第三者からの精子提供で生まれた子の苦悩とはどのようなものなのか。ジャーナリストの大野和基さんは「自らがAIDで生まれたことを知らされ、『父』の存在がなくなってしまった人たちの多くは、確立していたはずの『自分という存在』、自分というアイデンティティを根底から揺るがされてしまう」という――。

※本稿は、大野和基『私の半分はどこから来たのか AID[非配偶者間人工授精]で生まれた子の苦悩』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

頭を抱えて悲しむ女性
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ケンカの真っ最中に告白された衝撃的な事実

それは、母親との喧嘩のさなかのことだった。

言葉のアヤでは済まされない発言が、母の口をついて出た。

「あなたは提供精子で生まれた子供なのよ!」

16歳の少女にとって、容易には受け止めることのできない事実だった。

1984年生まれ、オーストラリアのアデレードに住むキム・バックは、早くから自分が人工授精によって生まれたことを知っていた。だが、母ウェンディの妊娠が「第三者」からの精子提供によるもので、父親との間に生物学的なつながりがまったくないという事実は、想像もしていなかった。

その前年に両親が離婚し、同国のマウント・ガンビアから引っ越してきたばかりで、心身ともに落ち着かない状況下での衝撃的な出来事だった。

現在、アーティストとして活躍するキム(38)は当時を振り返ってこう語る。

「喧嘩の真っ最中に告白されたのは、もちろん大きなショックでした。ただ、父親と自分とがあまりにも違っていることがいつも気になってはいたので、どこかで『やっぱり』と感じる部分もあったように思います」

「生物学上の父」に会いたい

衝撃的な事実を知ると、すぐにも遺伝的なつながりを持つ「生物学上の父」に会いたいと思ったが、母のウェンディからは、「法律上、18歳になるまでは、ドナー(提供者)を探し出すことに関して何もできない」と説明されるだけだった。キムは、ただひたすらその日を待った。

医師と向かい合って話をする患者
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18歳になった彼女は、出生当時の状況を知るために、自分が生まれたクリニックに連絡をとった。しかし、当時の記録はいっさい残っていなかった。すべて廃棄されていたのだ。

実は、キムの弟もまた、第三者からの精子提供によって誕生している。彼はのちに、自らの遺伝的ルーツである提供者との面会が叶った。詳しくは後述するように、姉弟の運命を分けたのは、生まれた年の違いだった。

「弟は5つ年下の1989年生まれで、彼のドナーに関する記録が残っていたのです。生物学上の父親と出会うことができた弟は、私と違って『人生』というタイトルの本の中に、自分のことが書かれた一章を見つけることができたと言えるでしょう。驚くべきことに、弟にはさらに17人の“異母きょうだい”がいることもわかりました。姉として、弟がドナーに会うことができ、生物学的なつながりを持つきょうだいたちの存在を知ることができたことにほっとしたし、大いに喜びました。でも同時に、私は、深く傷ついてもいたのです」

思い返してみると、子供の頃から父方の祖父母などにはうまく打ち解けられないことに、キム自身、違和感を覚えていたという。

精子提供者に会えた弟と会えない私

ようやく最近、精子提供について父と話せるようになったが、彼には出生に関する秘密を娘に打ち明けるつもりのなかったことがはっきりした。キムにとって、これほど重要な事実をきちんと説明する意思が父親にはなかったことで、彼女が抱える傷はさらに深まった。

その後、母親とは折にふれて精子提供について話題にしてきたが、そのたびに、彼女がある種の罪悪感を抱いていることをキムは感じ取ってきた。それは決して、提供精子によって子供をもうけたことに対してではなかった。キムは言う。

「私を産んだとき、母はすでに30歳になっていました。今と違い、当時としては出産適齢期を過ぎていて、彼女には他に選択肢がなかったのです。ウェンディという女性にとって、提供精子による妊娠こそが、子供を持つ最後のチャンスだったのです。母が抱いている罪悪感の根底には、同じように提供精子で生まれた弟はドナーに会えたのに、私は会うことができないという屈折した思いがあるのだと思います」

男女のシルエット
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娘が感じ取る母の罪悪感

私は、キムからウェンディの連絡先を聞き、彼女自身の言葉で、娘が感じ取っている罪悪感の正体について答えてほしいとメールで訊ねてみた。

親子の心の機微にふれる問題だけに、返信がないことも十分に予想されたが、ウェンディからの返事は2日後に届いた。少し長くなるが、その内容を紹介する。

私が感じている唯一の罪悪感は、彼女からの質問に明確に答えることができないということです。30年前と今とでは社会状況が異なることを説明しようとしました。今の時代はネットの発達でフェイスブックやツイッターなどいろいろなSNSがあり、誰もが他人についてあたかもすべてを知っているような時代です。つまりタブーにしておくことはできません。

夫婦だけで守り通そうとした出生の秘密

1972年に結婚した当時、私は18歳で夫は23歳でした。夫の両親からは、いつ子供ができるのかと言われ続けていました。「母親になりたくないのか?」「なぜ妊娠しないのか?」としょっちゅう言われたものです。孫の顔を見せることができなくて、私はいつも暗い気持ちでした。夫は4人きょうだいでたった一人の息子でしたから、両親はよけいに彼の孫がほしかったのです。

