※本稿は、中野京子『名画の中で働く人々 「仕事」で学ぶ西洋史』(集英社)の一部を再編集したものです。
記録に残る「最古の女性科学者」の人生
その絵画に描かれた、豊かに波打つ長い金髪で裸体を隠し、必死に何かを訴える女性は、はるか1600年の昔、エジプトのアレクサンドリアに実在した数学者にして天文学者、哲学者にして教育者でもあったヒュパティアだ。
縦2.5メートルほどの大画面に等身大で描いたのは、イギリスのラファエル前派に属するチャールズ・ウィリアム・ミッチェル(1854〜1903)。
神話や古代史の登場人物をヌードで表現することは珍しいことではない。しかしここでヒュパティアが裸体なのは、別の理由があってのことだ。記録に残る最古の女性科学者の足跡を追ってみよう。
学者の父をも凌ぐ才女
ヒュパティアの生誕年は紀元350年から370年の間とされる(当時は著名人でも生没年が確認できない例が多い)。父テオンは学者で、有名なアレクサンドリア図書館の館長でもあった。父から学んだヒュパティアだが、やがて数学では彼を凌ようになり(新式の比重計を発明)、天文学研究に勤しむとともに、おおぜいの男性学徒に新プラトン主義哲学を講じた。彼女がその学識と研究姿勢で特段の尊敬を集めていた事実は、『スーダ辞典』(10世紀頃に東ローマ帝国で編纂された辞典)に記されている。
順風満帆の人生がこのまま続いていたなら、研究していた惑星の軌道が円ではなく楕円であると、ケプラーより1200年以上早く発見した可能性もなくはない(彼女を先駆者と呼ぶ科学者もいる)。しかし先述したごとくアレクサンドリアの宗教情勢は急速に悪化した。もとよりこの都は多神教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒がなんとか共存してここまで続いてきたのだが、ローマ帝国が380年にキリスト教を国教と定め、392年には他の宗教を全て禁止するに至って均衡を崩す。
ローマ皇帝から異教徒の宗教施設や神殿を破壊する許可を得たアレクサンドリアのキリスト教徒らは、70万巻ともいわれた貴重な書物を所蔵する図書館にも襲いかかった。異教徒による学問自体が異端という考えだった。ヒュパティアをはじめとする学者たちが必死に持ち出して隠した巻き物はわずかで、何世紀もの知の積み重ねは灰燼に帰してしまう。人々が次々にキリスト教へ改宗したのは言うまでもない。
「魔女」といわれた彼女の最後
だがヒュパティアは改宗しなかった。ギリシャ系の彼女は多神教徒であり、且つまたキリスト教の教える「奇蹟」を否定し、あくまで学問は科学的であるべしとの信念を曲げなかった。アレクサンドリアの知識層を代表し、がらんどうになった図書館でなお研究を続ける彼女のこうした態度はキリスト教過激派の憎しみの的となり、415年、ついに惨劇が起こる。
ギボンの『ローマ帝国衰亡史』によれば、ヒュパティアの最期はこうだったという――「魔女」と見なされた彼女は総司教キュリロスたちに拉致され、教会へ連れ込まれ、裸にされた後、牡蠣の貝殻で生きたまま皮膚と肉を削がれて息絶えた。遺体はその後ばらばらにされ、見世物にされてから、市門の外で焼かれた。
教会堂の中でなぜヒュパティアが裸なのか、なぜ悲痛な表情なのか、なぜ床に着衣が散乱し、大きな燭台の一部が倒壊しているかがわかるだろう。彼女はこれから自分にふりかかることを予期し、恐怖を抑えるかのように胸のところで右手を強く握りしめる。
その一方で左腕を天へ向かって伸ばし、暴徒らに理性を訴えている。アレクサンドリアという都市の成り立ちと学問の自由も思い出させようとしているのかもしれない。
だが、排他的な宗教が世俗の権力と結びついた時どれほど残虐になりうるかを、我々現代人は嫌というほど歴史から教わっている。狂信的な相手には何を言っても通じないのだ。女だろうと子どもだろうと、彼らは容赦しない。皮剝ぎ刑という身の毛もよだつ行為。ヒュパティアの絶望の深さが観る者の胸を抉る。
キュリー夫人が有名になる前の話
もう一人の偉大な女性科学者も取り上げたい。女性初のノーベル賞を、しかも二度も受賞したマリー・キュリーだ(1903年に放射線研究により夫と共に物理学賞、1911年にラジウムとポロニウムの発見により単独で化学賞)。
彼女の旧名は、マリア・サロメア・スクウォドフスカ。ポーランド人。彼女が生まれた当時の祖国はポーランド立憲王国とは名ばかりで、帝政ロシアの衛星国にすぎず、ロシアのツァーリが国王を兼ねていた。
