※本稿は、こかじさら『寿命が尽きるか、金が尽きるか、それが問題だ』(WAVE出版)の一部を再編集したものです。
他人事だった介護がついに自分事に
「ここ最近、親父とお袋がくだらないことで言い争いをして。そのたびに電話が掛かってくるんだから、もうやってられないよ」
「お袋の奴、ちょっと気に入らないことがあると、タクシーを一時間も飛ばして家出するんだけど。迎えに行くこっちの身にもなってほしいよ。俺だって遊んでるわけじゃないんだからさ」
老父母が80代に突入するかしないかの頃だったと思う。東京で会社勤めをしていた私のところに、実家から5分ほどのところに住む自営業の兄からウンザリした様子で頻繁に電話が掛かってくるようになった。
母の入院中もわがまま放題の父にうんざり
すでにこの頃、老父母共に認知症の初期症状が表れていたのだろうが、元々短気で神経質な父と何でも自分の思い通りにならないと気が済まないほど我の強い母故、くだらない夫婦げんかは日常茶飯事。
「放っておけばいいんじゃない」
対岸の火事よろしく、深刻に考えてはいなかった。だがしかし、5年ほど前、そうは言っていられない事態に襲われ現実を直視せざるを得なくなる。
「お袋が救急車で運ばれた!」
打ち合わせ先へ地下鉄で向かっていると、兄から電話が掛かってきたのである。
「どうしたの?」
「お腹が痛いって七転八倒して」
その瞬間、「大丈夫だろうか?」と心配するより先に、「あの人、年齢の割には大食いだからな」まずはそう思った。だからといって放っておくわけにもいかない。打ち合わせを終えるとすぐ、東京駅発の高速バスに飛び乗った。
案の定、食べる量に消化が追いつかず、胃腸がパンク状態に陥ったとのこと。重篤な病気ではないものの、年齢を考慮し入院することになった。その頃実家では、買い物も、炊事も、洗濯も、何ひとつ自分ではしないくせに、一人残された老父が「これは食べたくない」「甘過ぎて口に合わない」と、わがまま全開で義姉を困らせていた。
駆け付けた娘に罵詈雑言を浴びせた母
入院中の老母は老母で、点滴を打ち、尿道からカテーテルを挿入している状態にもかかわらず、私の顔を見たと同時に「何しに来たの? お前が来ても何の役にも立たないのに」と、驚くようなことを言い、私を戸惑わせる。
いくら気が強いと言っても、娘に対して、しかも入院先に駆けつけた人間に対して、不用意にこうした言葉を投げつけるほど自制が利かなくなってしまったのだろうか……。このとき、これからの母との関わりは一筋縄ではいかないだろうと予兆のようなものを感じ、思わず首筋が寒くなった。
しかも、これだけにとどまらないのである。
「カラオケ教室の月謝を払わないといけないから、いつもカラオケに持って行くバッグをすぐに取ってきて」
「身体が痒いから薬屋さんで痒み止めを買ってきて」
あなたは一体何様ですか?
病室でなかったら、そう声を荒らげたくなるほどの偉そうな態度で命令してくる。
いくら病人とは言え、あまりに自己中心的な言動に、はあ……、この人どうしちゃったの? 驚きを通り越して呆気にとられる。
青筋立てて怒り狂う母の姿に認知症を確信
「いつ退院できるかわからないんだし、カラオケの月謝は退院してからだっていいんじゃないの」
「ここは総合病院なんだから、痒ければ看護師さんに相談して、塗り薬を処方してもらったら」
極力冷静に説得を試みるも、全く以て聞く耳を持たない。それどころか、
「四の五の言ってる暇があったら、さっさと買ってきなさいよね」
青筋を立ててぶち切れる始末。兄からの電話を受け、取るものも取りあえず駆けつけたというのに、それはないでしょ! 怒りが腹の底からこみ上げてくる。
今日この日まで、絶えない言い争いの原因を作っているのは気が短い老父なのだろうと勝手に思っていた。だが、視線の先が定まらない強ばった表情と人の気持ちを逆なでするような老母の言動を目の当たりにし、こういう言い方をされたら老父でなくてもけんかになるわと考えを改める。
そして、これは間違いなく認知症の初期症状だろうと太いため息が漏れた。
実家の台所の惨状に愕然とする
老母の入院中、長きにわたり彼女が管理してきた台所の片付けをはじめたはいいが、腐った食材、大量のプラスチック容器やレジ袋などが、出てくること出てくること。しかも、整理されずにただただ放り込んであるのだから、どこから手を付けたらいいのか……と、途方に暮れる。日頃、立派なことを言う割には、全く以て実態が伴っていないではないか!
