肌に止まった蚊が血を吸わずに逃げていく仕組み
――タイで発売中の「ビオレガード モスブロックセラム」は、新発想の蚊よけクリームとのことですが、どういう仕組みですか?
【神谷】虫などを近づけないようにするものを忌避剤といいますが、忌避剤の有効成分は、蚊には効果があっても、ニオイがきつかったり、べたつきのある重い感触だったりという面があるんですよね。また商品によっては、子どもの肌にあまりよくない成分が含まれているのではないかと心配する方もいます。
われわれ「ビオレ」はスキンケアブランドなので、どうすれば人間が心地よいまま、肌を守れるかを考えた結果、蚊が人間の肌に降り立って、吸血のために皮膚を刺すまでの行動に着目し、化粧品にも使われているシリコーンオイルを肌に塗布すると蚊が吸血する前に飛び去ることを見いだしました。
蚊は人間の肌に針を刺すとき、4本の脚全体を使い着地の衝撃をころして肌に降り立ちます。この時シリコーンオイルを配合したモスブロックセラムを塗っていると、蚊は脚がそこに引きずり込まれるような力を感じるのです。人間であれば泥に足をとられて「わーっ」となるような感触だと理解しています。蚊は体重が軽いのでこの力の影響を強く受けます。そこで血を吸うのをあきらめて、慌てて逃げていく。シリコーンオイルは化粧品や医薬品にも用いられ、高い安全性が確認されており、これを配合したモスブロックセラムは人体には無害です。
研究者同士の化学反応
――画期的な商品だと思いますが、「シリコーンオイルで蚊よけ」という発想はどんなふうに生まれたのでしょう。
【神谷】花王の研究所に仲川喬雄という研究員がいます。彼はもともとロックフェラー大学で蚊の研究をしていましたが、花王の研究所が声をかけて入社した。その後、花王の研究員同士の横のつながりを通じて、「シリコーンオイルで蚊よけ」という発想に至ったのです。
具体的には、「ビオレ バリアミー」という花粉の季節によく売れる日やけ止めがあります。「ビオレ バリアミー」は花粉が肌につきにくくすることができる。この「バリアミー」の技術をつくった瀧澤浩之という研究員が、「この仕組みをうまく活用したら、蚊も肌にとどまれなくなるんじゃないか」と、仲川に声をかけたのが発端だと聞いています。
画期的な商品が生まれる仕掛け
【神谷】なぜそういう横の連携が可能かというと、花王では研究発表会というものが定期的に開かれていて、研究員や本社のスタッフは自由に参加することができるのです。そこで「この技術を基に、こんな商品をつくりたい」と事業部から研究員に声をかけることもありますし、「こんな技術はできませんか」と要望を伝えることもある。どちらのパターンもありますね。
モスブロックセラムの場合は、台湾で開かれた研究発表会を当時のインドネシアの花王の社長が見て、「これの技術はインドネシアで使えるのではないか」と考えた。それでそのときインドネシアに駐在していた私に声がかかったのです。しかし、インドネシアは虫よけ製品として発売しようとすると、さまざまな法規制への対応が必要で数年かかる。調べていくと、同じく蚊による感染症が社会問題となっているタイで、商品化ができそうという糸口が見つかった。そこで、「タイでどうですか」と提案したら、私がタイに異動になりました。そこで仲川とその上司をタイに招待して、「話を聞かせてください」といったのが始まりです。
タイで発売するならタイの人々の生活の様子を知らなければなりません。そこで彼らはタイで一軒家を借りて蚊の生態を調べたりしていました。タイでは日本と違って、家の中で蚊に刺されることが多いんですよ。向こうは庭に水がめを置いて、蓮の花を浮かべたり、植木の水やりに使ったりする。蚊は水をはじく脚を持っていて、アメンボのように水の表面に立って産卵するので、その水で蚊が育ってそれに人間が刺されていく。
タイの人たちは寝る2時間くらい前に、寝室に殺虫剤を噴霧して、蚊を退治してから寝るんです。でも部屋には殺虫成分が充満しているからしばらくは入れない。寝るときようやく寝室に入るという人も多くいます。
ニーズはあるのに日本では売れない理由
――塗るだけで蚊が逃げていくなんて、すばらしい商品だと思うのですが、日本で発売する予定は?
【神谷】日本でも発売してほしいという声は多いのですが、もう少し時間がかかりそうです。国ごとに細かな規制があり、簡単ではありません。
――特に成分に関しては昔は何も入っていないのに入っているかのような粗悪品があったから、「こういう成分を何%以上必ず入れるように」と法律で定めた。いまは逆にそれが足かせになるということですね。
世界で最も人間の命を奪う生き物
――神谷さんは「ビオレガード モスブロックセラム」発売とともに、世界からデング熱被害を削減する「GUARD OUR FUTUREプロジェクト」を立ち上げました。これはどういう活動ですか?
