長い歴史のある恵泉女学園大学が閉校を前提に来年度の学生募集を停止することを発表した。女子大が生き残るためにはどうすればよいのか。書籍『大学図鑑!2024』を上梓したオバタカズユキさんは「共学化を推進すべし。『女子』の名はそのままに男子にも入学許可を出す、なんていうのも面白いかもしれない」という――。
恵泉女学園大学キャンパス
恵泉女学園大学キャンパス(写真=小林裕明/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons

恵泉女学園から発せられた「緊急のお知らせ」

先月の22日に東京の恵泉女学園大学と同大学院が、閉学前提の学生募集停止を発表した。2022年度の入学定員充足率は55.9%。少子化問題の論客でもある大日向雅美学長は、大学の公式サイトで「緊急のお知らせ」と題し、事の次第をこう説明した。

〈18歳人口の減少をはじめとして社会情勢が大きく変化する中、入学者数充足の困難が続き、大学部門の金融資産を確保・維持することが厳しいという判断のもと、閉学を前提として募集を停止するという理事会の決断を、大学として苦渋のうちに受け入れざる得ないこととなりました〉

まさに苦渋に満ちた文面である。恵泉女学園大学・大学院は学校法人恵泉女学園が営んでいるのだが、そこから切り捨てられた感が伝わってくる。同学園は大学進学指導に力を入れている中堅の中高一貫校、恵泉女学園中学・高等学校も営んでおり、そちらは数年前から首都圏で起きている中堅私立中学受験ブームも追い風になかなかの人気だ。

コストカット
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大学がなくなろうと学園は困らない

あからさまにそう言っているわけではないが、順調な中高の経営に悪影響を及ぼし始める前に赤字の大学は畳ませてもらおう。こうした圧をずっと学園からかけられ必死で耐えてきたのに、万事休す、無念……。そんな様子が浮かんでくる。もともと高校から大学へ系列推薦で進学するケースは稀だったので、大学がなくなろうが学園は困らない。

むしろビジネスとして考えれば、不採算部門の撤退であり、その決断は評価されることも多い。だが、学校、とくに大学が消えるとなると、我々はショックを受ける。損得勘定だけで教育を扱うな、という情緒が動く。

オバタカズユキ・監修『大学図鑑!2024 有名大学82校のすべてがわかる!』(ダイヤモンド社)
オバタカズユキ・監修『大学図鑑!2024 有名大学82校のすべてがわかる!』(ダイヤモンド社)

さらに今回の場合、恵泉女学園大学は「いい大学」との評価が高かっただけに、教育関係者への衝撃は大きかった。同大学生やOGの声を拾ってみても、「先生との距離がとても近くてなんでも言える」「学生は優しい人が多く、みんなとても仲がいい」「キャリアセンターの方々が丁寧で就職は女子大の中でもいいほう」など、肯定的なものが大半だ。

なのにどうして入学者数が足りなかったのだろう。どうすれば少子化の波に押し流されずに済んだのだろう。

当然ながら、大学も学園もありとあらゆる策を講じてきたはずだ。外部の一個人が思いつくようなことは、とっくに検討済みである。だから、こうすれば生き残れたなどと軽々しくは言えない。

ただ、すでに閉校を決断した大学なので、思考実験の例とさせてもらっても差し支えはないと思う。発想を飛躍させて考えてみる。

立地だけが原因ではない

まず、募集停止の報があってから、もっとも多くの人々が指摘していた立地の問題。恵泉女学園大学・大学院のキャンパスは、東京は東京でも西の外れの多摩市にある。最寄り駅は京王・小田急線と多摩モノレールの多摩センターで、周辺は映画館があるほど賑わっている。が、そこからキャンパスまで徒歩通学は難しく、スクールバスに乗って約10分の丘陵地帯。自然は豊かだけれども、近くに学生が使えそうな店はほぼない。

都心回帰する大学が相次ぐ中、たしかにこれは大きなマイナスだ。大学や学園もまっさきに移転を考えたことだろう。だが、それは学生総数1000人ほどの体力のない小さな大学にとって叶わぬ夢。系列の中高は世田谷区の高級住宅地にあって交通の便もいいのだが、すでに総数1200人ほどの生徒たちでギューギューだ。移転先にはならない。