それが老いによるものなのか、元々雑な性格なのかはさておき、大学進学と同時に実家を出て早40年。たまに帰省することはあっても、母が仕切っている台所の流しの下や食器棚の一番下の開き戸の中までチェックすることはなかったわけで。まさかのまさか、ここまで悲惨な状態に陥っているとは……。正直、想像だにしていなかった。
「おやすみー」
老父が二階の寝室に引き上げた後の深夜の台所で、一人死蔵品と格闘する。消費期限の切れた食材や何年も前に賞味期限が切れている調味料だけでも45リットルのゴミ袋があっという間にいっぱいになり、汚れでベタついたレジ袋やプラスチック容器は優にその3倍もある。洗面所の戸棚に押し込んであった大量のタオルを一度全部出してたたみ直すだけでも一苦労。
いやはや全くどういうことよ。
「あの人、寝たきりになっても口だけは達者なんだろうなあ」
他人事だった介護を自分事として捉えた瞬間だった。
老人といえども労わる気になれない
その後、四半世紀勤めた会社を辞め、フリーの編集ライターとして生計を立てていた私は、打ち合わせや取材のときだけ上京すれば、後はリモートワークで何とかなるだろうと判断し(とは言え、ある種の覚悟は必要だったが)、東京からアクアラインを使って一時間半あまりのところに位置する故郷にUターン移住を決める。
だが……、待っていたのは予想を上回るほどの強烈な現実。自制が利かない、人の都合などお構いなし、理屈が通用しない老父母の破壊力は驚くほどすさまじく、さらにはそこに叔父叔母夫婦まで参戦するのだから、身体がいくつあっても足りないどころか、日々爆発寸前の状態に追い込まれていく。
「高齢者を大切に!」
「老人は労りましょう」
なんてきれいごとを真に受けていたら、介護する側がやられてしまう。身体の衰えに反比例するかのように、わがままと憎まれ口が日々増していく老父母と浮世離れした叔父叔母を巡るやっかいな物語の幕が切って落とされたのである。
大停電中でも相撲中継を見せろと駄々をこねる父
老父母との同居がはじまった半年後の2019年9月9日の午前5時頃、房総半島付近に台風が上陸。千葉県を中心とした広範囲が大停電に陥るという緊急事態となった。
我が家のある千葉県の片隅の街も、信号が消え、大型スーパーやコンビニ、ホームセンターは休業を余儀なくされた。総合病院や市役所も復旧の目処が立たず、一時、市内全域が機能不全に陥ったほど被害は甚大だった。
ただ、運がよかったのだろう。我が家のある一画は台風の通過後すぐに通電し、事なきを得る。家屋の被害もなく、いつも通りの生活をすることができた。と言いたいところだが、現実はそう甘くない。
台風一過を蹴散らすほどの勢いで、
「NHKが映らねーぞ。これじゃ、相撲が観られねーだろ!」
老父が駄々をこねはじめる。原因は、強風でアンテナが少し傾いてしまったためなのだが……。平常時でも面倒臭いというのに、緊急時にこれをやられたら、こっちだって黙っているわけにはいかない。
同じ話を何度も繰り返えされ頭の血管が切れそうに
「何を寝ぼけたこと言ってんのよ。生死に関わる緊急事態なんだから、相撲とかほざいてる場合じゃないでしょ!」
いつもより強い口調で言い返すが、激高スイッチが入ってしまった老父は、
「早く電気屋へ電話しろ!」
執拗に繰り返す。
「さっきから何度も言ってるでしょ。千葉県中が停電してるの。信号は消えたままだし、ガソリンスタンドもお店も閉まったままだし、市役所も病院も必死に復旧作業を進めてる最中なの。屋根が飛んだり、壁が壊れたりしてる家もあるんだから、冷房が効いた部屋でテレビを観られるだけでもありがたいと思わなきゃ罰が当たるよ!」
言って聞かせるが、
「おっ、そうか。それはてーへんだな。……で、電気屋には電話したのか?」
結局は、振り出しに戻ってしまう。
「兄貴の家も、飛んできたトタンが屋根に当たって瓦が落ちちゃったの。ブルーシートを公民館にもらいに行ったり、雨漏りに備えて部屋の中のものを移動させたりする手伝いをしなきゃいけないんだから、わがまま言ってないで大人しくしててよ」
「おっ、そうか。瓦が落ちたんか?」
だから! 朝から何度も言ってるでしょ。
頭の血管がぶち切れそうになる。
自分勝手なのは父だけではなかった
「とにかく、行ってくるから」
いつガソリンスタンドが再開するかわからないのだから、無駄なガソリンは使いたくない。こういうときは自転車に限る。さあ、出発進行! ペダルに足を掛けたまさにそのタイミングだった。
「出掛けるんだったら、ヨーグルト買ってきて。今朝食べちゃって、明日の分がないから」
茶の間から顔を出した老母が宣った。
「だから! 千葉県中が停電してるってさっきから言ってるでしょ。スーパーもコンビニもやってないの!」
腹立たしさを振り払いたくて、思い切りペダルを踏む。2時間後、兄宅の手伝いが一段落し、汗ダラダラになって帰宅すると、冷房の効いた茶の間でのんきにテレビを観ていた老父が、「おーい!」と叫んでいる。
「私は召使いじゃない!」思わず老父を一喝
「何?」
「お前、電気屋に電話したのか? 早くしねーと、相撲がはじまっちまうだろ」
「だから! 電気屋さんは今、相撲どころじゃないの。千葉県中が停電してて、みんな必死に復旧作業をしてるんだから」
かなり強い調子で言い返したので諦めると思いきや、そんなことはない。
「だったら俺が自分で掛ける」
懇意にしている近くの電気屋さんに電話を掛けはじめる。ただ、状況が状況だけにそう簡単には繋がらない。
「掛かんねえなあ……」
首を傾げたかと思ったら、
「繋がらねーから、お前、自転車でひとっ走りして電気屋を連れてこい!」
命令口調で言い放った。この人はこんなにも分からず屋で自分本位だっただろうか……。と思いつつも、今ここで甘やかしたらもっと図に乗ることは予想できる。何でも思い通りにいくと思ったら大間違いだ。
「私はあなたの召使いではありません。そんなに観たかったら、自分で電気屋さんまで行ってきてください!」
耳の遠い老父が飛び上がるくらいの大声で雷を落とした。