2023年5月28日、参議院自民党は、少子化や地方の衰退に歯止めをかけるため、高校卒業までの医療費の無償化などを柱とした提言をまとめた。精神科医の東徹さんは「少子化対策は大事だが、もし全国的に完全無償化して1回200円の負担もなくすと、かえって国全体での医療費圧迫につながり、過剰な受診が増えて医師の仕事も増えてしまう」という――。

1回200円の自己負担を無償にすると医療費は10%増加

東京都23区で実施している高校生までの医療費無料化を全国に拡大する案を、参議院で自民党が提出しようとしている。少子化対策の必要性が叫ばれる昨今、子育て世代に対する経済的支援は手放しに肯定されがちである。たしかに子育て世代に対する支援は必要だとしても、医療費無料化が本当に子供、次世代のためになるのかは、一度立ち止まって検証する必要がある。もし、それが逆効果だとしたら、取り返しのつかないことになりかねない。

日本の医療制度では、医療費の自己負担は就学前で2割、小学生以上70歳未満は3割、70歳から74歳は原則2割、75歳以上は原則1割、70歳以上では所得に応じて2割〜3割、となっている。つまり、子供は本来、自己負担は2割か3割だが、多くの自治体で子供の医療費が少額や無料となっているのは、都道府県あるいは市区町村が助成して負担しているからである。これは後期高齢者の自己負担が原則1割とあらかじめ少額に設定されているのとは意味合いが異なる。各自治体の政治的判断が反映されているということだ。

東京都23区では2023年4月から高校生までの医療費が実質無料となっている。これは東京都23区独自の判断だが、自民党案はこれを全国一律に推し進めるというものである。それははたして正しいのだろうか。

病院の待合室
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行動経済学の「ゼロ価格効果」で無償化を考えると…

ここで、医療費無料化に関して注目すべき論文がある。東京大学の飯塚敏晃教授と重岡仁教授によって2020年に発表された共著論文「Is Zero a Special Price? Evidence from Child Healthcare」である。この論文の主要な知見は以下の4つである。

①「無料」には特別な効果がある

行動経済学で「ゼロ価格効果」と呼ばれる効果が存在することがわかった。ゼロ価格つまり「無料」は特別な価格で、無料から少しでも価格を上げると、病院に月1回以上受診する確率が4.8%減少する。これは自己負担額が10%増した時に受診が9.1%減少するという効果と比較してもかなり大きい効果である。医療費に関しては、通院1回200円の自己負担を無料にすると医療費は一気に10%も増える。

200円でも負担があれば無意味な受診をしなくなる

②小額の自己負担で健康な子供の受診が減る

少額の自己負担は、健康な子供の受診率を低下させる。一方、病気の子供の月1回の受診を抑制することはない。つまりこの結果は、少額の自己負担が病院受診のためのスクリーニング装置として機能し、より医療が必要な患者に医療資源を配分するのに役立つことを示唆している。

③小額の自己負担により不適切な抗生剤使用が減る

ゼロ価格が抗生剤の不適切な使用を大幅に増加させ、通院1回200円という低い自己負担でも不適切使用を18.3%も減少することが明らかとなった。

④医療費無償化には将来の健康上のメリットはない

小児期の助成金受給は、青年期の医療利用や健康状態に明確な利益をもたらさない可能性が高いことがわかった。費用負担を無料にするほどの手厚い補助金を追加しても、大きな健康上のメリットはないということになる。

まとめると、子供の医療費を完全無料化しても健康には役に立たない無駄な医療が増えるだけであり、将来的なメリットもなく、むしろ不適切な抗生剤使用を増やしてしまう悪影響すらある、というわけだ。そして、それは通院1回たった200円の負担をするだけで、ある程度、防ぐことができるのである。

日本人男性医師
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子供たちは将来その何倍もの公費負担を課される

しかし、医療的には無駄であったとしても、通院1回200円すら無料化して助成することは子供や子育て世代への支援となるだろうか。

医療費の自己負担以外は保険料と税金による負担である。その保険料、税金は誰が払うことになるか。それは助成を受けた当の子供たちが将来にわたって引き受けることになる。医療上メリットのない受診のための、たった200円を無料化する利益を享受するために、その何倍もの公費負担分を将来の自分に課すことになる。これは本当に支援だろうか。目先の200円にとらわれて大金を失う結果になるのではないか。

