「死ぬまでにやりたい10のこと」なんて考えられない
人生の最優先事項は「生き延びること」。
そう決めた先には、思い描く育児やキャリアの夢など、大事なものを手放さなければならない試練が待っていた。海野優子さんがステージ4のがん告知を受けたのは、34歳のときだった。
「実際に死にかけてみると、これからも生き続けることしか考えられない。『死ぬまでにしたい10のこと』を挙げて全部やろうとする映画もあるけれど、そんな気には全然なれなかったんですよね。命ある限りは『生きたい』という気持ちをずっと持ち続け、とにかく治療に専念しようと。人生を前へ進めるためには、大事だと思っていたことをいったん手放そうと決めました」
病気になる前の自分は「仕事」が優先。すべてが仕事につながるよう生かしたいと思い、どんな誘いも断らず、“営業”と割り切って人脈づくりに励んでいたという海野さん。なぜそこまで「仕事」にこだわっていたのか。
「私にとって、“仕事を頑張る自分”というのが大切なアイデンティティーでした。自分は何か得意なものや秀でたものがあるわけじゃなく、人より頑張らないと同じようになれないだろうという意識があって。でも、頑張ることなら人よりできると思っていました」
出産と同時に見つかった腫瘍は悪性のがんだった
前職ではWebプロデューサーとして、働く女性向けメディアを手がけ、編集部のメンバーには「社畜の海野P」と呼ばれるほどの仕事人間だった。33歳で結婚、その後さらにキャリアップをめざして、メルカリへ転職。新規プロジェクトの立ち上げを任され、半年経った頃に妊娠がわかった。産休を取ってもすぐ戻るつもりでいたが、それはかなわなかったのだ。
妊娠8カ月を迎えた頃、海野さんはひどい腰痛に悩まされ、左足も痛んで歩けなくなった。寝ていてもツラく、1カ月ほど不眠が続く。形成外科の医師には「おそらくヘルニアを併発しているかもしれない」と診断されたが、妊娠中でレントゲンを撮れず、臨月まで安静にし、帝王切開で出産することになった。
2018年8月、無事に女の子を出産。だが、医師から「お腹を開いたとき、左腹部に腫瘍のようなものを確認した」といわれる。細胞診で「悪性」と判明、それも「原発不明の硬膜外悪性腫瘍」と告げられた。原発不明というのは、どこから発生したかわからないという意味で、突発的に癌細胞が現れるという非常に希少ながんだという。
「どんな抗がん剤が効くのか、どういう治療法があるのかもわからない。腫瘍の大きさは14センチ以上あり、すでに背骨に浸潤しているので切除もできない。『抗がん剤を打つしか手段がないでしょう』といわれた時は本当に絶望し、心から悲しい気持ちになりました」
告知を受けて最初に思ったのは、「私が死んだら、この子は誰が育てるの?」。薬は母乳に影響するため、海野さんは痛みに耐えながら、授乳を続けていたが、あまりのツラさに1カ月ほどであきらめた。まずは鎮痛剤を使って痛みを和らげ、精神的にガンに負けないこと。そして退院後は子どもを乳児院に預けて、自分は治療に専念することを選択した。
抗がん剤が効かず、強く思った「生きたい」
ところが、がんの専門病院で抗がん剤治療を受けてもまったく効かず、手の打ちようがないといわれる。そんなとき海野さんは、夫から「優子はどうしたい?」と聞かれた。
「私が『生きたい』と答えると、彼はとにかく生きられる可能性があるなら、あらゆる治療をやってみようと励ましてくれました。そこから、ものすごい勢いで調べてくれて……」
“夫はストイックな人で”と苦笑するが、妻の命をつなぐために全力を尽くしてくれた。彼も起業して社長業に追われていたが、あらゆる論文を読み、何人もの医師に会いに行っては情報収集にあたる。やがてかわいいイラストのような資料を持ってきて、新しい治療法があることを説明してくれたのだ。
医師を信頼し、生きるための挑戦を決めて、自宅から1時間かかる病院へと転院する。そこでさまざまな治療を試みたところ、腫瘍は小さくなり進行も止まった。数カ月で退院すると、体調は徐々に良くなっていった。
がんの宣告から約1年間、闘病生活を送った海野さん。何よりツラかったのは生後間もない娘と離れて暮らすことだった。ようやく乳児院から迎えて、親子3人の暮らしが始まる。娘は保育園へ通い始め、自分も職場復帰を果たす。夫が車で送迎してくれ、海野さんは六本木のオフィスへ車椅子で通うようになった。