1977年から2年間、主治医の助けを借りて基礎体温を測りながら妊娠しようと試みましたが、うまくいきませんでした。そこで夫の精子を検査したところ、彼が無精子症だと判明したのです。主治医にすすめられて養子をとる手続きに入りましたが、実際に縁組が決まるまでには7年ほどかかると告げられました。

いよいよ最後の手段として、精子提供プログラムの説明を受けたのは1982年の暮れのことです。84年にキムが生まれたその日に、私たち夫婦は彼女の出生の秘密について、2人だけの間で守り通すことを誓い合いました。当時、夫と私は、自分たちが用いた手段が長い年月を経て、私たち家族に及ぼしうる影響や、やがて子供たちの心に現れる予期しない結果について、思いをめぐらせることはありませんでした。

黒板にかかれたクエスチョンマーク
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精子提供者が誰なのか答えられない

キムたち2人が成長するにつれ、生物学的につながりのない夫とあまりにも似ていないことが徐々に明らかになってきました。特にキムは、180センチと一人だけ飛び抜けて身長が高かった。私たちは、キムが生まれる前に他界した私の父に似ている、などと言ってごまかしていましたが、彼らが10代になると、ますます夫との容姿の違いや、姉弟同士の違いが明確になり、それらの違いがどこから来るのかとたびたび訊ねられるようになりました。

キムに対してはいまだに、彼女のアイデンティティの半分を形成している精子提供者が誰なのかという、彼女の人生にとって最も重要な疑問に答えられずにいます。そのことに対する後ろめたさが、私の中で消えることのない罪悪感となっているのです。

知らずにいるより知ることができてよかった

自分自身の来歴の半分を、永遠に知ることのできない苦しさ――だがキムは、決してその事実を知らないでいるほうがよかったとは考えていない。彼女は私にはっきりと、「知らずにいたよりも、こうして事実を知ることのできたほうがはるかによかった」と語っている。

「AIDで生まれた事実をもっと私が小さいころにオープンに話していてくれれば、人生はもっと違ったものになったでしょうね」

キムは、公の場で発言するようになったが、その決断は容易なものではなかった。

「自分がAIDで生まれたことを公表するのは、そう簡単なことではありません、自分の親が不妊症であったことを公表するのと同じですから、父の友人や知人にもそのことが知られてしまいます」

アーティストとして生計を立てるキムの芸術面における才能は、母であるウェンディから来ているのだろうという。だが、キムは理系の学問にも秀でていた。

「私は科学ジャンルにもけていて、文理のバランスがとれていますが、両親の家系にはこういうタイプはいません。理系のセンスは、きっと精子提供者に由来するものなのでしょう」

横断歩道を行き交う人々
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見知らぬ他人に血のつながりを感じてしまう…

個々の人間としてのアイデンティティは、性格や人格が個性として形成され、遺伝的背景、「父」と「母」が誰かという認識を踏まえたうえでの、「自分という存在」が確立されることで形づくられていく。キムのように、いったんアイデンティティが形成されたのちに、自らがAIDで生まれたことを知らされ、「父」の存在がなくなってしまった人たちの多くは、確立していたはずの「自分という存在」、自分というアイデンティティを根底から揺るがされることになる。

そのような体験をした人たちは、見知らぬ他人の立ち居振る舞いや、ふとしたしぐさに、無意識のうちに自身とのつながりを探してしまう傾向にあるという。

通りを歩いていてすれ違う人々に対して、「あの人は私のきょうだいだろうか? もしかしたらドナーではないのか?」と勘ぐってしまう感覚に襲われるのだ。キムが証言する。

「道行く人たちのような不特定多数と生物学的につながっている可能性は低いとどれだけ説明されても、そのとても奇妙な感覚が、私の心を蝕んでいるのです。16歳のときに突然、出生の秘密を告知され、混乱した精神状態は20歳まで続きました。30歳を超えた今になっても、自分がいったい誰なのか、確かなりどころを確立できていないのです。『自分の中の半分が消えた感覚』と言えば、少しは理解してもらえるでしょうか」

AIDによって生まれた子供たちが救いに

その寄る辺ない不安を軽減することに一役買ってくれたのが、同じくAIDによって生まれた子供たちだった。

大野和基『私の半分はどこから来たのか AID[非配偶者間人工授精]で生まれた子の苦悩』(朝日新聞出版)
大野和基『私の半分はどこから来たのか AID[非配偶者間人工授精]で生まれた子の苦悩』(朝日新聞出版)

「AIDで生まれたことを公表してからの5カ月間で、約20人の同じ境遇の人たちと会うことができました。彼らと話していて、『自分の中の半分が失われた』という感覚がどのようなものか、同じ経験を共有している人間でなければその本質は理解できないと痛感しています。彼らとはSNSを通じてお互いに助け合っています。AIDで生まれた者同士の交流は、まるで大家族で過ごしているような気持ちにさせてくれるし、精神的な支えにもなっている。もっと早く公表しておけばよかったと思うほどです」

アイデンティティは通常、10歳頃までに形成されると言われている。したがって、遺伝的背景を根こそぎ覆してしまうAIDなどの生殖補助医療技術による出生の告知は、アイデンティティが完全に形成される前に行われる場合と、形成後になされる場合とでは、まったく様相が異なってくるのである。