集団組織の中で生き残るにはどうすればよいか。元大阪府知事の橋下徹さんは「おかしな『掟』に従っている組織内メンバーに対しても、しっかりと仕事をやっていることに敬意を持ち、おかしな掟についても、自分がすべてを変えるのではなく、組織内のメンバーたちと協働して変えていこうという姿勢を持つことが成功を導きます」という――。

※本稿は、橋下徹『折れない心 人間関係に悩まない生き方』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

握手を交わすアジアのビジネスパーソン
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個人が組織を介さず、社会と直接つながる時代になった

今から16年前の2007年、僕は思春期の子どもたちに向けた一冊の本を出版しました。『どうして君は友だちがいないのか』(河出書房新社)という学校という組織の中で生き延びる知恵を、若い子たちに伝えたいと思って書いた本です。

しかし、本を書いた時から16年経ち、当時38歳だった僕も、今年54歳になります。当時書いた本を読みかえすと、また別の感慨も湧いてきます。本を書いたころと、今では、自分の内面にも変化がありましたし、なによりも日本社会のありかたも随分と変わりました。何が一番大きく変わったか。当時は「組織に属して生きる」ことが多くの人の人生の大前提だった時代でしたが、今は組織に属さずとも生きていけるチャンスが大幅に増えたということです。

いまや学校は絶対に通わなくてはならない場所ではなく、学び自体はフリースクールやホームスクーリング、留学やオンライン教育などの様々な選択肢が充実しています。大学卒業後も、会社という組織に属さず、自ら起業したりフリーランスになったり、YouTuberやブロガーになり、収入を得ていく人だってたくさん存在します。日本を飛び出して海外で勝負する人たちも増えました。そうなれば、「組織」と「個人」の関係性も変わってきます。

16年前、非行に走る子どもたちを見ていた僕は、「できる限り学校から出てしまわないで」というメッセージを子どもたちに向けて発信していました。もちろん、自殺するくらいなら逃げ出してもいい、学校がすべてでも正義でもありません。

ただ、逃げ出した先に待っているのはさらなる孤独です。不登校から何十年も続くひきこもり状態に陥ってしまう人や、あるいはより犯罪に近い非行グループに入ってしまったりする子も何人も見てきました。学校という組織を離れても、より良い未来が待っていることは非常に少なかった。少々つらいことがあったとしても、長いものに巻かれろ精神を駆使し、人間関係を巧みに泳ぎながら、学校という居場所を確保しておいてほしかった。

空の教室の机と椅子。こちらは日本の学校です。
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個人が直接社会にコミットできる時代に

でも、そんな状況も時代と共に変わりました。現代は、個人が組織を介さず、直接社会とコミットできる時代になりました。SNSを介して自由に自分の意見を発信し、歌やダンスなど得意な分野で動画を配信し、自分の居場所を確保できる若者も増えました。外から見たらひきこもっているような状態でも、本人は自分なりの学びや仕事の術すべを得る人もたくさん出てきました。

こうした世の中では、求められる「スキル」も変わってきます。かつてなら組織の中で生き延びるために、時には息をひそめて自分を守るために、スネ夫のように、ちょっとズル賢いけれども、権力(ジャイアン)に逆らわずに生きる術も有効でしたが、今はむしろこれまでに述べてきたような、世間と自分のズレを認識し、可視化し、「持論」を固めるスキルのほうが求められます。

現代でも組織の「見えない掟」を読み解く力は必要

ただ、ここで強調しておきたいのは、それでも組織の「見えない掟」を読み解く力はあったほうがいいということです。僕が『どうして君は友だちがいないのか』で14歳に向けて訴えたのは、次の三つです。

1.組織には「見えない掟」が存在すること
2.「見えない掟」には絶対的なルールはないこと
3.「見えない掟」に翻弄されていても、いつかその状態に終わりがくること

クラスには常にリーダー格の人物が存在し、末端には皆からいじられる少数の人たち

がいたはずです。そしてその間には、そんなクラスの構図を見て見ぬふりするマジョリティがいたはずです。

僕が通っていた学校は特に“荒れた”学校だったこともあり、そのリーダーと子分、いじめる側といじめられる側の構図は数カ月ごとに起こる下克上によって常にシャッフルされていました。中学1年生の頃にいじめっ子として君臨していたはずの少年が、なぜか2年になる頃にはいじめられる側に入れ替わっていたり、反対に2学期までいじめられていた子が、なぜか3学期になると突如いじめられなくなっていたり……。

