のメンテナンスを総合的に提供するビジネスも考えていた。
簑原さん自身が多忙な時期に、欲しいと思ったサービスだった。事業計画書を作成するトレーニングを受け、自治体から補助金をもらう方法なども調べた。
「ところが、起業の準備を進めるうちに、自分は航空会社しか知らない井の中の蛙だと気づいたんです。いったんコンサルタント会社で修業したほうがいいと考えました」
コンサルタント会社の中途採用にいくつか応募して面接に出かけていた頃、元同僚が「この会社、君にピッタリじゃないの?」とメールを送ってくれた。URLをクリックして開いたのがスコラ・コンサルトのホームページ。その元同僚は以前、スコラ・コンサルトの創業者である柴田昌治氏の著書をプレゼントしてくれたことがあった。
スコラ・コンサルトは主に企業の組織風土改革を支援し、柴田氏の『なぜ会社は変われないのか』はシリーズ累計で約40万部を超えるベストセラーだと知っていた。同社のコンサルタントはプロセスデザイナーと呼ばれ、クライアント企業の現場に入って社員たちと一緒に風土改革に取り組んでいく。
「経営統合の経験から、組織風土に対する問題意識があったんですね。新しい価値を生み出す目的が統合なのに、みんな疲弊してミスが増え、メンタルを壊していったのは組織風土にも原因があったんじゃないかなと」
簑原さんは1年の充電期間を終え、2007年4月にスコラ・コンサルトのプロセスデザイナーとなった。
クライアントから5時間の説教
初めての仕事は戸惑うことばかり。航空会社の統合プロジェクトで身に付けたノウハウはほとんど通用しなかった。クライアントとぶつかることもたびたびあった。
「経営統合の時のガンガンやる勢いで改革を進めたら、抵抗されて当然ですよね。最初に担当した会社で、役員たちとの会食中に5時間近く説教されました。『俺たちの会社でお前の会社じゃない!』とか。こっちは一生懸命なのになぜ? と涙ぐんだことが何回もありました。私がグイグイ組織に入り込むものだから追い出されたこともあります(笑)」
プロセスデザイナーの役割と仕事のツボがわかってくると、ストレスは減り、クライアント数も増えてきた。
やりがいを感じはじめた頃、プライベートで問題が起きた。2012年に母が末期がんだとわかり、余命数カ月と宣告されたのだ。簑原さんは介護休暇をとって大阪の実家に帰った。24時間在宅介護は5カ月つづき、最愛の母は永眠した。
簑原さんのショックは大きく、仕事に復帰しても以前のように快活に働けない。ようやく立ち直れたのは、母の三回忌が過ぎた頃だった。
簑原さんは長い停滞期を取り戻すようにエネルギッシュに活動しはじめる。コンサルティングのかたわら、ラジオ番組に出演し、セミナーや講演にも力を入れた。2020年には初めての著書『全員参画経営』を上梓した。
社員の総選挙で社長に選出
スコラ・コンサルトの代表取締役に選ばれたのは2021年3月。選ばれたというのは、社員全員による投票で決まったからだ。
「AKBみたいな総選挙です(笑)。つまり、候補者は全社員。最初の投票で3人に絞られ、自分はどんな会社にしたいかとマニフェストをプレゼンして決選投票に進むしくみです」
社長の任期は1年。2期やり切って降りるつもりだった。だが、2期目が終わる頃、簑原さんから「3年目もやらせてもらいます」と宣言すると、誰からも異議は出なかったのでそのまま3期目も続投となった。
「1年目は業績を上げること、2年目は経営基盤を盤石にすることに努めました。3年目は会社の持続性を高めるための新しい挑戦に取り組んでいます。やりたいことはまだまだありますよ」
生意気な新人だった簑原さんが、周囲との軋轢や数々の失敗を乗り越えて成長してきたことがわかる。社員の支持を受けて社長になった現在も挑戦はつづいている。
役員の素顔に迫るQ&A
Q 好きな言葉
慌てず焦らず努力する。いつか必ず報われる。
「スコラの仕事に慣れず悶々としていた頃、父からメールで届いたメッセージです。たしかに報われました」
Q 愛読書
アーノルド・ミンデル著、青木聡訳『紛争の心理学 融合の炎のワーク』(講談社現代新書)
Q趣味
筋トレ、ウオーキング、絵を描くこと、旅行、歌うこと
Q Favorite item
Pret-a Walkingのスニーカー
「歩くと前向きになり、モヤモヤしていることも整理され、答えが出ます」