※本稿は、鮎川潤『幸福な離婚 家庭裁判所の調停現場から』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
離婚を準備している妻
離婚はどのようなときに認められるのでしょうか。言うまでもなく結婚している夫婦が離婚しようと合意したときに離婚は可能です。現在の日本では、本人に加えて二名の証人の署名捺印がある離婚届を市町村役場や区役所に提出すればいいのです。
しかし、一方が離婚を望み他方が望まない場合や、離婚の条件が折り合わない場合はどうなるでしょうか。その場合は、家庭裁判所に夫婦関係(離婚)の調停を申し立てることになります。
本書では、若い10歳代で妊娠して結婚したケースをはじめとする20歳代の離婚のケースから、70代の高齢者の離婚までを検討しています。
本稿では、熟年の離婚について考察したいと思います。とりわけ30年以上結婚生活をともにし人生を一緒に歩んできた夫婦の離婚のケースを取り上げたいと思います。
もし二人三脚で400メートルを走るとして、陸上競技場のトラックの第四コーナーを曲がって、目の先に見えているゴールに入ろうとする直前で、パートナーが脚の紐をほどいてリタイアしてどこかへ行ってしまうようなものです。残されたほうは、予想もしなかったまさかの事態に呆然とした気持ちになってしまうに違いありません。
抜かりない女性、人生終盤の「道ならぬ恋」が目立つ男性
しかし、事情は男性と女性では大きく異なっているように思われます。女性の場合、とりわけ家族の主要な稼ぎ手が夫であり、妻がパートタイムなどで就労することがあったとしても、育児や家事を中心として生活してきた場合、離婚のタイミングを待っていたと推測されるケースが多々あります。子どもたちが成人して就職したり、その後結婚したりして家庭から巣立ったり、夫の定年退職――再雇用されてその会社に留まったり、関連企業へと移ったりする前の定年退職――まで、我慢を重ね、離婚を周到に準備している場合が多いと考えられます。
もうすぐ支給される退職金を含めて二人が形成した財産を分与することが遺漏なく計算されています。妻は夫の給与が振り込まれる銀行口座を管理し、夫には月々に少額の小遣いを与えて生活させ、他方で自分のパート収入のほうは夫の目の届かないところで貯蓄したり、小遣いとして自由に使ったりということが行われていたりもします。もちろん夫の収入だけでは家計や子どもの教育費を賄えず、パート収入が子どもの教育費や習いごとや塾の費用などに使われるということもあります。
男性にもこうした準備をした例がないわけではありません。夫のほうから退職を前に離婚を切り出し、ローンが完済した家も、退職金の半額も妻に与えると言って離婚したケースも見てきています。しかし、男性の場合、そうした以前から計画された例は少なく、むしろ、人生の最終段階で道ならぬ恋の最後の花を咲かせようとするケースが目につくように思われます。
夫の不倫を上司に告げ口する妻
〈年齢〉夫:50歳代後半 妻:50歳代後半
〈職業〉夫:会社員 妻:主婦
〈子ども〉二人:ともに20歳代で、すでに結婚
〈婚姻期間〉32年
〈背景〉家は妻の実家の敷地内に建てられており、ローンは完了
〈経緯〉夫から離婚の申立
夫は勤務先外の趣味のサークルで、ある女性と親しくなりました。相手女性は50歳代前半で、偶然、関連企業に勤務する独身の女性でした。一回の結婚ののち離婚し、自分の子ども一人はすでに結婚しています。夫の携帯電話を妻が見て、親しい内容のメールを目にして関係が発覚。妻が夫の会社へ出向いて夫の上司に、夫と相手女性の関係について相談しました。
さらに、妻は、夫の携帯電話を使って、サークルの幹部メンバーに自分はその女性と関係を持ったため、サークルを脱退するというメールを送ります。このサークルは文化系のサークルで夫は主宰者となっていて、文芸的な分野でも才能があり、メンバーをまとめたり、励まして引っ張っていくといった立場にあり、夫にとっては非常に重要な生きがいとなっていたものでした。
このメールの出来事によって夫は、家を出て賃貸マンションで生活を開始します。子どもたちは、母親から話を聞いて、父親を母親のもとへ引き戻そうと努力しますが、父親はそれに反発し、朝、女性宅から出勤するところを目撃されたりもします。
