※本稿は、トミヤマユキコ『女子マンガに答えがある 「らしさ」をはみ出すヒロインたち』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
貧しい女の背景にある社会的構造
ジェンダー平等について女子学生たちと話すと、「わたしは差別された経験がない」と語る人が必ず出てくる。目に見える形で差別的な扱いを受けた経験がないので、世の中もおおむねそのようなものだと認識しているらしい。かつてはひどい差別があったようだが、いまの世の中はずいぶん進歩したし、これからも進歩し続けるだろう。そんな肌感覚を持っているのがわかる。
しかしながら、自分の肌感覚だけで世の中を正確に見通せるわけではない。たとえば、女性社員の賃金は男性社員のおよそ75%だと言われている(厚生労働省・令和3年賃金構造基本統計調査)。非正規雇用も含めての給与平均は、男性545万円に対して、女性302万円だ(国税庁・令和2年分民間給与実態統計調査)。この数字を見るだけでも、ジェンダー平等が達成されたと言える状況にないのがわかるだろう。
自分が気づいていないだけで、差別はあるかも。自分は差別から縁遠いところにいるけれど、どこかの誰かは苦労しているかも。そう考えるのが実態に即している。
ここでは貧しい女について考えていくが、マンガの中でも現実世界でも、貧しい女の背景には、貧困女性を生み出す社会的構造があるのだということを忘れないようにしたい。それはあまりに強固であり、個人の努力ではどうにもならないケースも多いのだ。
大学でもアルバイトが忙しすぎて勉強するヒマがないという学生が本当に増えた(これは女子だけではなく男子もだが)。おこづかいのためではなく、生活費や学費を稼ぐためのバイトだから休めない。より稼ぐために、水商売や性風俗の仕事をしている学生も珍しくはない。それを気の毒に思っているわたし自身も、大学院生時代に借りたウン百万の奨学金を返済中の身。女たちは景気の悪い話に事欠かない。
貧しい女とは、赤の他人のことではなく、あるときは自分自身のことであり、またあるときはすぐそばにいる知人友人のことである。
貧しい女に「萌えてしまう」感覚
女子マンガのご先祖さまとも言うべき明治・大正の少女小説を読んでいると、貧しい女の物語には昔から一定の需要があるのだとわかる。父を病気で亡くして苦労する母娘の話や、両親を亡くしたお姉ちゃんが弟を養おうとがんばる話や、家計補助のために職業婦人になる女の話、などなど。どの作品においても、貧しさからくる困難がある種の「エモさ」を喚起する仕掛けになっている。
貧しい女の人生は、かわいそうで、健気で、だからこそグッときてしまう。貧しい女に萌えてしまうこの感覚、善し悪しはともかく、フィクションであれば許される(ということになっている)感覚であり、わたしにも身におぼえがある。
1979年生まれのわたしにとって幼少期の娯楽と言えば、テレビアニメ「世界名作劇場」シリーズを観ることであり、それは貧しい女の宝庫でもあった。『赤毛のアン』も『私のあしながおじさん』も、みんな貧しい女の子が主人公だ。
なかでもとりわけ貧しかったのは『小公女セーラ』。良家の子女「セーラ」は、父親の死という運命のいたずらによって、極貧の小間使いへと転落する。女子寮の一等いい部屋から、屋根裏のボロ部屋へ。壮絶ないじめに遭いながらも前向きに生きようとするセーラのことが、わたしは大好きだった。
セーラごっこをやったこともある。「本当は超お嬢様なんだけど、いろいろあって今はこんな暮らしをしているの……」という設定で家事を手伝うと、むちゃくちゃ捗(はかど)った。本気の貧困など経験したことのない人間が貧しい女を演じてうっとりするのは、なかなかにいびつな構図だが(昔のわたしよ、貧困をエンタメ消費するな)、幼いわたしにとって、セーラのかわいそうな境遇は本当に魅力的だった。
苦難に耐えた貧しい女が男に救済されるストーリー
ラスト近くになって、セーラは貧乏暮らしからの脱出に成功する。亡父の盟友がやってきて、実はセーラに多額の遺産があると教えてくれるのだ。セーラをいじめていたやつらにはそれ相応の罰が与えられ、彼女をいじめなかった者にはそれ相応の厚遇が約束され、物語は幕を下ろす。