民族蜂起を懸念したロシアはポーランド貴族を粛清し、知識層の行動を制限した。スクウォドフスキ家は下級貴族で、父親は物理を講義する教授、母も教育者だった。仕事も邸やしきも取り上げられ、一家(両親と一男四女)は移り住んだ狭い家で細々と寄宿舎を経営したが、生活は苦しかった。そんな中、マリー10歳の時、母が結核で亡くなる。2年前には長姉がチフスで亡くなっていたので、2番目の姉ブローニャ(ブロニスワヴァ)が母代わりとなった。
マリーは官立女子中等学校を首席で卒業すると、一大決心をする。ポーランドでは女性の大学進学が許されていなかったため、パリのソルボンヌ大学で医学の勉強をしたいというブローニャを、自分がガヴァネス(住み込みの家庭教師)として働いて援助するというのだ。ブローニャが医者になったら、今度はマリーをパリに呼びよせ、大学へ行かせてもらう約束だった。
確かにこのままだと「世の中に貢献したい」という兄弟姉妹の希みは貧困に圧し潰され、誰も成就できなくなる。一人ずつ順に進むほうが可能性は高くなるだろう。しかし下手をすると援助された者だけが浮き上がり、援助した方は沈みっぱなしになる可能性もなくはない。相手への深い信頼と強い信念があってこその選択だ。
もしマリーが気弱な男と結婚していたら…
18歳から6年間、マリーは給与の半分を姉に仕送りし、いくつかの家で働いた。だが他人の家に居候し、爪に火を灯すような生活が何年も続くと、さすがに従妹への手紙で愚痴をこぼすようになる。曰く、自分には運がない、永遠にここから抜け出せないような気がする、前はパリへ行きたかったけれど、とうにその夢は消えてしまった、と。
この絶望は、恋愛がうまくゆかなかったことも関係していた。雇用主の息子と愛し合うようになったのだが、無一文のガヴァネスとの結婚など論外として家族の反対にあったのだ。男の方はそれに立ち向かう強さがないことを、マリーはようやく思い知った(拙著『歴史が語る 恋の嵐』角川文庫参照)。
この失恋は人類科学史上の僥倖だった。もしマリーが気弱な男と結婚してポーランドに留まっていたら、輝かしい未来はなかったろう。タイミング的にも良かった。姉のブローニャが約束どおり医者になって、マリーをパリへ呼びよせたのだ。マリーはしばらく逡巡した後、パリへ旅立った。
不遇に負けず、女性初のノーベル賞を2度受賞
ここから先はよく知られた話となる。彼女はフランス国籍をとり、フランス人科学者ピエール・キュリーと結婚、二人の娘を育てながら研究を続けた。ちなみに長女のイレーヌも後にノーベル化学賞を受賞している。
マリーのガヴァネス生活を描いた絵画はない。だが同時代のガヴァネス事情を、ロシアの画家ヴァシリー・ぺロフ(1834〜1882)の『商人宅へのガヴァネスの到着』が伝えてくれる。
ホガースと通じる、物語的ないし挿絵的作品だ。「商人」とわざわざタイトルに記し、尊大な様子の主人とその息子(そして壁に掛けられた祖父の肖像。三人ともよく似た風貌)から、教養のない成金一家であることが想像される。
質素な服に身を包んだガヴァネスはまだ若い。初めての職場なのだろう。相手の顔をまともに見られず、おそらく震える手で紹介状を取り出そうとしている。目の前の雇用主たちやドアの向こうから覗き込む使用人たち、また自分が教えることになる少女の、好奇心をあらわにした視線が痛いのだ。
当時、金持ち階級が求めるガヴァネスは、レディであることが第一条件だった。つまり中・上流階級出身で、しかるべき礼儀作法を心得ていなければならない。単に勉強を教えるだけでなく、品のある物腰を子どもたちに叩き込めることが大事だ。すると矛盾が生じる。この時代、仕事を持つ女性をレディとは呼ばなかった。従ってガヴァネスは、出自がレディでも現況はレディではない。要は没落した良家の娘の、数少ない仕事の一つがガヴァネスであり、憐れむべき境遇ということになる。
画中のロシア商人の家族が全くガヴァネスに敬意を表さず、それどころか自分らより
高い階級だったのに今やその座から転落した哀れな娘として、珍獣でも見るように遠慮会釈なくじろじろ見ているのはそこから来る。彼女が恐怖と屈辱に耐えていることを、かえって面白がっているのかもしれない。今後の仕事は辛いものになるだろう。
マリー・キュリーも、かつて――これほどあからさまではなくとも――差別的な視線、あるいは侮辱的なまでに憐れむ視線を受けたことがあったのではないか。なぜならそういう時代だったのだから。
そしてマリーのかつての雇用主たちは、彼女がノーベル賞を受賞した時(パリに出てわずか12年後だ)、自分が空前絶後のガヴァネスを雇っていたと知ってどんなにか驚愕したことだろう。