【神谷】ご存じのようにデング熱は蚊が媒介するウイルスによって感染します。実は世界で最も人間の命を奪っている生き物は蚊なんですよ。世界で毎年約75万人が蚊が原因の感染症で亡くなっています。ただし、このうち60~65万人くらいはマラリアによるもので、デング熱が原因で亡くなった方は2万~3万人くらい。しかしデング熱を媒介する蚊が住めるエリアが、地球温暖化でどんどん北半球のほうに広がっているんですね。
マラリアの蚊は自然のなかのきれいな水でしか生きられないので、都市にはあまりいない。一方デング熱の蚊は、汚い水やコップの水くらいの水たまりでも生きられる。したがって今後デング熱は世界128カ国、39億人、地球の人口の半分に感染のリスクがある感染症になる可能性があります。
しかし現状では政府も生活者も十分に対策ができているとはいえず、蚊よけの商品をつくっただけでは、デング熱は完全になくならない。それよりも啓発活動によって生活者の予防意識を向上していくことが重要なので、このプロジェクトを発足させました。
新商品の浸透には時間がかかる
【神谷】これは花王一社だけでできることではないので、商品を販売しているタイにおいて現地の得意先の流通業と共同で売り上げに応じて学校や病院に商品を寄付したり、デング熱のワクチン開発に取り組んでいる武田薬品さんと共催でイベントを開いたりしています。またタイの国立電子コンピュータ研究所(NECTEC)と弊社の研究・IT部門が一緒になって、デング熱予測モデルの開発に取り組んでいます。
企業のESG、CSR活動というのはキャッシュアウトが多いイメージがありますが、少しでもサステナブルになるように、活動自体がその原資を生むようなモデルを目指しています。ですから売れゆきも大事です。すでに強い商品があるカテゴリへの新規参入は簡単ではありませんが。
日本では日焼け止めの定着に30年かかった
【神谷】日本では蚊に刺されそうなときだけ、虫よけスプレーを使ったりしますよね。しかし向こうは家のなかで蚊に刺されてしまうので、「防ぎたいけれど、ある程度刺されるのはもう仕方ない」という感覚がある。
タイの人たちにモスブロックセラムを使ってもらうにはどうすればいいか考えると、お風呂上りやシャワーのあとにボディローションを塗る習慣があることに着目して、その時にモスブロックセラムを使ってもらって蚊に刺されないための予防を習慣にしてもらうのが一番いいのではないかと思っています。
――だから啓発活動が大事なのですね。
【神谷】考えてみたら日本でも日やけ止めを日常的に塗るようになるまで、30年くらいかかっています。それまで日焼け止めというのは、夏、海に行ったときだけ塗るものでしたから。ですからモスブロックセラムも習慣にしてもらうまでは、けっこう長い道のりだと覚悟しています。
「蚊を殺さない」ところがポイント
【神谷】でもこの商品のすごいところは、薬剤などを使わずに、肌の表面を蚊が嫌がる状態にするという物理的な効果で蚊に刺されない状態をつくるところ。蚊も生き物なので進化します。例えば殺虫剤を使っていると、何割かは殺虫剤が効かない蚊が生まれて、そういう蚊だけが生き残っていく。ということはその子孫は殺虫剤が効かない。でも、殺虫剤で死なない蚊は出てきても、水の上に立てない蚊はおそらく生まれないでしょう。そんな蚊は卵を産めませんから。だからシリコーンオイルを配合したモスブロックセラムは虫よけとして効果を発揮し続けられるのです。
この仕事の成果が出るのは10年先か、20年先か。私が花王を定年になったあとかもしれませんが、長い目で取り組んでいきたいと思っています。
取材を終えて 桶谷功より
今回のインタビューで最も注目していたのは、この画期的な商品が、「蚊よけニーズからの発想」で開発されたのか、それとも「シリコーンで蚊よけという技術シーズ起点」で生まれたのか、という観点でした。
取材でわかったのは、ニーズとシーズ双方の「マッチング」が大事ということ。その機会をいかに、組織的かつ継続的につくり出し活用するか。花王では、研究発表会が、その役割を果たしています。研究者は、「自分の研究成果を使ってほしい、商品化されれば世の中の役に立つ」と発表する。一方、事業部のメンバーは、この研究発表の場を「宝の山」ととらえ、自分の担当している商品カテゴリーやブランドで活用できないか、を探る。
今回の場合、台湾で行われた研究発表会で「蚊の研究」を聞いて、当時インドネシア花王の社長だった西口徹氏(現取締役 専務執行役員)が、蚊の新しい忌避剤の可能性を感じ取った、つまり技術とニーズを結び付けたのは、この瞬間だったといえます。
新しい技術と市場ニーズをマッチングすることで、新たな事業の可能性を見いだす。経営陣はもちろんのこと、現場のマーケターも、目先の問題解決に追われるだけでなく、事業を革新できるような真の解決策を生み出す、大きな視野と発想力を持っていたいものです。