日本のベンチャーの母
皇居のお堀の斜面を桜吹雪が舞い上がっていく。右上には日本武道館の黄金の擬宝珠。お堀の水面では水鳥たちが優雅に餌をついばんでいる。
都会の真ん中とは思えないような風景の中で、唯一、ぶち壊しなのが武道館の焼却炉の煙突である。
「桑名から上京してきて70年近く経ったけど、ここに事務所を移すまで、東京にこんな自然の営みがあるとは知らなかった。でも、あの煙突だけは気になるわね。こんど小池知事にお会いしたら、こんなところでゴミを燃やしちゃいけませんよねってお知らせしておかなくちゃ」
お堀をバックにこう語るのは、日本のベンチャー企業の草分けであるダイヤル・サービスの社長、今野由梨さん、御年87歳である。
歩くスピードは30代社長室長より速い
「先日はシンガポールから孫泰蔵さんがやって来て、ちょっと顔見に行っていい? って言うからもちろん喜んでと言ったら何と、7時間も(笑)。泰蔵がね、『由梨さん6畳一間からよくここまで来ましたね。僕が創業した時は8畳一間だったから、僕の方が2畳広かったよ』だって(笑)」
オフィスの中には各界の大物と並んだ写真が何枚も飾られている。英国のサッチャー元首相とのツーショットもあれば、安倍晋三元首相からの感謝状もある。今野さんの著書『ベンチャーに生きる』(日本経済新聞社)には、豊田章一郎、松下幸之助、田淵義久、関本忠弘といった実業界の大物の名前が次々に登場してくる。
こうした大物たちと丁々発止と渡り合いながら、今野さんは「日本のベンチャーの母」と呼ばれる存在になったわけだが、いまだに深夜1時2時まで仕事をし、執務中はハイヒールを脱がない。歩くスピードは30代の社長室長(男性)よりも速いという。
「いつも、歩くのが遅い! って叱っているの。私、男を見るといじめたくなっちゃうのよ。社内では今野のセクハラと言われてます(笑)」
桑名で一度死んだ
今野さんの故郷は三重県桑名市である。木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の河口に位置し、名古屋市と四日市市に挟まれた桑名市は、東海道屈指の宿場町として栄えた歴史を持つ。今野さんの言葉を借りれば、「神社仏閣の多い、美しい水と緑の町」だった。
その美しい町が灰燼に帰したのは、1945年、終戦の年だった。年初から5次にわたるB-29の空襲を受け、市街地の実に90%を焼失。全焼家屋約7000戸、死者416人という大きな被害を受けた。今野さんが9歳の時の出来事である。
「ある晩、名古屋が燃えて、まるで花火でも見るように眺めていたんだけど、次に四日市が燃えて、ついに桑名の番がやってきた」
今野さんは6人姉妹の次女で、下にたくさんの妹がいた。祖母と母は幼い妹たちを乗せた乳母車を押しながら逃げたが、今野さんは猛火の中で家族とはぐれてしまった。
「ひとり火の海に取り残されて、すぐ近くに焼夷弾を受け私は殺され、一度目の人生が終わりました」
何時間か気を失って目を覚ますと、見知らぬ男の人に背負われていた。男はこう言った。
「この道をまっすぐ行くと金龍桜という大きな桜があるから、その桜の木に登って夜が明けるのを待ちなさい。必ずお父さん、お母さんが迎えにくるから」
蝙蝠も蛙も鯉もみんな死んでしまった
今野さんは、男に言われた通り大きな桜の木に登って桑名の町が燃え尽きるのを眺めていた。その感想が、不謹慎な言い方かもしれないが、ちょっと変わっている。
「家の近くに大きな銀杏があって、その銀杏に何千羽という蝙蝠が棲んでいた。いつも夕方になるとその蝙蝠たちが羽ばたいて町の上を舞った。お寺の池には蛙や鯉がたくさんいた。銀杏もお寺も燃えているから、蝙蝠も蛙も鯉もみんな死んだんだなと思ったんです」
9歳という年齢もあるのだろうが、今野さんの脳裏をよぎったのは、常日頃親しんでいた生き物たちの死だった。
幼い頃、お転婆だった今野さんは、橋の欄干に上って遊んでいたことがあったという。橋の上には荷馬車が止まっていて、馬が飼い葉を美味しそうに食べていた。今野さんは欄干の上からその馬の頭をなでた。すると、驚いた馬が振り向きざまに今野さんを跳ね飛ばす形になった。