相手女性に500万円の慰謝料を請求
家庭裁判所へ夫が離婚を求める調停の申立をする以前に、妻はすでに夫の相手女性に対して、500万円の慰謝料を求める民事訴訟を地方裁判所へ提起しています。妻が夫に家庭か女性のいずれかを選択するように迫ったところ、夫は女性を選ぶと回答し、今回の申立に至っています。
家庭裁判所に離婚の調停が申し立てられる前に、当事者間で、また家族を交えて何度か話し合いがもたれ、激しい言葉の応酬がありました。とりわけ夫は、妻が会社へ出向いて夫の上司に「告げ口」をして対処を求めたり、サークルの幹部に勝手にメールを送りつけたりしたことに激怒しています。妻の行動は、会社での自分の信用を失わせたばかりではなく、自分が強い愛着を持ち中心的メンバーとして取り仕切ってきた文化サークルにおいて自分の顔を潰し、窮地に追い詰めたとして、激しい怒りを抱いています。
妻は提訴した夫の相手女性に対する高額の損害賠償を求める民事訴訟を、家庭裁判所での家事調停と同時並行的に、地方裁判所で進めています。また、妻の側は、夫の離婚の申立に対して、婚姻費用の申立をしています。
夫の離婚の希望に対して、妻は夫の不貞行為を非難し、離婚は断固として拒否します。調停とは話し合いで合意をめざすものです。したがって相手が強く拒否し、話し合いに応じなかったり、あまりにも両者の主張が大きくかけ離れていて妥協の余地がないと考えられる場合、話し合いは不調で、不成立ということで調停は終了します。夫婦関係(離婚)の調停は、「不成立」で終了しました。
しかし、話し合いが不調なのでどうしようもないと言って放棄してしまうことができない種類の事件があります。これは、「養育費」や「婚姻費用分担」――「婚姻費用」または「婚費」と略称で呼ばれています――などです。
どちらが婚姻費用を負担するか
親は離婚後も、引き続き子どもに対して、養育するために必要な費用を負担する義務が課せられています。また、夫婦には相互扶助の義務があります。したがって、離婚をする以前には、たとえ夫婦が別居していようとも、互いに生活を支える義務があります。夫と妻の収入に応じて、多いほうが少ないほうの生活を支える必要があります。たとえ離婚を望んでいても、夫婦は法律的に結婚が継続している限り――法律的に言えば婚姻関係にある限り――離婚が成立するかまたは他方が死亡して結婚が終了するまでは、多額の収入を得ているほうが少ないほうに毎月一定の金額を渡す必要があります。
妻は、家庭裁判所に婚姻費用分担の申立をしています。このケースでも、妻は、夫が調停の申立をする以前に自分たちで話し合ったときには、婚姻費用として、18万円を払うことを約束したと主張しました。これに対して、夫は10万円を主張しました。夫が家を出て、妻は引き続き家に居住し続けており、住居費がかからないことなどについても考慮し、最終的に12万円の婚姻費用で合意しました。今回のケースでは合意で終了しましたが、もし合意できなかった場合、「婚姻費用」や「養育費」は家事審判に回され、家庭裁判所の裁判官が決定します。
この夫婦は今後どうなるでしょうか。協議離婚できず、調停離婚もできませんでした。残された方法としては裁判離婚です。従来は地方裁判所で扱っていましたが、現在は家庭裁判所で扱っています。これは「人事訴訟」、略語で「人訴」と呼ばれています。この人事訴訟を起こすためには、家事調停を行っていることが必要条件となります。この後、夫は離婚訴訟へ向かうものと思われます。夫は、家事調停の申立を行った時点で、自分のケースは調停ではまとまらず、裁判を行うほかないと考えていたのではないかと推測されます。
裁判で離婚するための条件
日本において裁判で離婚するには、次の5つのうちの一つに該当すると裁判所が認定することが必要です。
第七七〇条
1 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
一 配偶者に不貞な行為があったとき。
二 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
三 配偶者の生死が三年以上明らかでないとき。
