安倍元首相が銃撃で亡くなった際、プーチン大統領が感情のこもった弔電を送ったのはなぜか。元外交官で作家の佐藤優氏は「ロシアの政治エリートは安倍氏が独自の理念を持ち、日本の他の政治家のように米国の代弁者的な振る舞いをする人物ではなかったと評価している」という――。

※本稿は、佐藤優『よみがえる戦略的思考 ウクライナ戦争で見る「動的体系」』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

プーチンが送った弔電に表れた親愛の情

2022年7月8日、銃撃されて亡くなった安倍晋三元首相の妻・昭恵氏、母・洋子氏に宛てた、プーチン大統領からの弔電が話題になった。その冒頭は次のようにつづられている。

〈尊敬する安倍洋子様 尊敬する安倍昭恵様
あなたがたの御子息、夫である安倍晋三氏の御逝去に対して深甚なる弔意を表明いたします〉

安倍氏の死去が発表されて間もないタイミングで送られた弔電は次のように続く。

〈犯罪者の手によって、日本政府を長期間率いてロ日国家間の善隣関係の発展に多くの業績を残した、傑出した政治家の命が奪われました。私は晋三と定期的に接触していました。そこでは安倍氏の素晴らしい個人的ならびに専門家的資質が開花していました。この素晴らしい人物についての記憶は、彼を知る全ての人の心に永遠に残るでしょう。

尊敬の気持ちを込めて ウラジーミル・プーチン〉(筆者訳)

プーチン大統領はKGBという情報機関出身者らしく、さまざまな情報・報告を収集し吸収することを重視する一方、それらの情報をどのように政策に反映させるのか明かすことはない。冷徹さが特徴と言える。もちろん自身の感情を文章に表すことはほとんどない。

ところがこの弔電の文面は儀礼の域を超えたものだ。安倍元首相に心の底から親愛の情を抱いていたのだと感じさせる。

日本とロシアの国旗
写真=iStock.com/Oleksii Liskonih
※写真はイメージです

ロシアの政治討論番組で語られた安倍氏の評価

安倍氏が亡くなった当日夜に放映された政治討論番組「グレート・ゲーム(ボリシャヤ・イグラー)では、出演者が安倍氏と安倍外交について言及した。

「グレート・ゲーム」は、ロシア政府系放送局「第1チャンネル」が制作する番組で、政府がシグナルを送る機能を果たしている。この日の出演者は、ヴャチェスラフ・ニコノフ氏(国家院[下院]議員、ヴャチェスラフ・モロトフ元ソ連外相の孫)、イワン・サフランチューク氏(モスクワ国際関係大学ユーラシア研究センター所長)らだった。

ニコノフ氏はゴルバチョフ・ソ連共産党書記長のペレストロイカ政策、エリツィン・ロシア大統領の改革政策を積極的に支持した知識人であるが、現在はプーチン大統領のウクライナ侵攻を正当化する論陣を張っている。

彼らの評価からプーチン大統領が親愛の情を隠さない弔電を送った理由を垣間見ることができる。

「安倍氏は米国の代弁者ではない」

番組では、ニコノフ氏が、安倍氏の死についての経緯と、生前の業績に触れた後、次のように述べた。

〈安倍氏は日本では珍しい自立した政治家だった。

私は首相になる前の安倍氏と会ったことがある。当時、年2回、ロ日間の副次的チャネルでの対話が少なくとも年2回行われており、私もメンバーだった。安倍氏がそれに参加したことがある。

安倍氏は独自の思考をしていた。日本の知識人と政治家は、しばしば米国の立場を自分の見解のように述べる。

しかし、安倍氏はそうではなく、自らの理念を持っていた。もちろん安倍氏は反米ではなかったし、親ロシアでもなかった。偉大な政治家として独自の行動をした。現実としてもロシアと日本の関係発展のために重要な役割を果たした。

プーチン大統領が安倍氏の母親と妻に感情のこもった哀悼の意を表明したのも偶然ではない。実に偉大な政治家で日本の歴史に道標を残した〉(「グレート・ゲーム」、筆者訳)

安倍氏が独自の理念を持ち、日本の他の政治家のように米国の代弁者的な振る舞いをする人物ではなかったと評価している点に注目してほしい。サフランチューク氏は、日本の対ロ外交を安倍氏以前と以後に分けて述べる。

