原作コミックはもちろん、TVアニメシリーズや劇場アニメも国民的人気を獲得している「名探偵コナン」。漫画やアニメ文化をウオッチする哲学者の谷川嘉浩さんは「『名探偵コナン』にあるのは、変形された探偵ものの面白さ。17歳の高校生・工藤新一が毒薬を飲まされて小学1年生の江戸川コナンとなり、社会的信用のない子供の立場から大人が起こした事件を解決していく。そこには子供の世界と大人の世界の緊張関係がある」という――。
『名探偵コナン』読売テレビ・日本テレビ系/毎週土曜日夜6:00放送~(一部地域を除く)
©青山剛昌/小学館・読売テレビ・TMS 1996
『名探偵コナン』読売テレビ・日本テレビ系/毎週土曜日夜6:00放送~(一部地域を除く)

原作漫画とTVシリーズを中心に「名探偵コナン」を考える

このあいだ「名探偵コナン」の映画シリーズが、映像のスペクタクルとなり、廃墟的な光景を先回りして都市に投影するような想像力を持っているという記事を書きました。「なぜ大人も映画館に『名探偵コナン』を見に行くのか…年800冊の漫画を読む哲学者が語る"知られざる魅力"」というタイトルです。

現在公開中の映画『名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』は、前回の記事を書いたときには興行収入が125億円を突破したということで話題になっていたのですが、今や131億円を突破し、歴代映画の中で25位になったそうです。具体的には、『スターウォーズ エピソード1』を抜き、『ジュラシックパーク』も超え、観客動員数も926万人を数えています。

この記事では、引き続き「名探偵コナン」を取り上げるつもりです。前回は映画の映像的な特徴に注目して論じたので、今回は漫画とTVアニメ版を中心にコナンの物語世界が持つ「構造」に踏み込んでみたいと思います。

キーワードは、〈子供の世界〉と〈大人の世界〉です。これらの緊張関係を抱え込んでいるがゆえに、コナンの物語世界は、「探偵もの」という観点からみて独特な構造を持っていると指摘していきます。

「変形された探偵もの」としての面白さ

まず、コナンというお話が持つ構造について考える上で、「探偵もの」であるという事実から始めましょう。

探偵ものというと、オーギュスト・デュパン、シャーロック・ホームズ、ミス・マープル、エルキュール・ポワロ、コーデリア・グレイ、エラリー・クイーン、金田一耕助など、綺羅星のように魅力的なキャラクターたちが思い出されます。こういう探偵たちは、自らの知性を発揮して観察・調査し、時に警察と協力しながら、推理を積み上げて謎の解決を目指し、最後には、関係者を一堂に集めて推理を披露します。

「名探偵コナン」は、「探偵」の名を冠していることからわかる通り、こうした物語の延長に置かれています。なんたって、江戸川コナンは江戸川乱歩とコナン・ドイルから、アガサ博士はアガサ・クリスティから……など、探偵小説のキーワードが作品内に散りばめられているくらいです。

けれども、コナンは探偵ものとして奇妙な構造を持っています。小学校1年生であるコナンが「探偵」を担っていることです。子供が探偵をやるという奇妙さに、コナンの面白さの一つがあります。

子供探偵がさまざまな困難に直面するおかしみ

「子供探偵」という設定の奇妙さを掘り下げてみましょう。主人公の江戸川コナンは並外れた観察力や知性を持ち、名探偵の資質を備えていますが、小学1年生の見た目をしています。だから、彼の言葉がまともに聞かれることもなければ、安全に調査することもできないのです。

そうなると、探偵の一連の流れを実行しようとすると、いろいろな困難に直面せざるをえなくなります。この探偵ものとしてのズレっぷりが、物語を駆動するトラブルやドラマ、あるいはコメディー(おかしみ)を生じさせていきます。

具体的に言えば、彼は子供であるという理由で、探偵が従事する一連の流れのうち、「推理」以外のすべてから締め出されているのです。本作の序盤では、締め出されるがゆえに直面するトラブルや困難が、「名探偵コナン」の魅力を生み出しています。

2023年7月8日放送「天才レストラン」より
©青山剛昌/小学館・読売テレビ・TMS 1996
2023年7月8日放送「天才レストラン」より

しかし、探偵ものの定石を崩すことで生まれていたドラマは、ある程度話数を重ねてくると様式化していきます。つまり、探偵ものからズレた奇妙な行動が、いかにもコナンの世界らしい定石になっていくのです。

