何度お願いしても頑なに自分を変えようとしない人がいる。自分が正しいと思い込んでいる人にはどう接すればいいのか。哲学者の小川仁志さんは「それには二つの方法があり、あきらめるか自分を変えるかのどちらかです」という――。

※本稿は、小川 仁志『不条理を乗り越える 希望の哲学』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。

詰問する人とされる人のシルエット
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人間関係とは厄介なもの

人が悩む場合、その多くは人間関係に原因がある。というか、これは私の実感でもある。

なぜ、イライラするのか、なぜ、落ち込むのか……。それは仕事がうまくいかないとか、家族や友人ともめたとか、そういう理由からであることが多い。

私たちは無人島に住んでいるわけではないのだから、独りで物事が完結することなどほとんどない。そうすると、なにをするにしても自分以外の他者が絡んでくる。

その他者のせいで、自分の思った通りに物事が進まない事態が発生するのだ。それがイライラしたり、落ち込んだりする原因になる。そういう状況を「人間関係」と呼ぶのだ。人間関係がどうなのか具体的にいわなくても、この四文字で状況がわかってしまう。それほど、人間同士の関係というのは厄介なものだということである。

そう、私たちが日ごろ、この言葉を使うときは、特別な意味を込めている。単純に人間同士の関係性のことをいっているわけではないのである。特別な意味、基本的にはネガティヴな意味を込めているといっていい。

コントロールすることのできない他者に、苦しめられている関係である。とはいえ、他者の方は、必ずしも相手を困らせてやろうと思っているわけではない。

「そんなつもりはなかった」と思っていても

これもまた、私の体験に基づくのだが、ある日突然、会議における私の態度の悪さに対して出席者から苦情が寄せられたことがあった。よもや、自分が誰かを困らせているなどとは思ってもいなかった私は、思わずハッとした。会議を取りまとめていた私は、ただ単に結論を統一しようとしていたのだが、それが人の意見を軽視し、抑えつけているととられたのである。もちろん、そんなつもりは毛頭なかったにもかかわらず……。

私たちは、自分が正しいと思うことを普通に発言し、行動しているだけで、それが誰かにとっての「人間関係」の原因になってしまっていることがあるということだ。

「人間」は生まれ育った環境に影響されやすい

このことをうまく説明しているのは、フランスの社会学者ブルデューによるハビトゥスという概念だろう。

彼は、この言葉を傾向性という意味で使っている。簡単にいうと、人が生まれ育った環境によって形成される性質のようなものである。誰もが自分のハビトゥスを有しているので、知らず知らずのうちに、そのハビトゥスの価値を高めるような言動をとってしまうのである、と。

たとえば、私は関西で生まれ育ち、社会人になってからはずっと非関西圏で生活している。するとやはり、無意識のうちについ関西を讃えるような言動をとってしまっているのだ。

ブルデューにいわせると、それは象徴闘争という行為であって、ある種やむを得ないものである。いま風の言葉でいうなら、マウントを取ろうとしてしまうのが、生き物である人間の性なのだろう。

公園の芝生の上に座って話す2人の兄妹
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「自分が正しい」と思っている他者を理解するには

問題は、自分が正しいと思い込んでいる他者と、どう付き合っていけばいいかである。これには二つの態度が考えられるだろう。

一つはペシミズム(悲観主義、厭世観)的な態度である。つまり、あきらめるということである。ドイツの哲学者ショーペンハウアーがペシミズムの典型なのだが、彼は人間関係についても、細心と寛容を使い分けよ、と説いている。いわば、よく観察して、相手のどうしようもない部分については受け入れるしかないということである。

それが、簡単にできれば苦労しないのだが、ショーペンハウアーはトレーニングすることは可能だという。

石を相手に話しかけろというのだ。

何を話しても変わらない相手は「石」と同じ

たしかに石にいくら話しかけても、説得しても、態度が変わることはない。石とはそういう存在だ。ある意味で、他者とは石と同じように、変えることのできない存在だからといいたいのだろう。