記述されたルールとチョーク ボード
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学校に絶対のルールは存在しない

正直、学校という集団組織の場で、絶対のルールなどは存在しません。極めて曖昧模糊あいまいもことした「なんとなく」の感覚で、いじめる子、いじめられる子、無事な子、そうでない子が混然一体となり同居しているのです。

「なんとなく話し方がイライラする」「なんとなく偉そう」「なんとなく自分がかっこいいと思ってそう」などの、本当にどうでもいい理由で、ある日、急にいじめられるようになる。あるいは突然その関係性が解除されたりする。

きっかけなど思い出せないほど些さ細さいなもので、しかしそんな「見えない掟」に皆が翻弄されていました。そんな関係に「なぜ僕だけが(私だけが)……」と思い悩むだけ無駄というものです。だってルールなんて存在しないも同然なのですから、攻略しようもありません。

グループの力に守られるという選択

よく「いじめられる側にも問題がある」という表現も聞きますが、それもはなはだ疑問です。

例えば僕の場合は、大阪での小学6年生時代には友達関係で摩擦を生じましたが、学校外の場でたまたま出会った中学生グループと仲良くなったことで、急に力関係に変化が生じました。

計算したわけでも、意図して中学生グループに取り入ったわけでもありません。本当に偶然、通っていた銭湯で仲良くなった中学生が、たまたま僕の小学校出身で、やんちゃグループの上位に存在する立場だったらしく、誰が何を言うでもなく、急に小学校での友達関係の摩擦がストップしたのです。その時に気づきました。力のある者にくみするのも時には必要なのかもしれない、と。

その時の体験から、さらに荒れた中学に進学した僕は、学校一荒くれ者がつどうとされていたラグビー部に入りました。どうせ荒れているなら、そのなかでダントツに荒れているグループに入ってそのグループの強さに守られるほうがいいだろう。もちろん荒れているグループの中で少々理不尽な使い走りなど嫌なことがあるかもしれない。それでもグループ外で荒くれの先輩たちに絡まれるよりマシだろう。まさに「比較優位」に基づく、より「マシな」選択をしたのです。

ギャングの影
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一匹オオカミ的に生きるのは至難の業

組織の中で一匹オオカミ的に生きるのは、相当の腕力や抜きんでた何かが必要です。そのような特別な能力が備わるまでは、組織の中の集団すなわち派閥の力を利用した方が、守られるべきところは守られると当時の僕は考えたわけです。

その考えは間違ってなかった。荒くれ連中の中で、僕は自分自身の立場を守ることができました。派閥Aに属している人間に対して、派閥Bの人間、派閥Cの人間、ましてや派閥に属していない人間は、気軽に手を出すことはできません。派閥に属する一人にちょっかいでも出そうものなら、それはその派閥全体に喧嘩を挑んだも同じことになるからです。集団的自衛権の論理です。

実際どこのクラブにも属さない帰宅部の友人は、道端で他のクラブの先輩格に出くわし、ちょっかいをかけられないように苦慮していました。いつもコソコソと帰宅ルートを計算していた様子を見ると、つくづくラグビー部に入ってよかったと感じたものです。

外部人材を登用した理由

大阪府政や大阪市政に関わっていた頃、僕は民間からの外部人材を役所内に公募で登用することを広く行いました。優秀な人材が多数集まっている行政組織ですが、強固な役所の価値観にどっぷりつかってしまった人たちばかりの同質性の強い組織なので、民間では考えられないような非効率な作業が受け継がれていたり、民間の価値観からするとあり得ない決定が繰り返されたりしていました。

民間の企業ならとっくに倒産していたり、給与がカットされたりするような失政でも、公務員の世界はそうはなりません。日々の自分たちの努力や成果が、人事評価や給与査定に直結することのない世界では、貪欲にサービス向上を目指したり、市民からのフィードバックや率直な声を積極的に取りに行ったり、とはどうしてもなりにくい。その結果「公務員の常識は、世間の非常識」という事態に陥ってしまうのです。

