出版不況がいわれて久しい。小説家の平山瑞穂さんは「2010年代から小説を発表しても単行本化が危ういという状況になった。現在、出版社の方針になっているように、売れるというデータがある作家でなければ本が出せないのなら、文芸の世界から多様性は奪われ、滅びの道に向かうだけだ」という――。

※本稿は、平山瑞穂『エンタメ小説家の失敗学 「売れなければ終わり」の修羅の道』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

平山瑞穂さんの左から『桃の向こう』『3・15卒業闘争』『ラス・マンチャス通信』
撮影=プレジデントオンライン編集部

口約束という文芸界の奇妙な慣行

プロの作家になってから、うっすらと気にかかっていたことがある。それは、版元が作家に小説作品を「発注」するタイミングに関わることだ。

小説の発注とは、すなわち、編集者から作品執筆の依頼がなされることである。「こういう小説を書いてください」というオファーが出され、僕がそれを受諾した段階で、発注=受注という行為は成立している。少なくとも、社会通念に照らして考えればそうだ。ところが、どうやらその時点では、その小説をいずれ刊行することが、社内での企画会議等を通じてオーソライズされていないらしいということが、ある時点でわかってきたのだ。つまり、「あなたのその小説をわが社で刊行します」という編集者の言明は、その段階では単なる口約束にすぎないということだ。

なお、企画会議というのは、社によって形態・人員構成などに違いはあるだろうが、基本的には、営業部・販売部・宣伝部など、編集部以外の部署を交え、また役員なども同席の上で、作品刊行の是非、初版部数をはじめとする刊行の規模などについて討議し、決定が下される場である。

企画会議にかけられる前に作家は書く

その企画会議を通過し、社内的にも承認が得られなければ、作品を本にすることはできないはずだ。しかし実際には、刊行する作品について会議に諮られるのは、作品が書き上がり、担当編集者や編集長が原稿に目を通してからになるケースが多いように見受けられた。これは、商慣行として考えればおかしな話だ。もしも会議で刊行が却下されたら、どうするつもりなのか。とうに発注は済んでしまっており、製品がすでに納入されてしまっているのに。

僕がそのことにしばらく気づかなかったのは、ある時期までは、僕には見えないところですべてが滞りなく進められ、気がつけば作品が本になっていたからだ。たぶん、編集部が「これを出します」と宣言した作品について、他部署や役員などによって、刊行それ自体に難色を示されたりするといったことが、それまではあまりなかったのだろう。

2010年代から本が出せなくなった

ところが2010年代に入ったあたりから、出版業界には不穏な空気が蔓延しはじめた。そして僕はついに、注文に応じて書き上げた小説を刊行してもらえないかもしれないという局面に見舞われた。うちひとつは、朝日新聞出版の文芸誌『小説トリッパー』に連載していた『出ヤマト記』(一人の少女が、自らのルーツを探って、北朝鮮を思わせる「北の共和国」に単身、潜入する物語)だ。この長篇作品を単行本化するという企画が、企画会議で却下されたというのだ。

理由は、「平山瑞穂」名義で刊行された本が売れたというデータが、(版元の如何を問わず)ほとんど存在しなかったからだ。僕に対してはすでに、連載中に支払った原稿料という投資がなされていたわけだが、単行本化してもそれを回収できないばかりか、むしろ赤字が嵩むばかりだと、企画会議に列席した(編集部以外の)人々は判断したのだ。

『小説トリッパー』への連載は、連載終了後の単行本化を当然の前提とした話だったので、もちろん僕は、愕然とさせられた。さいわい、担当編集者が食い下がってくれて、翌月の会議に再度諮り、刊行についてのゴーサインをかろうじて勝ち取ることができたし(『出ヤマト記』は、2012年4月刊行)、万が一、本にしてもらえなかったとしても、連載時に原稿料はもらっていたわけだから、まるっきりのただ働きになるというわけでもなかった。

書き下ろし小説も出版してもらえない

しかし2011年、角川書店から刊行される予定になっていた『3・15卒業闘争』については、事情が違っていた。こちらはほぼ書き下ろしだったにもかかわらず、刊行を前にして、それとそっくりの事態に立ち至るなりゆきとなったのだ。

そこに至るまでの経緯について触れておこう。

2008年に出版した7作目の小説『桃の向こう』がセールス的に惨敗となってから、角川の担当編集者たち(『野性時代』の担当と、書籍編集部の担当)は、僕の生き残りを賭けた起死回生の策をあれこれと練ってくれた。提案されたのは、「日本推理作家協会賞」の短編部門での受賞を狙って、『野性時代』に勝負作としての短篇小説を掲載するというプランだった。「受賞作」の名を冠すれば、単行本のセールスも格段に上がるはずだったからだ。候補作は、毎年、ある期間中に刊行された、いくつかの特定の文芸誌に掲載された作品から選ばれる。『野性時代』も、そうした文芸誌のひとつだったのである。

