朦朧とした状態で出社
部長に昇格してホッとしたのも束の間、岸井さんの心は晴れるどころか暗雲が立ち込めたままだった。
それが、更年期という身体の不調だ。昨日のことすら思い出すのに時間がかかり、脳に靄がかかったような状態で、今までの自分と変わってしまったことを実感せざるを得ない。自分はこんなはずじゃなかったのに……。何度、そう思ったことか。
「なんか、脳がヒートアップしている感じなんです。血液検査で分かったのですが、生理になれとか、女性ホルモンを出せとか、脳はものすごく指令を出しているんです。脳がこれほど超稼働しているのに、身体がついてこない状態だというのがわかって、脳が疲れているんだと思いました。休ませなきゃ、それには睡眠だって」
そうは思うものの、仕事のことが気になって眠れない。夜にひらめきがやってくるのも知っている。睡眠不足がこうして続き、翌日は朦朧と出社する。それは出口のない暗闇のトンネルの中にいるような日々だった。
心療内科を受診し、薬で眠れるように
改善のきっかけは産婦人科医に「すごく頑張って働いてきた人が更年期になると、鬱になりやすいから」と、心療内科受診を勧められたことだった。
「副作用もあまりなく、本当に良い睡眠薬が出たと言われ、それを服用するようになったら、すっごく眠れるんです、びっくりするぐらい。それまで動かなかった脳が動くようになりましたね。この薬のおかげで今、トンネルから出ています」
加えて、心療内科で「更年期の症状をいろんな人に話すべき。自分でため込まないように」と言われたことが、岸井さんを変えた。
「自分の更年期のことまで他人に言う気はなかったのですが、私のケースはこうだと話していこうと、その指摘で思いました。社員の構成を見ると、女性社員は40代手前に山があるんです。彼女たちが40代を迎える時に私の経験が一助になればいいと思って。自分の役割をちょっと認識しました」
女であることの弱みを見せてたまるかと思ってきたけれど
自分の弱さやできないことを隠すのではなく、明らかにしていこうという転換は、岸井さんが社内で常にまとってきた、「鎧」を脱ぐことにもつながった。
「部下にも素直に、『今日は、寝れていない』とか、平気で言うようになりましたね。それを聞いた部長は一般職や課長に、『今日は岸井さん、寝不足だから、2回でも3回でも根気よく説明してやって』とか、言ってくれるんです」
こうなれたのは医師の言葉だけでなく、いろいろな気づきがあったからだ。夜遅くまで仕事をしてハイになり、鎧を脱いだ姿を見た社員が、「岸井さんって、そんな感じなんですね」と驚いた時に、「もしかしたら、“素”でいていいのかも」と初めて思えた。専門家からの「岸井さん、“素”で行っちゃいなさい。もう、鎧は脱いじゃって」というアドバイスも、背中を押してくれた。
男性優位の職場で、女であることの弱みを見せてたまるかと、鎧で“武装”してきた人生だった。それを岸井さんは潔く、脱ぎ捨てた。更年期になったことで、揺るぎない自分が崩れるのを知った岸井さんだからこそ、自分の中の新しい扉を開くことができたのだろうか。
岸井さんは「この靴」と、足元を見てふっと笑う。「まだ鎧は一部、残っているんですが……」と。
忖度しないで意見を言う
コロナでオンライン会議が主体になったことも、自分を変えるきっかけとなった。
「これまで相手の表情を読み取ってしまい、言いたいことを我慢したり、男性上司が同意してくれる答えを探して言っちゃったりする感じがあって……。オンラインは表情を読まなくてもいいので、私の中でもう忖度はしないと決め、自分の意見をバンと言うようにしたら、とても仕事がしやすくなりました。なるべく人の顔色を見ないようにしようと、今、少しずつ努力して変わろうとしています」
自分の意見をきちんと言う、声を上げなければならないと気づいたのは、森喜朗元首相の「わきまえた女」発言がきっかけでもあった。
「あれ、最初は私も黙っていました。でも海外から声が上がり、声を上げていない日本の女性も変わらないといけないと思って、声を上げるようになりました。『女性はヒステリーだし、すぐに泣く』という決めつけに対抗するには、発言する、発信する、言っていくしかないんです。同じ考えの仲間を作ることも、大切ですね」
岸井さんは社内にそうした女性の仲間がいることで、大きく助けられている。組織が違っても気楽に相談ができ、愚痴も言い合える存在がいるのは、大きな強みだと心から思う。
「志が同じ女性の仲間は、足の引っ張り合いがないですね。男性は足を引っ張ります。あることないこと、言いますから」
痛いと思われようが、行けるところまで行きたい
もちろん、社内の女性たち全てが、「志が同じ」というわけではない。岸井さんの講話を聞いた後輩女性のアンケートには、こんな思いが吐露されていた。
「そこまでして、管理職になりたくはありません」
自分が選んだ生き方は、後輩からすれば「痛い」のかもしれない。それでも、どこまで行けるかわからないが、行けるところまで行ってみようと思っている。
支えの一つに、前の会社で言われた部長の言葉がある。果たして自分はプロフェッショナルで行くのか、マネジャー職で行くのか。
「いろいろな人と仕事をして、1+1=2以上だと感じたことがあった時、私はマネジャー職かなと思いました。はっきりと、その問いへの答えを出すことができました。上を目指すほど、つらいことも多いのかもしれないけれど、それを上回る達成感や喜びを感じていて、繰り返しのないこの仕事にやりがいを感じています。仕事を通して、その先にいる誰かのために、無心になって頑張れる。その誰かは、会社や上司や他部署やお客様などステークホルダーの面々、そして娘。ひいては自分のために。これからも、ずっと自己成長し続けて、生きている限りいろいろな経験を積んでいきたいと思っています」
50代の展望は…
とはいえ、50代を展望すると、一気に靄がかかる。
「うちは、55歳になると役職定年になります。直接の部下がいないから一人でできることは限られますし、マネジャー職でなくなる中で、プロとして生きていけるかというと、そこはちょっと不安です」
国が進める女性活躍推進の流れが社内にも訪れ、岸井さんは女性活躍推進の活動を担う立場となった。女性活躍推進の活動は、岸井さんの経験が生かされ、それは今後とも、自分の力が発揮できる場だと思っている。
岸井さんは今回なぜ、インタビューに応じてくれたのだろう。
「女性たちは男性と違って、ロールモデルを一人に決めるのではなく、Aさんのここの部分、Bさんのここの部分とパーツごとに集めて、自分なりの生き方を考えたりするじゃないですか。そのパーツの一つを何か、お伝えできればと思って。次の一歩を踏み出す人が出てきてくれたら、うれしいと思っています」
心が和むのは、娘とのひとときだ。全力で寂しいと訴え、大きな身体で抱きついてくる素直な子に育った。仕事と子ども、どちらも選択できる人生、そして社会でなければおかしい。満身創痍な先駆者に、心より拍手を送りたい。