「その馬は、目にも止まらない早さで私の腕を噛んで、川に落ちるのを止めてくれたんです。命の恩人ですよね。でも、噛まれたところから大量の血が出たので、周りにいた男たちがわっと集まってきて馬をボコボコにしてしまったんです。その時、馬と目が合ったのね。私と馬以外には真実を知らないわけ。私は悲鳴を上げて必死に馬の無実を訴えたんだけど大人たちには通じない。馬が『ごめんね』と言ったかどうかはわからないけれど、ごめんと言うべきは、いたずらした私の方です。あの時の馬の目はいま思い出しても涙が出ます」
今野さんは、こうした出来事こそ人生に大きな意味を持つ出来事だという。「声なき者の声を聴いた」、などという理屈も思い浮かぶが、今野さんは生き物とのたくさんの思い出を抱えており、いずれ本にしたいという願いを持っている。
9歳で始まった第2の人生
さて、金龍桜によって一命を取りとめた今野さんは、一度殺されて、まったく別の人間に生まれ変わったという。
「仲よしだった生き物たちが殺されていく光景を見て、ふつふつと復讐心が燃えたぎって、大人になったら絶対にアメリカという国に行って、いま見ている光景のことをアメリカ人に話す。私を殺したアメリカという国に行って、戦争の悲惨さを訴える。これが、9歳から始まった私の第2の人生なんです」
この決意は後年、今野さんが予想もしていなかった形で達せられることになる。
100%落ちた
周囲の反対を振り切って、今野さんは東京の大学に進学している。「女が4年生大学に行くなんて」という時代に、大学進学の壁は厚かった。父親から提示された条件は、受験は1校のみ。浪人は許さないという厳しいもの。その条件を確実にクリアするために、「ちょっとレベルを落として」選んだのが津田塾大学だった。
津田塾時代は学生新聞の編集長として活躍した。その経験が後に今野さんの人生を大きく動かしていくことになるのだが、就職試験にはことごとく失敗した。いや、失敗したというよりも、そもそも門戸が開いていなかったと言うべきだろうか。
「マスコミ志望でしたけれど、記者の募集は男子のみ。女子の4大卒でも採用の可能性がありそうな企業を10社近く受けましたけど、100%落とされました。子どもの頃から、勉強はできたから1次の筆記試験は全部合格したの。だけど、2次の面接で全部落とされました」
なぜか?
今野さんによれば、どの企業でも面接官と同じようなやり取りがあったという。
「いろいろな質問に対して、自分の考えを述べるでしょう。そうすると、あなたの意見なんて聞きたくないんだと。仕事は男がやるもので、女は男の仕事を支えるものだ。あなたのような小生意気な女は、わが社にはいらないと……」
絶望はチャンス
志望した10社すべてから「お前のような女はいらない」と宣告を受けた今野さんは、絶望の淵に立たされた。周囲の凄まじい反対を押し切ってわざわざ東京の4年制大学に進学したというのに、どこにも就職できないとは……。
「その時は、なんてこと! って思いましたよ。だけど、自分の気持ちを偽ってまで就職をするべきなのか。そんな会社は自分の居場所ではないだろうと思ったら、ふっ切れたんです。よし、わかったと。この国に私を必要とする企業がないなら、私を必要とする企業を自分で作ればいい。自分の居場所がないなら、自分で居場所を作ろうじゃないかと」
今野さんは、10年後の1969年5月1日と日付まで決め、自ら起業することを心に固く誓った。
いま、講演を頼まれると、今野さんは「絶望はチャンスだ」という話をよくするという。その瞬間にはわからないけれど、壁にぶつかった時、実は大きなチャンスを与えられているのだと。
1社でも採用してくれる会社があったら、今の私はない
「現代は、自殺しちゃう人がたくさんいるけれど、大きな試練に見舞われたときこそ、ありがとうございますと感謝するべきなんだ。それを絶対に忘れちゃダメよと言っています。だって、受験した会社が私を徹底的に拒否し、締め出してくれなければ、あるいは、1社でも私をかわいい子だねなんて採用してくれていたら、いまの私はいなかった。そして、このダイヤル・サービスという会社はなかった。赤ちゃん110番、子ども110番がなかったら何百人という多くの命を救えなかったかもしれません」
就活全敗の後、今野さんは大学新聞の編集を通して知り合った『随筆サンケイ』の編集長の紹介で校正のアルバイトを始め、やがて自ら月刊誌に記事を書くようになった。その記事がTBSの目に留まってテレビ番組の制作からリポーターまでこなすようになり、夜はテレビの取材で出会った「灯」という歌声喫茶でアルバイトをした。ダブルワークならぬクアッドワークで糊口をしのいだ。
