初めて読むジャンルの本はなかなかページをめくれないもの。書評家の永田希さんは「新しい分野の本を読まなければならないときは、あえてこれまで読んできた本を再読して知識のネットワークをリンクさせることが近道だ」という――。

※本稿は、永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。

「未知のジャンル」に挑むときにこそ再読をするべき

「再読を意識したいタイミング」は、「新しいジャンルに興味を持ったとき」です。もちろん、再読したいときに再読すればいいというのが真理ですが、そうはいっても、基本的に再読というのは面倒で億劫なものです。であれば再読のチャンスを覚えておいて、折に触れて思い出すようにするといいのではないでしょうか。

本を読む
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さて「新しいジャンルに興味を持ったとき」に再読をするというのは一見すると、意味不明なのではないかと思います。なぜ新しいジャンルに手を出そうとしているときに、すでに読んだはずの本を再読したほうがいいのでしょうか。

よく知られた格言に「急がば回れ」があります。何かを急いでやりたいときこそ、いったん立ち止まってこれからやることを棚卸ししたり整理してから、事に臨んだほうがいい。しかし、「急がば回れ」が正しいことを知っていても、どう「回る」べきなのでしょう。急いでいるときに、最短ルート距離が見えた気がしたなら、その道めがけて突進したくなるのは当然のことです。そんなときには、回り道は目に入らないのが普通です。

新しいネットワークを構築する前に自分の知識を整理

そして普通はそうであるからこそ、普通ではない方法を意識する必要があります。再読とは、書物と書物、言葉と言葉のネットワークを再編成すること。新しいジャンルに手を出そうとしているとき、読者は自分のなかの書物のネットワークを、「新しいジャンル」という未知の書物のネットワークに接続しようとしています。

新しいジャンルに手を出す前に自分の知っている本を読み返しておくことは、未知のネットワークに接続する前に、自分のネットワークを整頓しておくという意味をもちます。たとえば、中国の哲学や思想史に関心を持ったときに「中国思想史」「中国哲学史」といったタイトルの本を手に取るのは簡単です。あるいは「人新世」に興味を持った際には、Amazonなどで検索窓に「人新世」と打ち込んでもいいかもしれません。これは「最短ルート」です。

「中国思想史」や「人新世」についてよく知らないとき、「これらについて書かれたものが構成している確かなネットワークがある」と考えがちです。自分はそれについてよく知らず、これからある程度その分野、ジャンルについて知ることができれば、その分野、ジャンルのことを理解できると思っている。しかし足を踏み入れてみると、そこは全体の輪郭を知ることすら難しい迷宮のようなものであるということを思い知らされるばかりです。

「人新世」について学ぶなら『天気の子』の小説版を

さっさとそこに飛び込んで、その迷宮を彷徨さまよい、うろつく体験を味わいたい。それでいいじゃないかという意見もあるでしょう。それもひとつの方法です。しかしわたしが提案したいのは、「急がば回れ」を採用し、飛び込む前に、迷宮の輪郭を眺めてみることです。

たとえば「中国思想史」を勉強したいと思ったとき、自分がこれまで読んできたもののなかでそれらしきことが書かれていたものが何だったのかを棚卸ししてみましょう。横山光輝の『三国志』や、原泰久『キングダム』、星野之宣『海帝』などのマンガ、小説なら近年ベストセラーになった劉慈欣『三体』シリーズ、あるいは日本でも古くから古典として読まれてきた孔子『論語』などの中国の古典やそれらの解説書でも構いません。

「人新世」を勉強したいと思っているならば、この言葉が作中に登場して一部で話題になった映画『天気の子』、あるいは、もし読んだことがあればいわゆるSDGS関連のビジネス書でもいいでしょう。「人新世」は地質学的な概念なので、地震や地球科学に関する本を読み返してもいいでしょう。そしてSDGsや「人新世」というキーワードが取りざたされる前から似たような議論を展開していたエコロジーや自然破壊、環境問題についての本を読んだことがあれば、あらかじめ読み直しておいてもいいはずです。

立ち読み
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「急がば回れ」の精神で新しいことが理解しやすくなる

回り道をすることで、時間稼ぎをし、その時間で自分のなかの知見を棚卸しすることができる。この棚卸しは、目先の目標である「新しいジャンル」を理解するということを効率化するための方策です。

ひとは、いちどにたくさんの目的を持って行動することができません。何かに集中すればするほど、ひとつかふたつの目標をめざすので精一杯になります。なので、新しいジャンルに取り掛かり、その理解を最短に効率化するためにあえて遠回りとして自分の読書遍歴を棚卸しする、という行為はだいぶストレスフルな行動になるでしょう。