〈私にとって安倍氏は以下の点で重要だ。

日本は長い間、米国によって設定された地政学的状況を受け入れていた。

対して、安倍氏は現代世界において、特にアジア太平洋地域において日本の場所を見出そうとした。安倍氏は米国との同盟関係を維持しつつ、日本の独立性を確保しようとした。

安倍氏のロシアに対する姿勢は非常に興味深かった。

ファスナーで分けられた日本とロシアの国旗と、その中にある北方領土の地図
写真=iStock.com/Belus
※写真はイメージです

ロシアを援助することで北方領土問題の解決を試みた橋本氏、小渕氏、森氏

安倍氏が権力の座に就くまでの20年間、日本はロシアの弱さに最大限につけ込もうとした。この時期、日本は親西側的外交を主導した。この論者はすべての分野でロシアの弱点につけ込もうとした。日本は際限なく提起するクリル諸島(北方領土に対するロシア側の呼称)問題を解決することができず、そのため日本には不満がたまっていた〉(同前)

〈米国によって設定された地政学的状況を受け入れていた〉とは、東西冷戦期、日本列島は北東アジアにおける、共産主義勢力に対する防波堤の役割を果たしていたことを指す。日本の政治エリートのソ連観もイデオロギー対立に加え、地政学的状況にも拘束されていた。やがて東西冷戦が終結し、ソ連崩壊によって誕生したばかりの、国家としては弱かったロシアを援助することで北方領土問題を解決しようとしたのが、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗と続く政権だった。

ロシアの弱さに最大限につけ込んだ小泉氏

当時の北方領土交渉は「日ソ共同宣言」に基づいて進められていた。しかし、この流れは小泉純一郎政権の誕生によって断たれてしまう。サフランチューク氏の言う〈ロシアの弱さに最大限につけ込む〉外交を日本は展開した。当然、北方領土交渉は動かなかった。

民主党政権を経て、安倍氏が首相に就任した頃のロシアは、ソ連崩壊直後の弱いロシアではなく、資源輸出大国として力をつけていた。安倍氏は対ロ外交を大きく転換させた。それをサフランチューク氏は次のように解釈する。

〈安倍氏はロシアが強くなることに賭けた。強いロシアと合意し、協力関係を構築する。アジア太平洋地域においてもロシアを強くする。それが日本にとって歓迎すべきことだ。地域的規模であるが、アジア太平洋地域において多極的世界を構築する。ロシアの弱さにつけ込むという賭けではなく、ロシアの力を利用し、強いロシアと日本が共存する正常な関係を構築することだ。これが、安倍が進めようとしていた重要な政策だ。

(2014年に)クリミアがロシアの版図に戻ったとき、日本では再び西側諸国のロシアに対する圧力を背景に、ロシアが日本に対して何らかの譲歩をするのではないかという発想が出てきた。

ロシアと長期的で体系的な関係を構築しようとした安倍氏

私の考えでは、安倍氏は賢明な政策をとり、西側諸国の単純なゲームが成り立たないことを理解し、ロシアの戦術的弱点につけ込むという選択をしなかった。そして、ロシアと長期的で体系的な関係を構築しようとした〉(同前)

欧米諸国にとってロシアは基本的な価値を共有できない国であり、強くなれば脅威の側面がせり出してくる。

ロシアとアメリカの緊迫した関係
写真=iStock.com/a-poselenov
※写真はイメージです

しかし、日本の場合は事情が異なる。

自国の「価値の体系」「利益の体系」「力の体系」、そして北東アジアの地政学的状況を長い目で見るならば、強いロシアとの関係強化を進めたほうが国益に適う。したがって、すべてのケースで欧米諸国と歩調を合わせる必要はない。安倍氏はそれを行動で示した――サフランチューク氏はそう言いたいのだろう。

日米同盟の枠内で日本の独立性を確保しようと努めた

2氏の話は、追悼の意という趣旨を差し引いても、安倍氏を政治家として高く評価している。それは次の2点に集約される。

一つは、「日米同盟の枠内で日本の独立性を確保しようと試みた政治家だった」ことだ。

佐藤優『よみがえる戦略的思考 ウクライナ戦争で見る「動的体系」』(朝日新書)
佐藤優『よみがえる戦略的思考 ウクライナ戦争で見る「動的体系」』(朝日新書)