有名作家の三浦朱門、曽野綾子夫妻の元で口述筆記の仕事をしていた時、転機が訪れた。夫妻の勧めで、1964年にニューヨークで開催された世界博のコンパニオンに応募することになったのである。
ニューヨークで見つけた起業のヒント
ニューヨークでとあるコール・センターを見学し、その会社の女性社長と面談をしたことが、後に「電話を使ったニュービジネス」を起業するヒントになっていくのだが、今野さんはこの重要な経験と同時に、ニューヨークで奇跡的な出来事に遭遇している。
今野さんは日本館のコンパニオンとして採用されたわけだが、100名近いコンパニオンの大半は、いわゆる名士の子女であった。ところが今野さんは、テレビのレポーターから原稿執筆までこなす才女だ。日本政府の担当者は今野さんの経歴をにわかには信じてくれなかったそうだが、面接でそれが本当だとわかると、今野さんを日本館の広報委員に抜擢したのである。
奇跡が起きた
広報委員はアメリカはじめ多くのメディアの取材に対応するのが仕事だ。ある日、アメリカのメディア界の偉い人が今野さんの元を訪れた。
「その方は車椅子に乗っていたんです。アメリカでは車椅子でもこんなに偉くなれるのかと驚きましたが……」
記者が今野さんに尋ねた。
「あなたは、日本のどこから来たの?」
「桑名という小さな町です」
すると突然、彼はバネ仕掛けの人形のように車椅子から今野さんに飛びかかった。そして、涙を流しながらこう言ったのだ。
「よく生きていてくれた!」と。
なんと彼は、桑名の町に焼夷弾の雨を降らせたB-29の元操縦士だったのである。戦後、罪の意識に苛まれて心身を病み、歩くことができなくなってしまったという。
今野さんは彼に向かって、あの「9歳の決意」のことを伝えた。すると彼は、あらゆる手を尽くして今野さんの決意を全米に伝えると約束してくれた。
「私のことを新聞の一面で大きく取り上げてくれただけでなく、私のオフの日をすべて調べ上げて、オフの日には必ず著名な方々の会合に連れて行ってくれました」
9歳の決意は、思いがけない形で果たされたのである。
6畳一間に6人で創業、軌道に乗ったのはつい最近
ニューヨークで女性が男性に伍して働く姿を目の当たりにし、その後の世界放浪を経て、今野さんが念願の起業に漕ぎつけたのは1969年のことだった。文字通り、6畳一間でスタートしたダイヤル・サービスの当初のメンバーは6人。机に座りきれず、今野さんは玄関脇の下駄箱の上に電話を置き、仕事をしたという。
起業当初、ダイヤル・サービスは電話秘書サービスからスタートしている。アメリカで見たいわゆるコール・センターとは異なり、高度の専門性を備えたスタッフが電話を使った応対サービスを提供するスタイルは、当時もいまも変わらない。
「いつ事業が軌道に乗ったのかって? そんなの最近のことですよ。最初は毎月のお給与を支払うのに精一杯で、毎月25日病にかかってましたよ。毎月、25日が近づくと金策のためにあちらこちら駆けずり回るんだけど、大恩人のみなさんから、今野はもっと勉強しろ、ダイヤル・サービスは社長が一番勉強していないって、よく叱られました。でも、お金を集めるために勉強なんてしている暇はなかったんです。私の自慢は、お給料の遅配は一度もしなかったこと。だけど、そのためにずいぶん悪いことをしました。親の家まで叩き売ったりね。それは本当のことです」
「悪いこと」の詳細は、『ベンチャーに生きる』に包み隠さず書かれている。
電電公社という壁
1971年、ダイヤル・サービスは日本初の電話による育児相談「赤ちゃん110番」をスタートさせた。これがメディアで大きく取り上げられて、大ブレイクすることになる。折しも「コインロッカーベイビー」という言葉が流行語になり、高度経済成長の裏側で「育児放棄」や「子殺し」という前代未聞の事件が続発する世相だった。
全国から回線がパンクするほどの相談が殺到したが、ただ電話で相談を受けるだけでは、マネタイズすることができない。
スポンサーを探すこと、通話に課金できる仕組みを作り上げることが急務だったが、今野さんはここでも分厚い壁にぶち当たることになる。電電公社という壁である。
うちの回線をパンクさせたのはお前か!
