※本稿は、平井孝志『人生は図で考える 後半生の時間を最大化する思考法』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
人生とは不公平なものだ
今回のテーマは「苦難の克服」です。
人生は山あり谷あり。順風満帆の旅では決してありません。時には大きな挫折に直面することもあるでしょう。想定外の苦難に直面したとき、「何を」「どのように」考えれば困難を克服できるか。それが本稿の設問です。
具体的な思考法と共に、さっそく進めていきましょう。
何がどうあろうと、私たちは死ぬまで生き続けなければなりません。辛いことも悲しいことも、また、楽しいことも嬉しいこともそれらすべてと共に、です。
「幸せに、なりたい」
充実した未来を創りたい。悔いのない人生を歩みたい。誰しもがそう思っているはずです。当然です。ですが時には、どうしようもない不遇や不調に見舞われてしまう。それが人生でもあるのです。
前半生を済ませている私たちの中には、「理不尽」という言葉が人生の代名詞だと思う気持ちもあるでしょう。自然災害で被災する。突然リストラに遭う。伴侶が不治の病にかかってしまうなど、個人の力ではどうしようもありません。
かつて第35代米大統領のジョン・F・ケネディ(1917~1963)は、「人生とは不公平なものだ」と言い切っています。
ケネディ大統領の就任期間(1961~1963)は、ちょうどベトナム戦争の真っ只中でしたが、ある記者会見での次のような会話が残されています。
「ベトナムに派遣された兵士には多くの死者が出て、一方、平穏な西ドイツに派遣された兵士たちは家族同伴で快適な生活を楽しんでいます。大統領、これは不公平ではありませんか」と、記者。
それに対し、ケネディは応えます。
「Life is not Fair」
人生は公平ではない――。
その通りだと思います。お金持ちの家に生まれてくる子もいれば、そうでない子もいる。
大病を患う人もいれば、ずっと健康な人もいる。その多くは致し方のないことです。不公平なのです。
でも、どちらが幸福なことで、どちらが不幸なのかは、誰にもわかりません。
お金持ちの家に生まれたがゆえに、逆に不自由な生活を強いられ、財産争いで大変な目に遭うかもしれません。逆に、大病を患ったからこそ、健康の尊さを思い知り、その後の余生を充実したものにできるかもしれません。
お花畑でも地獄に思えば地獄になる
あるお坊さんの講話にこんな教えがあります。2人の人物が向こうから歩いてきます。1人ずつに、尋ねます。「あなたはどこから来ましたか?」
「天国からやってきました」と、笑顔の人。
「地獄からやってきました」と、渋面の人。
ところが2人がもといた場所は、まったく同じところだったのです。
もうおわかりですね。人生を考える上で大切なことは、自分がどう捉えるか。極端に言えば、現実が何かではなく、それをどのように捉えるかなのです。お花畑でも地獄に思えば地獄になり、泥の河でも天国だと思えば天国になるのです。
すべて受け入れることで事態は好転する
とはいえ、言うは易し。実際、病気で苦しんだりリストラで収入が途絶えたりすればそんなことなど言ってられない。やけっぱちにもなるでしょう。もちろん私自身もそうでした。そんな気持ちをグッと支えてくれたのが、アメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー=ロス(1926~2004)の言葉でした。世界的なベストセラー『死ぬ瞬間』(1969年原著刊行)の著者として、身近に感じている方も多いのではないでしょうか。私の場合のちょっとした工夫は、“生きる瞬間”にもキューブラー=ロスの言葉を応用してみたことです。死ばかりではなく、です。
答えを先に言ってしまいます。
それは、すべてを受け入れてしまうこと。「全受容」です。
「えっ、受け入れるだけ……?」
そう思われたかもしれませんね。それだけなんです。ですが、そうすることで不思議なほどに事態が動き始めます。
「死」を受容する5つのプロセス
ここでさっそく、精神医学者であるキューブラー=ロスが提唱した「死の受容プロセス」というモデルを紹介したいと思います。人が死を受け入れていく心の変化には、五段階のプロセスがあるというものです。
不治の病だと告げられるなど、もう長くないと知らされたときに、「そんなことあるはずがない。何かの間違いだ」と受け入れられず、事実を認められない段階です。
②第2段階「怒り」
死を否認することが徐々にできなくなり、「どうして私なのか……」と怒り・激情・妬み・憤慨といった感情が生まれ、周囲に反発する段階です。
③第3段階「取り引き」
死を少しでも先延ばしするために、神様にすがったり、何か良いことをすれば救われるのではないかと考えたり、取り引きを試みる段階です。
④第4段階「抑うつ」
死を免れないことを悟り、悲しみや抑うつ、あきらめや罪悪感といった気持ちを抱き、大きな喪失感を覚える段階です。
⑤第5段階「受容」
死を、誰もが到達する運命として受け入れ、ある程度の期待を持ちながらも最後を静観し、いくばくかの平安が訪れる段階です。
(エリザベス・キューブラー=ロス『死ぬ瞬間 死とその過程について』を参考に筆者作成)
このような死に向かうプロセスは、実は、より良く生きるためにもとても参考になるのです。
前進するには受容するしかない
私たちは、人生の「相転移」の前後で絶対的な矛盾に直面します。2つの相反する思いを知るからです。1つはこれまで通り、成長し、成功し、昇進し、家族を養うなど目標に向かって「こうあらねばならない」という思い。もう1つは、体力が衰え、身体能力が弱まり、社会的活躍の限界も見え、やがて肩書きもなくなってしまうという「そうあることはできない」という思い。その狭間で苦しみます。「ねばならない」と「そうできない」に挟まれ動けなくなり、もがき苦しむのです。
先述のプロセスで言えば、「否認」もするでしょうし、「怒り」もするでしょう。また「取り引き」や「抑うつ」もあります。しかし、前に向かって進むためには、最終的にはすべてを「受容」するしかありません。
自分を否定もするが、受容もする。
相反する2つのどちらか1つを選び取るのをやめて、それらをあるがままに受け入れあきらめてしまう。降参してしまうのです。すると、そこにはスペースが生まれます。そのスペースから何かが新たに動き出し、自然に別の風景が広がります。新しい人生が始まるのです。
「あきらめる」の語源は「明らむ」である
「あきらめる」は、漢字で「諦める」と書きます。ふつう、「願いが叶わず仕方ないと断念する」というネガティブな意味で使われますが、この言葉の語源は、「明らむ」、つまり「明らかにする」というところにあります。
仏教の世界では「諦」という字には、「真理・道理」の意味があります。「あきらめる」とは、真理・道理に照らして、現実を明らかにし、納得して先に進むことなのです。
ぜひ、実際に試してみてください。
にっちもさっちもいかないことがある。心の中で両手をだらりとおろし、それを受け入れてみてください。ほら、あなたとその困難の間にスペースが生まれた気がしませんか。それが、「明らめ」です。大きな困難に直面したときは、「明らめ」て、その矛盾や運命をそのまま受け入れるところから心が動き始めます。いわば、「明らめ」からの反転です(図表1)。それによって、現実が未来に向けて動き出すのです。