セーラの物語は「苦難に耐えた貧しい女は、いずれ救済され褒美を与えられる」というメッセージを含んでいる。そして、その褒美を与えるのは男だ。それってつまり、ある種のシンデレラ・ストーリーであり、非現実的なおとぎ話なんじゃないだろうか。そう考えると、昔のようにはうっとりできないわたしである。
できることなら、貧しい女がもっと別の形で幸せになる手立てが欲しい。男の助けをただ待つだけなんて、つまらないじゃないか。
主人公は「庶民の女で、かつ貧乏」
これが現代の女子マンガとなると、ちょっと事情が違ってくる。まず、少女小説の時代から存在する「良家の子女が貧しい女になる」という転落劇は人気がなくて、男による救済も必須ではない。ベタなシンデレラ・ストーリーは後景に退いており、それに代わって前景化したのが「庶民の女で、かつ貧乏」という設定だ。これが現実のわたしたちと重ねやすい設定なのは言うまでもない。
たとえば、池辺葵『プリンセスメゾン』の「沼ちゃん」こと「沼越幸」は、「年収250万円ちょっと」の居酒屋従業員である。アパートの部屋は畳敷きで、どうやらエアコンがないらしく、夏はかなり寝苦しそうだ。来客時には、ひとつしかない湯飲みを客に差し出し、自分はお茶碗を使っている。
そんな彼女には、マンションを買うという夢がある。お金持ちじゃないから、即決はできない。そのため、モデルルーム巡りを繰り返し、理想の部屋に出会える日を待ち続けている。
あまりに熱心なので、持井不動産の社員である「伊達政一」をはじめとするスタッフたちからも、マンションにすごく詳しい客として一目置かれているほどだ。
居酒屋の同僚は、沼ちゃんがモデルルーム巡りをしていると知って驚く。「モデルルームなんか見ても、空しくないっすかー。」「俺らみたいな収入でマンション買うとか無理っしょ。」「俺らなんかの手の届く夢じゃないっすよ。」「マンション購入なんて、まぼろしっす。まぼろし……」
この社会は庶民を萎縮させるのがとてもうまい。庶民が大それた夢など見るものではない、と抑制モードに入ってしまうのは、彼だけではないだろう。
けれど、沼ちゃんは「努力すればできるかもしれないこと、/できないって想像だけで決めつけて、やってみもせずに勝手に卑屈になっちゃだめだよ。」と同僚をたしなめ、「マンション買うなんて、すごい大きい夢に迷わず向かっていって……」と感心するモデルルームスタッフに「大きい夢なんかじゃありません。自分次第で手の届く目標です。家を買うのに、/自分以外の誰の心もいらないんですから。」と語る。淡々としてはいるが、とても力強い言葉だ。
自分の居場所は自力で手に入れる
大富豪になる大どんでん返しも、苦境から救ってくれる王子様も、沼ちゃんは求めていない。彼女にとって大事なのは、自分の居場所を自力で手に入れることである。
なぜこんなにも居場所にこだわるのか。そこには、幼い頃に両親を亡くし、親戚の家で育てられた過去や、はじめてのひとり暮らしで賃貸物件を借りるのに保証人が必要だった経験が関係している。誰かの助けを借りずに自分の居場所を確保したい。それが彼女の望みなのである。その点、分譲物件であれば保証人を探す必要はなく、自分の力だけで居場所を手に入れられる。
しかも本作は、もともと三井不動産のサイトで連載していたので、沼ちゃんのスペックだとこんな物件が買える、という部分は、かなりリアルに描かれている。フィクションだけれど、真実味があるのだ。
沼ちゃんが居場所を求めるワケ
沼ちゃんが貧しい女であることをものともせずマンションを買おうとする背景には、居場所を希求する切実な事情がある。
女子マンガが居場所の問題を描く際、「愛する人の側にいられるかどうか」「職場に自分のいる意味があるかどうか」を巡ることが多いが、これらの居場所はどうしても抽象的なものにならざるを得ない。しかし『プリンセスメゾン』では、マンションという具体的な居場所を巡る物語になっている。目に見えて、手で触れることができる居場所も、女子を幸せにする。このメッセージは、これまでありそうでなかったものだ。