なので、立地の悪さを指摘しても虚しいばかりである。それに恵泉女学園大学ぐらいのアクセス環境にあっても持ち堪えている同レベル大学はたくさんあるし、逆にJR山手線、都営地下鉄浅草線、東急池上線五反田駅から徒歩10分と好立地にある清泉女子大学が、大幅な入学定員割れを起こしてもいる。立地だけでうんぬんできない。

清泉女子大学
清泉女子大学(写真=Hykw-a4/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

受験生が魅力に感じる学部学科の構成になっているか

では、ハードではなくソフトの問題か。受験偏差値で下位層の受験生がそこで学んでみたいと思える、学部学科の構成になっているかどうか。

これは移転よりも現実性があるかもしれない。だが、現実的にできそうな改組はすでに恵泉女学園大学も終えており、それで人が集まらないのだから、もっと非現実的なぐらい思い切った大改革に踏み切るべきである。

とはいえ、小さな大学なのでゼロから新学部を立ち上げる体力はない。既存のものをどう改革すれば魅力的に見えるか。この大学は最終的に2学部4学科から成った。現状の内容はこうである。

・人文学部――日本語日本文化学科、英語コミュニケーション学科
・人間社会学部――国際社会学科、社会園芸学科

園芸学部、心理学部の2学部に改変してはどうか

さて、パッと見で魅力を感じるか。人文学部は「文学部みたいなものだろう」として、日本語日本文化学科とは何? 留学生向けの学科? よく分からない。人間社会学部は学部名からしてぼんやりだ。その下に国際社会学と社会園芸学科? どちらも「社会」が邪魔をして意味を取りづらくさせている。2学科のつながりも不明だ。とりあえずこの大学は何を学べるか分かりづらい。

そこを強く意識し、かつ、同レベル帯にはライバルの少ないレア感を醸し出すべく、例えば以下の2学部4学科制に大改編してみてはいかが。

・園芸学部――園芸学科、環境学科
・心理学部――心理学科、臨床心理学科

すっきりした。どう改編したのか説明しておこう。大きなポイントは2つある。

ひとつは、現状の人文学部をそのままバッサリ切ることである。英語コミュニケーション学科は一般的には英語英米文化学科と称する内容なのだが、語学はこの学科が大事にしてきた4年間必修の少人数ゼミを全学共通で行うこととし、これまで蓄積してきた教育的リソースをなるべく活かすようにする。

日本語日本文化学科は、日本語教員養成と文芸やマンガ・アニメの創作が特徴的で、前者はニーズ増がイメージできないので止め。後者は、大正大学が導入して人気を集めている表現学部にしてはどうか、と思ったものの、それにしては教員人材が少なすぎでゼロから立ち上げるに等しい感じになるので、これも諦める。

language辞書
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英語力が必要な学科はニーズがない

また、人間社会学部の国際社会学科もリソースは全学共通の語学カリキュラムと一般教養に流す。国際政治学や国際経済学、国際社会学などを扱うところなのだが、英語コミュニケーション学科と同様に相応の英語力が必要だ。だが、少子化が進んだ現在、英語ができる≒受験勉強に強い受験生を意味する。該当する受験生はもっと高いレベルの大学に行ってしまうから、この分野にニーズはないと考えたほうがリアルなのだ。

学内からは猛烈な反対の声があがるだろうが……

そして、もうひとつの大きなポイント。社会園芸学科のリソースを活かした、新しい2学部の創設だ。現在の同学科には、恵泉女学園が創立当初から力を入れてきた園芸学の知見が蓄積されており、学部に昇格させることによって、理系的要素を増やし、千葉大学園芸学部を追うようなイメージを描ければ満点だ。新しく作りたい環境学科は、持続可能社会やエコロジーに関心の高い教員が多いので、そこをもっと体系的に発展させる。