ただし一点補足しておくと、うつ病、ADHD、タバコ、肥満などに対する医療など、価値の高い医療も1回200円の負担で受診が10%減少してしまうこともわかった。この点には留意が必要だが、価値の高い医療のみを選択的に無料化する、という方法でより効率的な医療資源配分は可能とも指摘されている。

生活保護の医療費全額扶助にも同じことが言えるか

この論文は「ゼロ価格効果」の存在を実社会の研究において初めて示したものである。それは国民皆保険、全国均一の診療報酬という日本特有の医療制度に加えて、各自治体が個別の医療費助成をしていた、という日本固有の事情によって得られた知見である。この結果を当の日本が生かさない道理はない。

医療費無償化の例としては、子供の医療以外にも生活保護の医療費全額扶助がある。生活保護に関しても、上記の論文ほど直接的な研究結果はないが、ゼロ価格効果がある可能性は高い。

生活保護費の約2分の1が医療扶助費であり約1兆7000億円である(令和2年)。そして、その医療扶助費の約5分の1が精神入院の費用である。逆に、精神科病院入院患者の約2割が生活保護受給者である。

臨床の精神科医として不要な受診があることを感じる

精神科医である筆者には、日々の診療そのものの非常に身近な問題である。臨床的な実感としても、医療費が無料であることによる過剰な医療が生じている可能性は感じざるをえない。生活保護を受けている精神疾患の患者では、薬の紛失や、生活の乱れによる入院希望が少なくない。もちろん生活保護受給者が全員そうだ、というわけではけっしてないが、その背景には医療費無料化によって安易に医療に依存してしまい、治療意欲の低下が生じている、と疑わざるをえないケースもある。これは多くの精神医療従事者に心当たりがあるだろう。

ただ、生活保護受給者にも医療費自己負担を求めると、余剰のお金がなくなり食べるのにも困ってしまうのでは、という懸念があるかもしれない。しかし、その心配には及ばない。一般に誤解されがちだが、多くの生活保護受給者は、食費を除いても1日1箱タバコを吸うぐらいの金銭的な余裕は十分にある。通院1回に200円、タバコ1箱以下の金額が払えないわけはない。

医療明細
撮影=プレジデントオンライン編集部

製薬会社の無料の勉強会が意味すること

もうひとつ、医療の現場で「ゼロ価格効果」に類似の例を挙げてみる。

最近までほとんどの医師はボールペンを買う必要がなかった。それは2019年に製薬会社による自主規制で禁止されるまで、製薬会社主催の勉強会には必ず無料でボールペンが配布されていたからである。無料なのはボールペンだけではない。弁当は無料で配られ、会場までのタクシー代も無料である。以前は、場合によっては飛行機代、宿泊費まで無料であった。これらが無料であるために、製薬会社主催の勉強会へと参加するハードルは実感としても明らかに下がる。もし1回200円でも参加費が徴収されれば参加する医師は相当減少するに違いない。

そしてこの勉強会とは製薬会社の新薬の宣伝会を言い換えたものに過ぎない。つまり、医師たちは無料であることに釣られて製薬会社の新薬の宣伝を直接的、間接的に聞きに行くのである。営利企業である製薬会社がこれらを無料で提供するのは、それ以上の額が売り上げとして返ってくる見込みがあるからである。

これらの製薬会社の宣伝に対する自主規制は世界的にも年々強まっている。それは宣伝によって不必要な処方を促している危険性が強く疑われているからである。日本の製薬会社の宣伝費(マーケティング費)総額は約2兆円といわれている

つまり、控えめに言ってもそのうちのかなりの割合に相当する額、宣伝効果という意味ではむしろそれ以上の額が、不必要な処方へ費やされていると言える。

薬剤師
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「無料」というシステムには魔物が潜んでいる

これほどまでに、ゼロ価格効果=「無料」であることの特別さ、その影響の大きさは計り知れない。医療業界で動く兆円規模の金額も、この「無料」に激しく左右されうる。「無料」には魔物が潜んでいる。しかし、それはたった200円の負担で変えられるものなのだ。

さて、これらを踏まえた上で、あらためて、冒頭の自民党案、高校生までの医療費無料化を全国に拡大すべきなのか、をよく考えてみていただきたい。

最後に古来から言い伝えられた警句を紹介して終わろう。

「タダほど怖いものはない」

まさにその通りである。それは国を滅ぼしかねないほどに。