だが、産休前と同じ部署へ戻ったものの、組織の体制や上司も変わっていた。自分ができることを探すのも大変だったと振り返る。
「当たり前にできたことができなくなり、周りの人もどう配慮すればいいかわからなかったでしょう。私は研究開発組織のPR担当だったのでイベントがあっても、車椅子で行くのは迷惑をかけてしまうと気後れしてしまう。時短勤務では成果も出せず、挫折感を味わいましたね」
自分の力不足を痛感し、今の仕事を続けるのは無理かもしれないと心が揺れる。そんなとき人事部の人から障害者雇用を積極的に行っている「Annotation & Business Support」という部署があることを聞いた。障害のある人が能力や適性に応じて仕事ができるようにするための採用枠だが、メルカリ内に存在していることも知らなかったという。
「私は当事者の気持ちがわかるし、健常者の気持ちもわかる。だからこそ、自分にしかできないことがあるような気がしたのです。メルカリ初の車椅子社員として、障害者の方が働きやすい組織づくりみたいなことができないだろうか。働く障害者に仕事をおもしろいと思ってもらえるように、何か貢献できればと……」
優先順位は何か。夫のひと言で手放すことを覚悟
翌年、海野さんはその部署へ異動する。チームには聴覚障害や発達障害のあるメンバーがいて、チームのマネジメントに取り組んだ。やりがいも見いだして頑張っていたが、仕事と育児の両立は厳しく、毎日分刻みのスケジュールで動いては倒れるように眠る生活が続く。そんな日々の中で腸閉塞を併発して2度入院。肝心のリハビリにも専念できず、それを見ていた夫にこう言われたのだ。
「お前はそんなんで、歩けるようになる気はあるのか?」
厳しいひと言にハッとしたという海野さん。「私はせっかく生き延びたのに、仕事にしがみついて手放せなかった。何もかも中途半端になっていたことに気づかされて」と顧みる。
夫は淡々とした言葉で背を押してくれた。「仕事なんて、歩けるようになってからいくらでもできるじゃん」と。
今までどんな思いでキャリアを築いてきたか……それを手放すのはやはり怖かった。病気になるまでは、30代、40代と思い描く夢もあった。だが、夫のひと言で、いったん仕事を手放す覚悟を持てた。海野さんは一年休職することを決め、治療とリハビリに専念する。幼い娘も「ママ」と呼んでくれるようになり、子育てを楽しむ心の余裕ができた。
2022年3月、海野さんは職場へ復帰。新任の車椅子の男性上司と新たなプロジェクトに取り組む。メルカリに所属するパラリンピック選手をサポートする業務だ。さらに自分がやるべき課題も見えてきたという。
「障害者雇用の世界はベールに包まれているというか、あまり語られない部分がすごくあると思います。例えば、数字目標だけに目が向きがちな法定雇用率の問題。あるいはもっと根本的な、健常者と障害者との間に存在する見えない壁があることも表に出てこない。できればそのイメージを変えたいし、もう少し世間の人たちに認知される働きかけができたらいいなと思うのです」
仕事をいったん手放したことで、目的意識も強く持つようになった。昔は“仕事を頑張っている自分”がすべて。必死で頑張りながらもしんどさを抱えていたが、今は仕事と向き合う気持ちも変化している。
「今はすべてがエンターテインメントなんです。難しいことや困難にぶつかるほどアドレナリンが出て(笑)、生きていることを実感できる。より仕事を楽しんでいる感じがしますね」
自分の中の優先順位も変わっているようだ。メルカリには日本国内であればどこで働いてもいい“YOUR CHOICE”という制度があり、海野さんは一家で福岡へ移住。山や海が身近にあるのどかな街で暮らし、家族と過ごす時間が増えた。そして東京のオフィスへ出張する際は、車椅子の身でも一人で飛行機や電車を乗り継いで出かけていく。
今も治療やリハビリは継続しているが、英会話など自分がやりたかったことも始めた。
「悲しいとか、ツラいとか言っている時間は本当にもったいないので、かなりポジティブにはなったかな」とほほ笑む海野さん。今、自分が生きていること、仕事をしていること、そして何より大切な家族と暮らす日々にこそ幸せを感じているという。