心理学部は、なぜか社会園芸学科の中に埋もれていた心理学系の知をより強化し、学部に昇格させるもの。心理学科では心理学一般を学び、より実践的な学びを求める人向けに臨床心理学科も新設する。現状では、臨床心理士や公認心理師などの資格取得を目指すカリキュラムがないが、そこは受験生が触手を伸ばす要素として不可欠なので、ぜひとも教育体制を整えたい。平和学と人文学しかない現状の大学院にも、もちろん臨床心理学の修士課程を設ける。

ガーデニングの手
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これだけの改革をするには、かなりの犠牲(主に教員のリストラ)を強いる。学内から猛烈な反対の声があがるだろう。英語コミュニケーションと国際社会学科を解体することは、学則第1条の「真理と平和を愛し、国際的視野に立って文化の進展と社会の福祉に貢献する有為な女性を育成する」に反するという批判もあるかもしれない。しかし、だったら、学則を改正すればいい。というか、この学則は文章の後半をこう変えたい。「~有為な人間を育成する」へ。

共学化を断行すべし

そう、大改革の最後は、以上の再編と同時に断行する共学化である。女子大学が生き残るための共学化は90年代の後半から方々で実施され、結果的に踏ん張ることができている大学が大半とはいえ、崖っぷちでふらついている大学も散見される。効果のほどはやってみないと分からない。

だが、そうした実効性で考えるよりも、女子大学というあり方は歴史的使命を終えたとしたほうがずっと自然ではないだろうか。今の日本で女子大の存在意義はどこにある?

かつて存在した「女性を隔離する」発想

そもそも女子大学は、女性が家庭の外では露骨に差別をされていた時代に、女性を隔離して高等教育を与えるために生まれたシステムだ。1901年に創立した日本女子大学校(現在の日本女子大学)が日本初の組織的な女子高等教育機関とされる。そこから少しずつ女性にも高等教育の門戸が開かれていくのだが、終戦までは基本的に「大学は男のもの」だったといえる。

戦後も長らくは「男は外で働き女は家を守るもの。だから女は四大に行かないでいい」が当たり前だった。象徴的な事例をひとつだけあげると、男より女のほうが強い大学の代表格である上智大学が、女子学生の入学を許可したのは1957年のことである。それまでの上智は男子大学だった。

若い女性が消費活動の最前線に立っていたバブル経済期(80年代末~90年代はじめ)でも、「親が反対するから、早稲田じゃなくて女子大に進学した」という学生がいたものである。当時はまだ「女性を隔離する」発想が生き残っていた。

早稲田大学
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あえて女子大を選ぶ意味が分からない

しかし、そこから30年経った今、「親が反対するから、早稲田じゃなくて女子大」と聞いたら、意味不明な若者がほとんどだろう。あえて女子大を選ぶ意味が分からないのだ。

その存在意義を、女子大教授など肯定派の識者たちは「男子を気にせずに集中して勉学に励める」と説明することが多い。でも、そんな勉強マシーンみたいな女性を育成していいのだろうか、現実離れした屁理屈ではないか、と私は首をひねる。

「女性リーダーを輩出する社会的責務がある」といったことも言う。え、共学から女性リーダー生まれてますけど、と思う。リーダーたるもの多数の男性も束ねなきゃいけないのだから、実物とコミュニケーションを重ねなければ話にならないでしょ、と本当に思う。男女差別はまだ残っているとはいえ、それらの問題は男女共に解決していくもの。そう発想する方が自然なのだ。

女子受験生はもちろん、いまやその保護者世代も、女子大に積極的な存在意義を探せない。根本的にはそれが最大の理由で、女子大の価値が急落し、消えていく例が増えるのではないか。

共学化を推進すべし。これまでの共学化は、大学名から「女子」を削ったり、まったく別の名にしたりしてきた。だが、これも発想を転換して、「女子」の名はそのままに男子にも入学許可を出す、なんていうのも面白いかもしれない。

恵泉女学園大学の場合だったら、園芸学部や心理学部を志願する勇敢な男子もいるだろう。想像すると、何かやってくれそうな若い男の子の顔が浮かぶのだが、そんな学生の芽を伸ばす存在意義も新しい「女子大」にはある気がしてくる。