崖っぷちの状況から奇跡を起こすことはできるのだろうか。元伊藤忠商事長の丹羽宇一郎さんは「奇跡には4つの共通点がある。この4つのうちのどれか1つでも欠けていたら、私は奈落の底に落ちていたかもしれない」という――。

※本稿は、丹羽宇一郎『生き方の哲学』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

「穀物相場で500万ドルの含み損」クビ覚悟から脱却した奇跡

ニューヨークに駐在していたときです。穀物相場で、当時の会社の税引き後利益に匹敵する500万ドル(当時1ドル約300円)近い含み損を出したことがあります。私は30代、相場の勉強を重ねて経験も積み、自信がついてきたころでした。

当然、クビを覚悟して辞表も書きました。長い夏を神も仏もない生活を過ごしました。

自ら命を絶ちたくなることもありました。

暗い地下道に座り込み、悩んでいる人
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しかし、自殺は生きる以上に苦しいものです。自分がいなくなれば、家族、会社の多くの人々に長年にわたる苦しみを残すことになるでしょう。独りで耐えて最大の努力を続けるしかありません。

あのときは、かっこよく言えば死に物狂いで努力しましたが、やがて状況が変化の兆しを見せ始めました。含み損が解消され始めたのです。

奇跡だと思いました。当初は孤独で太陽のない天を仰ぎましたが、このときばかりは、神の存在を感じないわけにはいきませんでした。

「3950億円の負債処理」倒産の危機からV字回復した奇跡

また社長時代、3950億円という業界最大規模の不良資産を一括処理した際のV字回復のときもそうでした。

一括処理して株価が下がり続ければ、会社は潰れるかもしれません。そうなれば、グループ何万人という社員とその家族が路頭に迷うことになります。口がパサパサに乾き、食べものがのどを通らない気がしました。

ところが、マーケットが開いたときに株価は暴落せずに、むしろ上がると同時に子会社の株まで上がったのです。私はうれし涙を禁じ得ませんでした。

「ウソをつかずに、懸命に努力する姿を神様は見ていてくれた。奇跡のような出来事は、それに対して神様が与えてくれたご褒美じゃないか」

そう思いました。

「神様」と書きましたが、私は若いころから、神という存在を形のうえで信じたことはありません。いわば無宗教です。

しかし、宗教の有無を超えて、人間を超えるものが世の中にはあり、それは私たちをずっと見守っている。そう信じなくては、私の心と頭は生きていけないのです。

雲を鮮やかにカラフルに照らす夕日
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人間の力を超えたものの存在を信じなければ、世界はルールもモラルもない弱肉強食の無法地帯になります。そうした何かの存在を信じることができるからこそ、人間は人間らしく生きていけるのです。人間の力を超える何か。私はそれを「サムシング・グレート」(偉大なる何者か)と呼んできました。

「奇跡」には4つの共通点がある

前述した2つの「奇跡」には、いくつか共通点があります。

1つ目は、私は絶体絶命の危機にあった、ということです。足を少しでも踏み外せば、奈落の底にまっさかさまに落ちていく崖っぷちを歩いていました。

2つ目は、私は命がけの努力をしていました。目の前の巨大な壁を、ただひたすら乗り越えようと必死でした。

3つ目は、私には私心がまったくありませんでした。壁を乗り越えれば自分が評価されるのではないかとか、これで偉くなってやろうといった気持ちは、一片も持ちようがありませんでした。

4つ目は、私は独りでした。もちろん、励ましてくれた人はいましたが、何の力にもなりません。当たり前ですが、私は独りで考え、独りで自分と闘ったのです。

つらい状況にあればあるほど、そのことを他人と分かち合いたくなるのが人間です。この孤独をきっと神様が見ている。だから最後まで耐えることができる。その意味では孤独を自虐的に楽しむ心境です。

活版印刷の活字で「miracle」の文字
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と、うまくいけば、何とでも言えます。神様がどんなふうに私を見てくれていたかはわかりません。「こういうふうに見てほしい」と期待したこともありません。今だから脳天気なことが言えるのです。

ただ、この4つのうちのどれか1つでも欠けていたら、私は奈落の底に落ちていたのではないでしょうか。不幸の結末を予測することはできません。幸せと同じく、人生とは人間の心と頭を超えるものだからです。

人生は良いことばかりでも悪いことばかりでもない

ただひたすら自分のできることを一生懸命やった。それでも失敗した。

それを神様が見て「おまえがやったことは、どこかで間違っている」と判断したんでしょうか。

いや、そうではなく、私が失敗したのは、どこか別のところで成功しているからではないだろうか。一つ間違えば、一つ良いことがある。人生は良いことばかりでもなく、悪いことばかりでもない。

私は良いことが続くと、「ああ、これは悪いことが来るぞ」「ちょっと危ないな、これ」と絶えず「慎重にゆっくり」と心がけています。あらゆるものが、あまりにうまくいっていると、「この状況は良すぎるぞ」「ちょっと有頂天になり過ぎていないか」と気持ちを引き締めます。自分が良いことをしているということは、周りの誰かがどこかで悪いことをしている可能性がある。自分が良い目を見ているということは、反対にひどい目に遭っている人が周りにいるのだろう。もちろん、科学的、合理的な判断ではありませんが、それは大きくは間違っていないという確信があります。

良いことも悪いことも必ず誰かが見ている

世の中は人間がまだ知らない、わからないことだらけです。宇宙や素粒子のことだけではありません。脳や身体の仕組みなど、自分自身についてさえ、ほとんど何もわかっていないのです。

とすれば、この世には人間の理解を超えることわり、秩序があるのかもしれません。人間を超えるもの、神様、サムシング・グレートとはいったい何でしょう。

手のひらを太陽に照らしてみれば
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子どものころ、祖母に言われた言葉。

「どこでもいつでも、お天道様は見てござる。まじめに一生懸命やりなさい」

その「お天道様」でしょうか。

私自身は勝手に「自分以外のすべての人間」だと思ってきました。自分の周りの人間すべてを神様と思えば、良いことも悪いことも誰かが必ず見ています。

誰も見ていないと気が緩み、人間は怠けたり悪いことをしたりします。しかし、自分以外のすべての人間が自分を見ています。誰も見ていないということはありません。

丹羽宇一郎『生き方の哲学』(朝日新聞出版)
丹羽宇一郎『生き方の哲学』(朝日新聞出版)

人知れず懸命に努力する。その姿を誰かが必ず見ています。上司、同僚、部下、取引先、友人、家族、親族、そして路傍の他人……。

だから、悪いことをしてはいけない。ウソをついてはいけない。楽をして、良い目を見ようとしてはいけない。必ずその報いがある、と私は思ってきました。

そして、自分の80年余の人生を顧みると、やっぱりその考えは間違っていませんでした。

「清く、正しく、美しく」生きようとすることの意味は確かにある。

私はそう信じて疑いません。