外部人材を登用する際に注意すべきこと

そこを何とか打開したかったので、外部人材を大量に役所内に採り入れようとしました。役所に限らず、あらゆる組織にとって人材の流動性・多様性は欠かせません。入社したて、入庁したての頃には、「これはおかしい」「奇妙な慣習だ」「改善すべきでは」と感じた人も、1年、2年、5年と無我夢中で仕事をしているうちに、「これが普通」の感覚に陥ります。その現状維持感を打破するには、「心理的安全性」の強く保証される組織になることが一番ですが、より手っ取り早い方法は、外部から人材を呼び、外部の価値観によって「おかしいことはおかしい」と言ってもらうことです。いわば即効的、強制的に「価値観の多様性」「視点の多様性」を作り出すのです。

ただし、ここには一つ注意も必要です。それは、その人材が組織の「見えない掟」をしっかり見抜くことができること、見抜いたうえで、その「掟」に従っている組織内部のメンバーの人格を全面否定しないこと、さらに組織内部のメンバーには敬意を持つ姿勢も必要です。

メンバーを侮辱してはいけない

「見えない掟」とは、その組織と世間の間に横たわる「ズレ」でもあります。内部の人間にとっては“常識”、だけど外部の人間から見たら“非常識”。その「ズレ」が組織の停滞やボトルネックを生み出しているのですが、ただ、その「ズレ」を見抜いたとしても、「ここにズレがあるじゃないか、こんなことに従っているあなたたちはバカだ、間抜けだ」と組織内部のメンバーを侮辱するのは失敗の元です。外部から組織に参入した際、一番やってはいけないことは、「あなたたちのやり方は、時代遅れで、非常識で、非効率的で、最悪なもので、それに気付かず漫然と従っているあなたたちは無能ですよ」というメッセージを発することです。相手への敬意なき侮辱や嘲笑、頭からの否定は、もはや「持論」でも「改革」でもなく、完全な破壊活動です。

「公務員の常識」が、仮に「世間の非常識」であったとしても、それがただちに「不正義」「絶対悪」とはなりません。「常識」とは、その組織に属するマジョリティがなんとなく従っている「掟」のようなもので、組織体が10あれば、10の異なる常識があってもおかしくないものです。別の組織から来た人が、「この組織の常識は変だ」とがなり立てても、そのことだけで組織の常識が変わるものではありません。

手をクリックして Stop
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物事に「絶対」はない

物事に「絶対」はありません。例えば、日本文化の常識だって、アメリカ人やイタリア人からすれば、極めて奇異に見えるでしょう。「なんで会う人、会う人、ペコペコお辞儀しているんだ。そんなのは無駄で無意味だから、明日からお辞儀を廃せば生産性につながる」と言われても、「そうですね!」とすぐにお辞儀を止めるなどとは、日本人はならないはずです。

仮に役所のやり方が、民間から見て“非常識”と映ったとしても、職員たちは、自分なりに良かれと思ってやっていることも多いわけです。

「見えない掟」を見極める

橋下徹『折れない心 人間関係に悩まない生き方』(PHP新書)
橋下徹『折れない心 人間関係に悩まない生き方』(PHP新書)

外部人材を登用する際、成功例となるのは、組織の「見えない掟」を見抜いたうえで、「絶対にこれは変えなくてはいけない掟」と、「変えなくてもいい掟」の見極めができる人物です。おかしな「掟」に従っている組織内メンバーに対しても、しっかりと仕事をやっていることに敬意を持ち、おかしな掟についても、自分がすべてを変えるのではなく、組織内のメンバーたちとしっかり手を携たずさえて、協働して変えていこうという姿勢を持つことが成功を導きます。

反対に、失敗する外部人材というのは、ことごとく自分のほうが絶対的に正しく、能力も富んでいると思い込んでいるケースです。役所に入ってくる民間人に非常に多い。要するに、組織内のメンバーを下に見てしまう。「俺に(私に)すべて従うべきだ」という姿勢は、周囲のモチベーションを下げるだけでなく、反感をも生んでしまいます。