賞狙いの勝負作を文芸誌に発表したが…

勝負作というのは、まず連作でいくつか短篇を執筆し、そのうち最も出来のいいものを、しかるべき時期に掲載するということを意味していた。

問題は何を書くかだが、二人の編集者は、「この際、直球の『ラス・マンチャス通信』路線の作品をお願いします」と正面から持ちかけてくれた。彼らは、僕の書き手としての本質は、日本ファンタジーノベル大賞を受賞したそのデビュー作にあると思っており、勝負をかけるなら、僕特有の資質が最も鮮明に現れるはずのその路線で臨むべきだという考えだったのだ。作品は、日本推理作家協会賞を受賞できるかどうかにかかわらず、最終的には短篇の連作もしくは一本の長篇小説という形で書籍化してくれるということだった。

まだ何も書いていない原稿用紙
写真=iStock.com/kudou
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僕にしてみれば、まさに望むところといった心境だった。そこで僕は、前々から構想を温めていた、しかしなかなか実現への手筈が整わなかった作品を、それに充てることにした。『ラス・マンチャス通信』も顔負けの捻れたファンタジー性に支えられた、不穏な物語である。

僕としてはまさに本領発揮という感じで、書くに際して迷うことはほとんどなかった。ただし、受賞狙いのプランを提案されたタイミングがわりとギリギリだったこともあり、『野性時代』に掲載する候補となる短篇としては、二篇書くのがやっとだった。結果としては、物語の冒頭部分に当たる一作目が、『棺桶』というタイトルで『野性時代』に掲載された。

受賞ならず単行本化の話が消えた⁉

日本推理作家協会賞については、残念ながら受賞は逃してしまったし、候補作にも選ばれなかったのだが、少なくとも、その一歩手前のところまでは行き着いていたようだ。というのも、この短篇は、日本推理作家協会が毎年編集している推理小説年鑑『ザ・ベストミステリーズ』の2011年度版に、受賞作や候補作と並んで、「ベスト12」の一篇として収録されたからだ。そもそも『棺桶』が、いわゆる推理小説としての要件を満たしているとは言いがたい作品だったことを考えれば、まあ善戦したほうだったのではないかと思う。

とはいえ、受賞できなかったということは、それを冠として単行本を大々的に売り出すという当初の目論見も、この時点で消滅してしまったということを意味する。その事実には落胆したが、意気消沈している暇はなかった。僕は一刻も早く、頭の中に氾濫する物語世界のイメージを形にしたかったのだ。僕は怒濤の勢いで残りの部分を書き継ぎ、『棺桶』を第1章とするこの物語を、全六章構成の長篇小説『3・15卒業闘争』として完成させた。

書籍化が却下され平身低頭する編集者

書籍編集部の担当者も絶賛してくれたのだが、しばらくしたらその担当者は、「企画会議に通らなかった」と僕に報告してきた。本にはできないということだ。『棺桶』部分以外は書き下ろしだから、原稿料すらもらっていない。これで本にしてもらえず、印税も手にすることができなかったら、この数カ月の間の僕の労力はどうなってしまうのか。

自分に非があるとは思えなかった。僕は編集者たちから、「『ラス・マンチャス通信』路線の作品を書いてほしい」と言われ(そういうスペックの製品の発注を受け)、指示されたスペックどおりに、しかも約束した期日までに製品を仕上げて、納入しただけだ。その段階で書籍化を拒まれるというのは、「注文どおりに仕上がってはいるものの、この製品はわが社では売り物にならないから、買い取ることはできない」と製品を突きかえされたも同じではないか。そんな理不尽な話があっていいものだろうか――。

もちろん、担当も平身低頭していた。会議の場でも、(朝日新聞出版の担当と同様)がんばってくれたらしく、1カ月の猶予をもらって、その間に、この本を刊行することのメリットとみなせるデータを集め、翌月の会議にもう一度諮ってみるという話だった。

タブレット端末を手に、会議中のチーム
写真=iStock.com/AmnajKhetsamtip
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「いい作品か」ではなく「売れる作品か」

そんなデータを、どれだけ集められたのかはわからない。たぶん、説得力のあるデータなどないに等しかっただろう。それ以前に、この作品の刊行にNOを突きつけた角川の役員や営業サイドの人々は、これは断言してもいいが、誰一人として、僕の原稿になど目を通していなかったと思う。

問題なのは、それがいい作品かどうかではない、「売れる作品」かどうか、ただそれだけなのだ。彼らは、基本的に数字しか見ていない。「平山瑞穂という作家が過去に出した本はどれも売れていないから、うちで出してもまず売れないだろう。そんなリスクをわざわざ背負う必要はない」――それが彼らのロジックのすべてなのだ。