これは、探偵ものとしての「あるある」からのズレを面白がるフェーズから、「コナンっていつもこうだよね」と、コナンの定石をファンたちに面白がってもらうフェーズにコンテンツが転換したことを意味しています。コナン独自の「あるある」(=様式)を仲間内で共有できるようになるわけですね。

シリーズ化する上で「あるある」が生まれることの意味

少し話は逸れますが、作品の様式(スタイル)ができあがることについても触れておきたいと思います。様式は、コンテンツの力が貧弱なら観客を飽きさせかねないのですが、うまく実装されさえすれば、ファンたちをますますのめり込ませる力があります。

様式化されてしまえばこちらのもので、今度は、そのルーティン化した奇妙な様式自体が、ファンコミュニティーにとっては魅力的に見えてきます。というのは、自己言及ができるからです。例えば、コナン映画の定石の奇妙さをコメディーに仕立て、公式のスピンオフ作品『名探偵コナン 犯人の犯沢さん』(2017~)が出版されていますし、作中では探偵の毛利小五郎が行く場所行く場所で殺人事件が頻発するので、本編では「お前は死神か」という軽口まで出てくるくらいです。

灰原哀や安室透や赤井秀一の人気はファンが成熟したから

歌舞伎では、見得が出てきたら拍手や掛け声が入ることがあります。それから、ミュージシャンにはファンたちの呼び名があったり(BTSならARMYだとか)、あるあるのコミュニケーションがあったり(星野源ならニセ明だとか)します。そういう様式化されたやりとりの共有は、そのコミュニティーの結びつきを高めてくれるのです。

また、様式化にはもうひとつメリットがあります。それは、キャラクターを立てることに注力できることです。事件を解決するプロセスで必要なことを様式に訴えて省力化することで、キャラクターの魅力を描くことに時間をかけることができるのです。

灰原哀、安室透や赤井秀一をはじめとする魅力的なキャラクターたちが際立って感じられるのは、ファンコミュニティーが様式に十分慣れ、キャラクターを描くことに時間を割けるほど成熟したからだと言えそうです。

安室透と赤井秀一
©青山剛昌/小学館・読売テレビ・TMS 1996

事件を起こす大人、推理する子供

「名探偵コナン」は探偵が子供なので探偵ものとして奇妙であり、それがドラマを生んだり、中盤以降は様式を生んだりして、コナンの面白さを形作っているのだと指摘しました。

続けて「子供」という論点を深めていきましょう。コナンでは、計画的であれ突発的であれ、すべての犯罪が大人によって行われます。つまり、事件は〈大人の世界〉で起きるわけですが、コナンは〈子供の世界〉に属しています。コナンでは、〈大人の世界〉と〈子供の世界〉という対比があちこちに埋め込まれているのです。

例えば、事件の経緯をコナンが情報収集と推理によって見通したとしても、〈子供の世界〉に属する彼の推理は、〈大人の世界〉には届きません。犯人がわかっても、警察や大人の探偵はまともに取り合わないからです。それに、武器なしのタイマン勝負では、大人である犯人に、小学1年生であるコナンは肉体的にかなうわけもありません。

要するに、言葉・安全・体力などさまざまな面で、コナンは〈大人の世界〉に対して劣った位置に置かれているため、独力では探偵仕事をやりおおせられないのです。だから、探偵としての役割を果たすには、機転を利かせたり、道具を使ったり、誰かを頼ったりする必要が出てきます。

コナンは自分の声で推理を伝えられない「弱い」探偵

コナンの直面する困難の最も大きいものは、自分の推理を自分の声では伝えられないことでしょう(誰が小学1年生の推理をまじめに聞くでしょうか)。それゆえ、探偵として推理を披露するために、コナンは周囲の大人をラジコンのように操作しなければなりません。

大抵の場合、居候先の探偵である毛利小五郎を麻酔針(!)によって眠らせて近くに隠れ、彼の声を特殊なボイスチェンジャーによってまねて、その声で推理を話すというやり方をとります。それが難しいときは、わざわざ推理のヒントになるような素朴な質問を投げかけ、警察や小五郎に真実へ誘導することもあります。いずれにせよ、〈大人の世界〉で通用するように、コナンは他者の声で話さなければならないわけです。

コナンと毛利小五郎
©青山剛昌/小学館・読売テレビ・TMS 1996

先に述べた「麻酔針」や「特殊なボイスチェンジャー」は、コナンの秘密を知る協力者の一人である阿笠あがさ博士が開発した発明品です。コナンは主要な女性キャラクターたちにも依存しています。彼女たちはみな武闘派なのですが、コナンは自分で人を守るだけでなく、彼女たちに守られることにも慣れていきます。