2016年の日ロ首脳会談後の共同記者会見でプーチン大統領は「日本と米国との関係は特別です。日本と米国との間には日米安全保障条約が存在しており、日本は決められた責務を負っています。この日米関係はどうなるのか、私たちにはわかりません」と述べた。

つまり、平和条約の締結後、日本領となった歯舞群島、色丹島に、安保条約に基づいて米軍が展開する可能性を示唆した。公の場で安倍氏に対してこの懸念にどう応じるのか、大きな問いを突きつけたことになる。

ロシアにとって、ウクライナ戦争の一因であるNATO東方拡大と構造的には同じ安全保障上の危険が生じることになる。安倍氏による北方領土交渉は未完に終わったが、その問いに対する回答を真撃に探っていたのではないだろうか。

2020年、アメリカからの購入が決まっていた迎撃ミサイル防衛システム「イージス・アショア」配備が中止された。当時、河野太郎防衛大臣が決定したかのように報じられたが、安倍氏の了承があったことは間違いない。

中止理由として、迎撃ミサイル発射時に周辺民家の安全が担保できないこと、イージスアショアの発射コストが膨大過ぎることが挙げられた。

その代替の一つとして、日本は国内で戦闘機から発射するスタンド・オフ・ミサイルの長射程化を進め、三菱重工が開発している。これも日米同盟の枠内で模索された安倍流の国家主義だと言える。

ロシアに対するシグナルにもなったと思う。

早期警戒管制機(AWACS)のNATOのロゴマーク
写真=iStock.com/VanderWolf-Images
※写真はイメージです

強いロシアと関係を結び日本の地位の確立を試みた

安倍氏をロシア政治エリートが評価するもう一つは、「安倍外交には、アジア太平洋地域においてロシアに一定の影響力を発揮させ、強いロシアと結ぶことで、この地域での日本の地位を担保しようとする戦略性があった」点だ。

アメリカが進めてきたロシアの台頭を抑える政策に日本も加担し、ロシアを中国に接近させてしまうほうが、日本にとって不安定要因が増すことになる。強い国同士が安定的な関係を築いたほうが、地域的な問題が解決しやすくなると考えていたのだ。

サフランチューク氏の岸田政権評価

ウクライナ戦争が起きた現在、岸田文雄政権の対ロ政策は、ロシア側にどう映っているのか。

サフランチューク氏は、日本が欧米との連携を強めており、「安倍氏の遺産は遠ざけられている」と言う。しかし、現在のような欧米の価値観に歩調を合わせた外交はいつまでも続けられないと見ている。

〈日本が世界の中で独立して生きていかなくてはならず、どのようにアジア太平洋地域の強国との関係を構築し、強いロシアと共生していくかという考え方は、日本の社会とエリートの間で維持される。いずれかの時点で日本はこの路線に戻ると私は見ている。なぜならそれ以外の選択肢がないからだ〉(同前)

今後の対ロ政策は安倍外交路線に戻るのか…

日本が安倍外交路線に戻るかどうかは、ウクライナ戦争の帰結に左右される。

ロシアがウクライナ戦争で一定の成果を得た場合、アメリカは実質的な敗北を喫する。バイデン大統領は、ただでさえ低い支持率をさらに低下させ、次期大統領選挙で政権交代が起きる可能性も排除できない。政権が変わったときにアメリカの対ロ外交の論理は転換するだろう。

「価値の体系」が肥大化した西側の外交が行き詰まったとき、日本は、「価値の体系」「利益の体系」「力の体系」の三つの体系をうまく操ってきた安倍氏の外交遺産を活用せざるを得なくなるとロシア側は見ている。

安倍晋三が写っている自民党のポスター
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです

ニコノフ氏が、安倍氏のことを反米でも親ロシアでもないと認識していたように、自国の利益のために何が最適かを模索する愛国者で、かつ、交渉相手国の利益にもつながる戦略的思考ができ、リアリズムに徹した対話可能な外交ができる政治家――ロシアの政治エリートが安倍氏を尊敬し、信用した理由である。