四 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
五 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
しかし、第二項では次のように述べられています。
妻に落ち度はなく離婚の成立は難しい
妻には嫉妬による激しい行動はありましたが、それは夫の不貞が発覚したことによるものであり、今までに妻の側に特段に落ち度らしいものは見当たりません。夫は妻が支配的だったと言います。今まで、さまざまに自分がしたかったことを妨害されて断念させられ、非常につらい思いをしてきたことを述べます。
確かに家を妻の実家の敷地内に建てており、それは必ずしも夫が望まなかったことかもしれません。また妻のほうが年上であり、夫が言うように、話し合いで自分としては理屈が通っていると考えることを言っても、まったく聞き入れられず押し切られてしまうところがあったのかもしれません。しかし、妻の話の内容や妻が話をするときの落ち着いた態度からも、妻に特段の問題があるようには思われません。
この場合、人事訴訟を起こしたとしても、不貞を行った夫からの離婚請求ということであり、いわゆる「有責配偶者」からの離婚請求に該当します。
被告――人事訴訟を含む民事裁判では、単純に、訴えたほうを「原告」、訴えられたほうを「被告」と呼びます。被告と呼ばれたからといって、言うまでもなく道徳的非難を浴びせられるわけではなく、また劣位に立つわけでもなく、原告と対等の立場にあります――である妻が離婚を拒否している以上、現在、裁判に訴えても離婚が認められる可能性は非常に低いと言えます(なお、刑事裁判でも、犯罪を行ったとして起訴された人を「被告」と呼んでいますが、正しい名称は「被告人」です)。離婚に至るには少なくとも今後5年程度の別居期間が必要になると考えられます。
離婚を拒否し婚姻費用を取ることで夫を罰することはできるが…
妻が、自分を捨てて別の女性に走った夫を罰したいと思えば、離婚を拒否し続け、婚姻費用を取るなどの方法によって二人を経済的に追い詰めることができます。婚姻費用とともに自分が借りたマンション代を払い、パートナーの生活を援助していくことはかなりの負担であり、とりわけ夫が退職したのちは、そうした経済的出費を維持することは容易ではないかもしれません。
妻は、婚姻費用などを課し続けることによって、二人の関係を破滅させることができるかもしれません。他方で、そうした困難な状況に直面することによって二人の愛情をより強固なものに変化させ、二人を結束させて難関に耐えさせていくことになるかもしれません。しかし、いずれの場合であっても、夫が再び妻のもとへ帰ってくることはないことだけは確かだと考えられます。
双方にとって「幸福な離婚」という観点から考えるならば、妻は、夫婦関係が破綻してしまっており、修復不可能なことを冷静に認識し、決断までしばらくの期間は要するかもしれませんが、離婚を容認し、人生の最後の段階で、ともに過ごしてきた長い年月について後味の悪い思いをしなくてすむようにしたほうがよいように思われます。自分が、今まで生きてきたのとは別のかたちで、残された人生を充実して送る道を自ら閉ざしてしまわないことが必要ではないかと考えられます。
というのは、離婚を引き延ばさなくても、夫にはすでに過酷な経済生活が待っており、十分に罰されており、妻は自宅も獲得でき、一定のレベルの経済生活を送ることが確保されていると考えられるからです(シングルになれば、夫と同じように、妻にも新たな配偶者が現れるかもしれません)。
退職金・年金・財産分与
これは調停離婚でも裁判離婚でも同様ですが、60歳で得られる退職金について、勤続年数のうち婚姻期間または同居期間――このケースの場合は勤続年数のうちで85.9%――は妻と折半することになります。この額は、すでに会社から資料をもらって試算されています。
年金についても、もともと個人に対して割り振られている国民年金の部分は除いて、大きなウェイトを占める厚生年金の部分については、勤続年数のうち婚姻期間または同居期間に関して、2008年4月1日より前の分については話し合いで決め、それ以降の分は、専業主婦で第三号被保険者である妻と折半することになります。