こうして他者に依存せざるをえない「弱さ」に、旧来の探偵物語との大きな違いがあります。大人の名探偵は、独力か、せいぜいバディの力を借りて何とかしようとしますが、コナンは他者に依存することでしか「探偵」になれないのです。

「嘘」によって事件と接続する子供たち

子供としての「弱さ」を受け入れる姿勢は、別の面白さにもつながっていきます。事件と接続するために、子供たちがカジュアルに嘘をつくことです。

コナンの物語世界では、基本的には、大人が事件を起こして、子供が捜査・推理します。しかし、子供は〈大人の世界〉から排除されているわけですから、単純に考えれば、まともに探偵の役割を担えません。そこで登場するのが、子供たちによる「カジュアルな嘘」です。

建前として、子供には嘘をつくべきではないと語られることがよくあります。しかし、作中でコナンをはじめとする子供たちは、事件や謎に主体的に関わるために、遠慮なく嘘をついていきます。(正直に話しても大人は相手にしないから仕方がありません。)。

よくある嘘としては、ボイスチェンジャーを使って、警察や小五郎のふりをして電話をかけ、関係者を呼び出すというものがあります。ファンはコナンの「あるある」に慣れているので、あれが嘘であることを意識すらしていないかもしれませんが、こういう方便は随所に見られます。

「毛利小五郎の手伝いだ」と偽って、事件関係者から話を聞いたり、警察に調べものを頼んだりすることもあれば、「子供は危ないからここにいなさい」と言われて、「はーい」と答えながらもそれを無視することもよくあります。

犯人のつく嘘と、子供のつく嘘の違い

注意してほしいのは、この嘘が、誰かを貶めたり、自分をよく見せようとしたりする嘘ではないことです。子供たちは、探偵として、〈大人の世界〉に接続し、大人の起こした事件や謎を解決するために嘘をついているからです。

この嘘は、犯罪に伴う嘘とは対照的です。犯人は、詐欺を働いたり、偽証をしたり、証拠を捏造ねつぞうして誰かを貶めたり、言い逃れをしたりしています。しかし、そういう虚栄心からくる嘘で見えなくなった真実を見つけ出すために、子供たちは嘘をついています。

大人の探偵役が果たせなかった役割を、子供が嘘をつくことによって代替していくという設定もまた、コナンを独特な探偵ものにしている一つの要因です。騙し合いを主題にした物語(コンゲームなど)ではないのに、これほど嘘の登場する作品は珍しいかもしれません。

映画『名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』©2023青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
映画『名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』©2023青山剛昌/名探偵コナン製作委員会

『黒鉄の魚影(サブマリン)』における子供と大人の対話

〈子供の世界〉というキーワードで、コナンの物語世界が持っている独特な構造を掘り下げてきました。コナンの面白さの一つはここにあるとさえ言えるのですが、コナン映画の最新作である『黒鉄の魚影』も、実はこの観点からみて興味深い作品だと言えます。

今回の主役の一人である灰原哀は、元々は科学者だったところを薬によって幼児化し、小学校1年生になっているのですが、その彼女が、映画オリジナルキャラクターである直美・アルジェントと交わす会話に注目しましょう。

直美は、作中に出てくる「パシフィック・ブイ」と呼ばれる巨大海上建築で採用される情報処理システムの基礎を作ったエンジニアで、大人にほかならず、直美にとって灰原は一人の子供にすぎません。しかし直美は、灰原を〈子供の世界〉に属する存在として侮らず、対等な協力者として尊重しながら言葉を交わしました。

灰原哀
映画『名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』©2023青山剛昌/名探偵コナン製作委員会

通常の場合、大人は子供を〈大人の世界〉に関わらせません。しかし、直美はそのように灰原を扱いませんでした。やむを得ない瞬間だけ灰原を対話相手と認めるのではなく、そうでないタイミングでも、灰原をずっと対等なパートナーとして扱い、一緒に危機へと立ち向かっていました。

直美と灰原の会話を通して『黒鉄の魚影』は、コナンの物語世界を特徴づける〈大人の世界〉と〈子供の世界〉の緊張関係が乗り越えられた景色を描いているのです。「名探偵コナン」が、そもそも〈大人の世界〉と〈子供の世界〉の緊張関係を抱え込んだ作品である以上、このシーンはシリーズ全体を通しても非常に印象深く、かつ魅力的なシーンだと言えます。