そもそも面倒で億劫な再読を、ストレスフルな状態で実行するのはいっそうしんどく感じられるでしょう。なので、以下にわたしが書くことは、実際に再読をするときには忘れてしまったほうがいいかもしれません。実際の再読をするときには、あくまで「新しいジャンルに取り掛かる前の棚卸し」として再読をしましょう。

これまでの知識のネットワークを組み替えて再構築する

以下にわたしが書くのは、その表面上の目的のもっと深くにある目的です。「新しいジャンルに取り掛かる前の棚卸し」という表面上の目的のために再読をすることで、いつか未来になって思い返してみたときに、結果的に気がつくことになるであろう効果です。

つまり、新しいジャンルに手を出したいときほど、自分が過去に読んだ本を読み返すべきであり、そのときは再読をしながら「これが結局は最短のルートなんだ」と思えばいいのです。その再読が読者のなかでその読者なりの書物のネットワーク、その読者なりの知識や概念の唯一のネットワークを構成していくのですから。

ここでわたしが書くことは、実際に再読をする時には忘れてしまって構いません。再読をすることに抵抗を感じたときにだけ、思い出してくだされば結構です。再読は、読者それぞれの読んできた書物どうしのネットワークを、読者それぞれが読んできた知識や概念のネットワークを、組み替えて再構築する行為です。

新しい分野、新しいネットワークに手を出す前に、自分の知っている(つもりの)ネットワークを組み直しておくことで、新しく触れる未知のネットワークと自身のネットワークをより深く結びつけることができるようになります。この「より深く結びつけられる」ということが「急がば回れ」の正体です。

横山光輝『三国志』を読んでおくことで、自分なりの故事についての知識が自分のなかに重ね書きされます。どの故事が印象に残るかは読者しだいでしょう。そして、自分のなかで重ね書きされた故事が、中国思想史に本格的に取り組んだときに新しい文脈を生み出すことになるでしょう。

図書館を利用する女性
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一度読んだ本から新しい知識は得られないのか?

ところで、再読の億劫さ、面倒さについて、読む前に感じる一番の抵抗感は「もう読んだから何も新しい知識を得られないだろう」という思い込みに由来します。

ひとは読書をするときに読み落としをしてしまいますし、たしかに読んだはずなのに忘れてしまうことがあります。再読の際に、読み落としていた箇所や、読んではいたけれど忘れていた部分に出会い直す場合、そのことが「新しい知識に出会う」ことよりも価値のないことだと誰が言えるでしょうか。

読み落としや読み間違いはないとするのは傲慢な読者

「あっ、ここは前回は読み落としていたな」と思うこと、「前に読んだ時よりも印象的な気がするぞ」と思うこと、そのひとつひとつによっても、その箇所には他の部分とは違った独特の重みづけが読者のなかの独自のネットワークにおいてされるようになります。この重みづけは、読み落としや失念という意図的には不可能な、その瞬間ごとの読者それぞれに固有の体験が可能にするものです。

再読の意義を知らないひとは、かつて読んだ本のなかの読み落としていた箇所や、読んだかもしれないけれど忘れてしまうような印象しか持たなかった箇所について、この独特な重みづけを加えることを軽視しているか、まったく理解していないのでしょう。

ときどき、「この本を読んだけれど、知っていることばかり書いてあった」という感想を口にするひとがいます。本当にそのとおりである可能性も否めませんが、しかしそれが本当であるかを判定できるひとはいません。単に、読み落としや、読み間違いの可能性を自分で否定しているだけの傲慢ごうまんな態度に陥っている可能性もあるのです。

リビングルームで読書
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やはり再読だけが創造的な読書である

そんなことは無理かもしれない、という疑いを前提にしながら、でももしかしたら可能かもしれないという正反対の期待をもち続けること。これもやはりとてもストレスフルな話ですが、しかし読書の根本にかかわる必須の姿勢です。

永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)
永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)

なぜなら、ある書物のある箇所において「そこに書かれていること」は「それが書かれているその場所」には当然ながら存在していません。「象」とか「林檎」と書いてあるところには、象や林檎は存在しません。そこにそれが存在しないことが自明でありながら、その存在を想定することができるということが読書を可能にしています。

あらゆる宗教や神話、物語、そして擬似科学や偽の歴史書が存在しうるのは、書物にこのような反実仮想の機能があるからです。書物と書物のあいだのネットワークも、知識と概念のネットワークも、読者が「それがあるかもしれない」と期待することでしか存在しえない、とてもはかないものだということは告白しておく必要があるでしょう。

再読という行為が創造的なのは、読書の不可能性と不可分で表裏一体の考え方です。そこにないものを想像してしまうこと。読書に不可欠な想像のプロセスを組み合わせ、そこに存在しないものたちのネットワークを組み替えていくこと。それの繰り返しが再読なのです。