白馬に乗った王子様に見初められ、彼の実家=お城で暮らすのが、シンデレラ・ストーリーの定型だとすれば、ひとりでお城を購入するプリンセスというのは、かなり型破りである。
モデルルームの受付担当で、やがて沼ちゃんと親友になる「要理子」が沼ちゃんを見て感じた「恋してなくても毎日を愛おしむことはできるんだって、/孤独が心をむしばむことなんてないんだって」という思いも、恋愛至上主義の呪いを解くようで小気味いい。ずっと沼ちゃんを担当していた伊達が「沼越さまは小さな巨人ですね」と語るが、本当にその通りだと思う。
沼ちゃんの人生は地味だがすごい。しかし、彼女のすごさはネオリベ(新自由主義)的な自己責任論に回帰するものではない。貧しい女がひとりでなんかうまいことやっている、というだけの話ではないのだ。
マンガに影響されて家を買う
マンションを買う貧しい女(しかも独身)に対する戸惑いや偏見を描くシーンが散見されることからも、本作がマジョリティの抱く価値観に抵抗を試みながら少しずつ前進する話として構築されているのがわかる。
ついでに言うと、沼ちゃんには、手のひらを相手に向けてぐっと突き出し「NO」を表現するクセがあるが、あれなどは身体に表れた抵抗の徴だと思う。あからさまな告発の形を取っていないだけで、沼ちゃんは世の中のいろんなことに対して「それはおかしい」「わたしは受け入れない」と思っているんじゃないだろうか。
ちなみに、わたしには本作に刺激を受けてマンション購入に踏み切った知り合いが何人もいる。フィクションだとわかっていても、自分に近しいと思える人物がささやかに暮らしながら大きな夢を叶える様子に、心動かされずにはいられなかったのだろう。
大の大人がマンガを読んで家を買う。それってすごいことだと思う。
古い団地に移り住んで得る幸せ
貧しい女に背中を押されると言えば、水凪トリ『しあわせは食べて寝て待て』もそういう作品である。一生付き合っていかねばならない免疫系の病気が発覚した主人公の「麦巻さとこ」は、疲れが出ないようフルタイムからパートへと働き方を変え、家賃の安い郊外の団地へと引っ越す。
それまでワーカホリックと言っていいような働き方をしていた彼女が、倹約をモットーとする貧しい女になったわけだが、不思議と悲壮感はなく、むしろ資本主義から半分降りたことによる解放感を味わっているように見える。
彼女が移り住んだ古い団地には、昔からの住人(主に老人)が暮らしている。彼らのコミュニティをうっとおしく感じることもあるけれど、都会にはなかったセーフティネットだから、頼もしく感じることもしばしばだ。
かつてのような水準の生活はできないけれど、心にも体にも優しい時間が確保されたことで、さとこは徐々に自分らしさを取り戻していく。都市型生活に疲れている読者は「こんな暮らしもアリだな」と思うに違いない。
沼ちゃんに影響された読者はマンションを買いたくなるが、さとこに影響された読者は団地に住みたくなるだろう。
貧しい男が貧しいまま幸福になる方法はないのか
とある講座でこの作品を読んだとき、女性よりも男性参加者が熱心に読んでいたのをいまも思い出す。彼らが言うには、男性向けのお仕事マンガはサラリーマンの出世を描くものが多く、働けなくなった人や、別の働き方を望んだりした人のことは、あまり教えてくれないのだという。
男らしさの押しつけがしんどい男性読者にとって、ひとつの仕事に一生を捧げるパワフルな男の人生ばかり読まされるのは、エンパワメントではなく苦行だろう。貧しい男はなにがなんでも成り上がらなくちゃいけないのか。貧しい男が貧しいまま幸福になる方法は本当にないのか。さとこのような生き方、働き方をもっと読みたい(知りたい)と語る彼らの思いは切実だ。
女子マンガの世界には、さとこや沼ちゃんのようなキャラクターがふつうに存在しているけれど、男性向け作品には滅多にいないと知って、なんとも言えない気持ちになった。貧しい男が穏やかに肯定される物語が、この国でなぜ生まれにくく、売れにくいのか(需要はあるのに)。そこにこの社会の病理が透けてみえる、と言ったら言いすぎだろうか。