それを一概に責めるつもりはない。僕はサラリーマン生活も長かったので、彼らがそういうロジックを駆使する理由も理解できるし、自分も同じ立場なら同じ判断を下すのではないかと思う。だが、現場ですでに発注がなされ、注文どおりに仕上げられ、納期も守った上で納入された製品について買い取りを拒否するのは、商慣行として絶対におかしいということだけは言える。

あまりに少ない初版部数

翌月、担当が提示したデータが具体的にはどういう内容だったのか、役員らがそれにどれだけ本当に納得したのかは不明だが、刊行は首の皮一枚といったところで認められた。ただし、初版部数は3000部まで削られた。3000部といえば、純文学の書籍の初版部数を思わせる数だ。僕は当初、初版では6000部から7000部くらいは刷ってもらえていて、それが次第に5000部、4000部と減らされていったのだが、3000部という数には、さすがにかなり打ちひしがれた。

おそらく彼らも、編集者が提示したデータに納得したというよりは、「まあ現に、注文に応じて書かれたという完成原稿が存在してしまっているのでは、(経営判断としては不可でも)道義的にいって出さないというわけにもいかないだろう」という考えから、しぶしぶ刊行を許したといったところだったのではないかと想像する。しかし赤字の額はできるだけ小さくしたいから、初版部数を可能なかぎり減らしたのだ(初版部数が少なければ少ないほど、その本は、連日、山のように出版される新刊本の中に埋没してしまい、いっそう売れなくなるのが道理なのだが)。こうして『3・15卒業闘争』は、2011年11月に単行本として刊行された。

新宿の紀伊國屋書店
写真=iStock.com/TkKurikawa
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3000部では書店で注目もされない

平山瑞穂『エンタメ小説家の失敗学 「売れなければ終わり」の修羅の道』(光文社新書)
平山瑞穂『エンタメ小説家の失敗学 「売れなければ終わり」の修羅の道』(光文社新書)

かなりエッジの効いた風変わりな作品だったので、仮に初版で6000部刷られていたとしても結局は売れなかったかもしれないが、3000部では注目を集めるのが本当にむずかしく、セールスは例のごとく惨憺さんたんたるものだった。ただ、少なくとも『ラス・マンチャス通信』を歓迎してくれていた層にはこの作品もおおいに支持されたし、僕自身は、今でもこの作品を傑作だと自分では信じている(たとえあらかたの読者に受け入れられなくても)。

いずれにしても、この業界特有の、発注のタイミングをめぐる道理の通らない慣行は、本来なら、可及的すみやかに改めるべきものだと思っていた。役員や営業サイドの人々は、どうせ数字しか見ていないのだから、その作家の作品を刊行できるかどうかは、発注の前の時点で答えが出ているはずだ。つまり、まず企画会議で刊行の是非について結論を出してから、初めて発注をかけるという順序にすべきなのだ。ただ、その理屈を突きつめていくと、作家にとっては非常に具合の悪いことになってしまう。

事前に企画会議にはかれば本が出せなくなるジレンマ

実はこの問題については、7、8年前にブログ(「平山瑞穂の白いシミ通信」)でも論じているのだが、そのとき僕は、以下のように綴っている。

本来なら、「こういう不可解な慣行はすぐにでも改めてください」と出版業界全体に対して声高に訴えたいところだ。しかし実のところ、それをためらう気持ちも僕にはある。もしもその「本来の順序」が貫徹されるようになった場合、何が発生するかというと、「現時点で売れていない作家の作品を出版しようという企画は、ことごとく水際で却下される」という事態だ。そうなったら、僕のように「客観的に見てプラスの材料」にきわめて乏しい作家は、へたをすれば永遠に本を出せなくなってしまうかもしれない。

その後、事態はさらに悪化して、現在の僕はすでに、ほぼ上記ブログで予見したとおりの状態に置かれていると言っていい。文芸出版業界自体も、おそらく、ある時点で、この発注システムの問題点に気づいたのだろう。ある時期以降、たとえばこちらから「新作を書かせてもらえないか」と編集者に持ちかけても、その場では確答せず、先に企画会議に諮って結果が出てから、初めて僕にゴーサインを出すようになってきた。

もちろん、ゴーサインが出ない場合もある。最近は、ほぼ出ない。

売れ線だけでは…というのは負け犬の遠吠えか

社会通念に反する慣行は結果として是正されたわけで、そのこと自体は喜ぶべきなのかもしれないが、僕のように、あらかじめ道を塞がれてしまった身にしてみれば、喜ぶどころではない。率直にいって、お先はまっ暗だ。

そうして「それまでのデータから判断して売れないと見込まれる作品(作家)」をやみくもに、機械的に排除していくやり方は、文芸の世界から多様性を奪っていくことにつながる。多様性を失った種は、種として脆弱ぜいじゃくになり、滅びに向かっていくだけだと思うのだが、僕がここでこんなことを訴えても、負け犬の遠吠えにしかならないのだろう。