「赤ちゃん110番」には回線をパンクさせるほどのコールがあったが、情報料の徴収ができなければビジネスとしては成立しない。今野さんは、電電公社に情報料の代理徴収を依頼するため交渉に出かけていったが、とりつく島がなかった。たらい回しにされた挙げ句、最後の最後に出てきたのが当時の営業局長・遠藤正介、作家・遠藤周作の実兄だった。
今野さんが、「私のニュービジネスのおかげでお宅の回線がパンクするほど稼がせてあげているのだから、せめてその半分をわが社に払ってくれるか、それを全部欲しいなら、情報料課金という新たな制度を作って、それを代理徴収してわが社にペイバックしてほしい」と切り出すと、
「うちの大事な回線をパンクさせたのはお前か! 女は家に帰って子どもでも産んでろ!」
と面罵された。現代ならセクハラ、パワハラでは済まない話だろう。
その後も、課金を認めようとしない遠藤とのバトルは延々と続いた。
「遠藤さんは、表面的には一番私をいじめた人でしたね。もう、パワハラなんてもんじゃないですよ。私が悪いのか、あなたが悪いのか、罪はいったいどっちにあると思いますか! なんて喧嘩を、何回もしました」
しかし、遠藤は懐のある人物だった。これはwin-winの取引なのだと唱え続けて一歩も引かない今野に、電電公社の幹部を集めて講演することを提案してくれたのである。
「この、大泥棒!」
「あなたたちは、私たちが作り上げたさまざまな『110番』サービスで、いったいどれだけ売り上げを上げているんですか? 本来のその売り上げは、このサービスを生み出したわが社に還元されるべきものでしょう。どうして電電公社だけがお金を盗むの? この、大泥棒!」
幹部を前に今野さんは吠えた。しかし、今野さんの訴えが幹部たちの心を動かすことはついになかったのである。
その後、スポンサーの開拓が進んだことでダイヤル・サービスの業容は拡大し、守備範囲も、育児相談から、食の相談、身体障害の相談、健康相談、熟年相談、ハラスメントの相談など多方面に拡大していった。近年ではダイヤモンド・プリンセス号の乗員・乗客向けに「看護師相談窓口」(厚労省コロナウイルス対応支援窓口のひとつ)を開設するなど、時宜を得た電話相談サービスを展開している。
20年越しの戦いの末に実現した制度
今野がいわゆる大物たちとのチャンネルを数多く持っているのは、おそらく、スポンサー契約の締結をたくさんの大物に“直訴”してきたからだろう。
「どうやって訴えるのかって? それは、自慢のこの爪と歯を使うんですよ(笑)。下の妹たちを悪ガキから守るために、子どもの頃から、噛んだり引っかいたりしてきましたからね」
なぜ、今野さんは戦うのだろうか。
「ダイヤル・サービスに殺到してくる悩みや苦しみを解決するには、法律や制度をぶち壊していく必要があるのだけど、国は、国民の苦しみに知らん顔をする一方で、苦しみに手を差し伸べようとするベンチャー企業をひどい目に遭わせるわけ。私が戦わなかったら、いったい誰がこの国の多くの人々の悩み、苦しみに手を差し延べてくれるの? そのために誰が戦うわけ?」
1989年、NTTは二重課金制度である「ダイヤルQ2」をスタートさせることになった。いわば原案者である今野さんの元に、NTTの常務が挨拶に来たという。
遠藤正介とのバトルから、20年後のことであった。(後編に続く)