※本稿は、アルテイシア『自分も傷つきたくないけど、他人も傷つけたくないあなたへ』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「こうあるべき」は男も女もしんどい
「生まれた時にわりあてられた性別」をSEXといって「社会的、文化的に作られた性差」をGENDERという。ジェンダーバイアス(性差に対する固定概念や偏見)をわかりやすくいうと「男らしさ/女らしさ」「男/女はこうあるべき」といった「型」みたいなものだ。
そういう型を押しつける社会では、型にはまらない人は「男/女のくせに」と叩かれる。「女のくせに料理もできないなんて」「稼げないなんて男失格だな」といったふうに。
そんな社会は生きづらいよね、だからジェンダーによる偏見や抑圧をなくそうよ、みんなが自分らしく自由に生きられる社会にしようよ、という話なのだ。
「こうあるべき」と押しつけられるのは、男女ともにしんどい。そんなしんどい呪いを次世代に引き継ぎたくない。
たとえば、ピンクが大好きな息子さんが保育園にピンクの服を着ていったら「男の子なのに変」と言われて泣いて帰ってきた、という話を聞いたことがある。
「女の子はピンク、男の子はブルー」と二つに分けるんじゃなく、黄色、緑、オレンジ、マゼンダ、ビリジアン……いろんな色が存在するカラフルな社会。みんな違って当たり前、が当たり前の社会。誰も排除されない、みんなが共生できる社会を目指すのがフェミニズムなんですよ。
という話を講演でした時に、参加者の男性から「男らしくありたい男性もいますよね? そういう男性は自分を否定されたように感じるんじゃないですか」と大変いい質問をされた。
誤解されがちだが、フェミニズムは個人の生き方や選択を否定するものではない。むしろ真逆で、個人の選択を尊重しようという考え方なのだ。
男の子がキャッチボールを好きでも、人形遊びが好きでもいい
たとえば男の子がキャッチボールを好きでもいいし、人形遊びやお化粧ごっこを好きでもいい。メイクや脱毛をしたい女性はすればいいし、したくない女性はしなくていい。それぞれが好きなものを選べる社会、「男/女は○○するべき/するべきじゃない」と強制されない社会を目指すのがフェミニズムである。
また、そもそも「男らしさ」って何かね? と考えてみてほしい。たとえばパワフル、打たれ強い、度胸がある、リーダーシップがある、意見をハッキリ言う……そういう性質や個性は性別関係なく長所である。
それらを「男らしい」と括ってしまうと、それにあてはまらない男性は「男のくせに」「女々しい」「女の腐ったような」と揶揄されて排除される。逆にパワフルな女の子は「女の子なのに元気すぎる」と揶揄されて、意見をハッキリ言う女性は「女のくせに生意気だ」と排除される。
だから私は「男らしい」「男前」「女子力が高い」といった言葉は使わず、「パワフルだね」「料理が上手だね」などそのまま言うようにしている。細かいことを気にしなくてもと言う人がいるが、言葉は文化を作るからだ。
言葉は呪いになる
そして、言葉は呪いになるからだ。以前、中学生の男の子が「お菓子作りが好きなんだけど、女子力高い(笑)と言われるのがイヤだ」と話してくれた。そう言われるのがイヤで、彼はお菓子作りをやめてしまうかもしれない。逆に「美味しいね」「すごいね」と褒めてもらえれば才能を伸ばせるかもしれない。女の子だけじゃなく、男の子も翼を折られるのだ。
また、別の男の子は「男の子なんだからいっぱい食べて大きくならなきゃ、と言われるのがつらい」と話してくれた。逆に女の子は「やせなきゃ」とプレッシャーをかけられる。
40代の女友達はSNSにダイエット広告が出てくるのがウザくて、性別欄を男性に変えたそうだ。すると入れ歯安定剤の広告がジャンジャン入るようになったという。我々は入れ歯を安定させたいお年頃なのか……という気づきはさておき、体型だけではなく、女は男よりも目立つな、偉くなるな、小さくなれと育てられる。
「ジェンダーの呪い」に殺された母
私の母は50代の時に拒食症で亡くなった。母は23歳で結婚して専業主婦になり、40歳目前で夫から離婚されて、酒におぼれて自傷行為をするようになった。
当時中学生だった私は「お母さん、ちゃんと自分の足で立ってよ」と思っていた。でも大人になって「母は自分の足を奪われたんだ」と気づいた。1950年生まれの母には、結婚して夫に養われる以外の選択肢がなかった。つまり、自己決定権がなかったのだ。