たしかに、このトレーニングは役に立ちそうである。

私たちは相手も同じ人間だから、きっとわかるはずと思い込んでいる。しかし、人間は変わりうるという前提が、そもそも間違っているのである。相手は石だと思えば、見方も違ってくるはずだ。

自分で勝手にすり合わせるのもひとつの手

もう一つの態度は、他者とすり合わせを行うというものである。いや、正確にいうと、他者は変わらないのだから、自分が勝手にすり合わせを行うということだ。

これには、ドイツの哲学者ディルタイの生の哲学が参考になる。彼は人生における体験を重視した哲学者である。

私たちは体験を通して、自分の価値観をテストすることになる。人と意見がぶつかる、というのもその一環だ。自分のモノサシを、他者のそれと突き合わせることで初めて、違いが明らかになる。そうやって他者を理解していくわけである。

相手が変わらないなら自分が変わるしかない

ここで気づくのは、ショーペンハウアー的態度もディルタイ的態度も、ベクトルは違う方向を向いていても、共通している点があるということである。

前者は、あきらめという後ろ向きな態度であるように見えて、しかし自分の他者に対する見方を変えようとしている。後者は、すり合わせという前向きな態度でもって、やはり自分を変えようとしているのである。

したがって、いずれも自分を変えようとしている点では共通している。考えてみれば、これは当然のことで、他者が変わらないなら、変えられないなら、自分が変わるしかない。その方法が若干異なるだけなのである。

後ろ向きに変わるか、前向きに変わるか、である。

状況に合わせてコロコロ転がればいい

私自身は後ろ向きでも前向きでも、どちらでもいいと思っている。というよりも、状況に合わせてコロコロと変わればいいのだ。前後に転がってもいい。コロコロと態度を変えるというと、なんだか悪いことのように聞こえるが、そうともいえない。

もともとコロコロという表現は、丸いものが転がるさまからきている。丸いから転がるのだ。これを性格に当てはめると、とたんにいい意味になる。人間が丸くなったとか、丸い人だとか──。それは性格の面での柔軟性を指しているはずだ。

世の中に不条理なことが増え、人々がギスギスしてくると、なおさら対立しがちになる。そんななかで「人間関係」をうまく築き上げていくためには、自分が丸くなるのが最善なのである。日和見主義といわれようと、右顧左眄うこさべんといわれようと、それすら気にしないのが丸い性格である。

対話の時代に求められるのは“柔軟性”

いまの時代は、そうした性格があらゆる場面において求められているような気がしてならない。たとえば、2000年代のヒルズ族のように、尖った性格が求められた時代とは前提が異なっているからである。そんな尖った性格が求められた時代には、人々は対立することを奨励さえされた。ディベートをするスキルが求められていたのは、その証左だろう。

小川 仁志『不条理を乗り越える 希望の哲学』(平凡社新書)
小川 仁志『不条理を乗り越える 希望の哲学』(平凡社新書)

おそらくその背景には、正しい価値観が予め前提されていて、それを追求すべきだとする空気があったのだと思う。でも、いまはそうではない。正しい価値観など予め前提することはできないのだ。

この不確実な時代にあっては、むしろ相手の意見に合わせつつ、共に前に進んでいく柔軟な態度が求められるのだ。だから、ディベートよりも対話の時代だといわれるのである。

そして対話には、尖った性格よりも丸い性格が求められる。目的は他者を倒すことではなく、他者とうまくやっていくことだからである。

一緒に、コロコロと転がっていけばいい。そういえば、コロコロという語は、笑い声が響くさまを形容するものでもある。他者は変えられないが、自分が変わることで、ネガティヴなニュアンスを帯びた「人間関係」という言葉の意味も変えられるはずだ。コロコロと笑いながら、共に進んでいく関係を意味する言葉として。