ミイラみたいにやせ細った母の遺体が発見された部屋は壁一面に20代のギャルが着るような服がかかっていて「母はジェンダーの呪いに殺されたんだな」と思った。
「若く美しい女が男に選ばれてハッピーエンド」という呪いにかかったまま、死んでしまったんだと。
あの日あの時あの場所でフェミに会えなかったら
一方の父は浪速の石原慎太郎みたいな人物だった。私は故慎太郎氏を見るたびに「なつい」と感じていた。「なつい」は若い子に教えてもらって最近覚えた。
体育会系マッチョで昭和のモラハラ親父だった父は、男らしさの呪いをじっくりコトコト煮込んだような人物だった。彼は家庭に無関心な仕事人間だったが、商売がうまくいかなくなり自殺してしまった。
父も「稼げないなんて男失格」という呪いから絶望したのだろうし、「男は強くあるべき」という呪いから弱音を吐けず、助けを求められなかったのだろう。また生前に父が住んでいた部屋はゴミ屋敷状態で「セルフケアできない男性は世話係の女性がいないと死ぬ」という呪いのお手本のようだった。
フェミニズムは人生の役に立つ
両親ともに遺体で発見された女、という中二が濡れる設定を持つ私は20代前半でフェミニズムに出会った。アメリカで女性学を学んだ会社の先輩から田嶋陽子さんの本を借りて、フェミニズムを知ったおかげで親の人生を理解することができた。
あの日あの時あの場所でフェミに会えなかったら、「親に愛されなかったのは私が悪いから」「親があんな死に方をしたのは私のせいかも」と自分を責めただろう。自己責任教と家族の絆教にまんまと取り込まれていただろう。
そうならずにすんだのは「それもこれも全部、ジェンダーの呪いのせいだ」と理解できたからだ。
フェミニズムは人生の役に立つ。それを実感しているから、ジェンダーの呪いにバルスと唱えて「オッス! おらフェミニスト」と宣言している。
新しいフェミニズムの時代だが「フェミ叩き」も
古よりフェミニズムはバックラッシュの歴史だ。ノルウェーの児童書『ウーマン・イン・バトル 自由・平等・シスターフッド!』(合同出版)に描かれているように、自由と権利を求めて闘った女性たちの多くが逮捕されて投獄されて拷問された。
日本で参政権を求めた女性たちも「イカれた女たち」と激しいバッシングを受けたし、2000年代にはフェミニズムに対する本格的なバックラッシュが始まり、ジェンダーフリーバッシングの嵐にさらされた。
フェミニズムの波が来ると、それを潰そうとする波が来る。2017年に伊藤詩織さんの告発があり、その後#meTooやフラワーデモが全国的な広がりを見せた。今は第四波フェミニズム、SNSを使った新しいフェミニズムの時代と呼ばれていて、同時にフェミ叩きも広がっている。女が自由や権利を求めるのが許せない人間は古今東西存在するのだ。
私も昔は叩かれるのが怖くて、フェミニストを名乗ることに抵抗があった。でも私たちが進学して就職して選挙に行けるのも、バックラッシュに負けず闘ってくれた先輩たちのおかげである。そんなフェミニストたちに感謝して、次世代にバトンをつないでいきたい。
そんな思いでやっとりますが、最近はヘルジャパンにバチギレつつも希望を感じている。20代の頃はフェミニズムの話ができる友達がいなくて孤独だったけど、最近はフェミに目覚める人がどんどん増えてフェミ友がいっぱいできた。1人でバチギレるのは寂しいけど、一緒にバチギレる仲間がいると楽しいし心強い。
フェミニストが憎むのは「男性」ではなく「性差別」
また若い世代ほどジェンダーに関心が高く、大学生にはジェンダーの授業が大人気だそうだ。私が中高生に授業をする時もみんな熱心に聞いてくれて、質問もたくさんしてくれる。
授業後のアンケートでは「フェミニストのイメージが変わりました」という感想をよくもらう。
「フェミニストに対して『男嫌いの過激なツイフェミ』というイメージを持っていました。よく知らずに誤解していた自分を反省しました」と高校生の男の子から感想をもらって、冥土の土産にしよう……と涙した。
なんでも冥土の土産にしたがるお年頃の私だが、冥土に旅立つ前にフェミニズムに対する誤解が少しでも解けると嬉しい。
古よりフェミニストは「男の敵」「男嫌い」とレッテル貼りされてきたけど、フェミニストの敵はセクシスト(性差別主義者)だ。フェミニストが憎んでいるのは「男性」ではなく「性差別や性暴力」であり、その構造やそれに加担する人々だ。
フェミニズムにネガティブなイメージを持っている人も、試しにジェンダーを学んでほしい。それで少しでも生きやすくなる人が増えれば、こんなに嬉しいことはない。