※本稿は、小川 仁志『不条理を乗り越える 希望の哲学』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
広がる「助け合い」の思想
能力主義によって格差が生じているからか、あるいはコロナ禍のせいか、最近、世の中では助け合いが目につくようになった。気づけば利他という言葉が、時代を象徴する思想の一つになっているような気がする。
クラウドファンディングが定着し、ふるさと納税もどんどん額が大きくなるなど、少なくとも日本では利他的精神が広がっているように思うのである。実際、東京工業大学では、利他について研究するプロジェクトが発足し、中心となったメンバーの論考をまとめた『「利他」とは何か』(集英社新書、2021年)が刊行された。
5名の執筆者(伊藤亜紗、中島岳志、若松英輔、國分功一郎、磯崎憲一郎)は、皆それぞれの専門の立場から利他について論じているのだが、そこに共通している人間観は「うつわになること」だという。
つまり、うつわというからには、そこに他なるものが入る余地があり、かつ自分がそれに入れるというのではなく、むしろ入ってくる、という意思を超えた要素があるということだと思われる。
その意味で、寛容な性格を形容する際に用いる「器が大きい」という場合の器に近いような気がする。逆にいうと、器が大きくなったとき、初めて、人は利他的行為に出ることができるのではないだろうか。
人間はピンチのときほど他者を受け入れる
前掲書で、著者の一人伊藤亜紗が、災害ユートピアについて触れている。アメリカの作家レベッカ・ソルニットが広めた言葉である。人々が地震などの災害の際、見知らぬ人のために行動するというユートピア的な状況を指す。
伊藤は、こうした状況が生まれるのは、混乱によって先が読めなくなっているからだという。たしかに、どうなるかわからないから正常に判断ができない、ということもあるのだろう。
しかし私は、こうした災害時こそ人は正常に戻るのではないかと考えている。災害という集団的不条理のなかでこそ、誰もがお互い様を感じるのではないだろうか。
これは、性善説か性悪説か、というような話になってしまうのだが、基本的に人は皆いい器を持っているのだと思う。それが普段は蓋を閉じているのだ。でも、ふとした時にその器の蓋が開き、他者を受け入れる。
それは災害時もそうだろうし、コロナ禍のようなパンデミック時もそうだろう。
誰か困っている人がいれば、蓋を開けるのが人間なのだ。もちろん、そうではない人でなしもいるが、それは例外である。
私たちがすべきこと二つ
だから、私たちがすべきなのは二つである。
できるだけ、器の蓋を開けておくようにすること。そしてなにより、器を大きくしておくことである。
よく大器晩成という。一般にこれは、大物は遅れて頭角を現すことを意味する。
だが、別の意味も考えられる。器の大きい人間になるためには、時間がかかるということだ。
それではいけないように思うのだ。自分にとっても社会にとっても。誰だって早くから社会に貢献したいだろうし、社会にとってもその方がプラスだ。
そこで私は、この文脈においては大器早成の方がいいと思っている。
早く器の大きい人になるべきだし、また器の大きい人が早くから成功する方が、社会にとってもメリットがあるはずだ。昨今の世の中は、割とそういう風潮があるように感じる。
社会起業家と呼ばれる人たちが増えているからだ。しかも彼らは総じて若い。
ソーシャルビジネスで成功する起業家たちの考え
そのトップランナーといわれているのが、ボーダレス・ジャパンの田口一成だ。
実に、ソーシャルビジネスだけで55億円もの売上を実現し、世界15カ国に40社を展開する社会起業家だ。貧困、難民、過疎化、フードロスといった問題を、単なるボランティアではなく、利益の出る仕組みにすることで次々と解決している。
その秘訣は、著書『9割の社会問題はビジネスで解決できる』(PHP研究所、2021年)のなかで余すところなく紹介されている。そもそも田口らは、社会課題を不条理ととらえている。だからこそ、それを解決することを至上命題としているのだ。
この世には、そんな崇高な志を持った人たちがたくさんいる。でも、若い人はすぐにソーシャルビジネスを立ち上げるのは大変だ。そこで彼らを支援し、ともに社会課題に取り組むための仕組みをつくったというわけだ。
まさに、私のいう大器早成のための器づくりといっていい。一番共感できるのは、そうしたソーシャルビジネスは、社会変革を起こすための手段であって、ビジネスそのものが目的ではないといい切っているところにある。現に、そのために利益は上げつつも、さまざまな工夫を凝らして、利潤追求が暴走しないようにしている。
これは、私が提唱する公共哲学のスローガンに合致するものだ。自分をいかに社会につなぐか、その本質にさかのぼって考えるのが公共哲学である。よくそのつなぎ方をスローガンのように表現することがあるのだ。
学者たちのスローガンに違和感
日本の学者たちは、公共哲学をめぐる議論のなかで、2000年の初めに「活私開公」というスローガンを掲げるに至った。従来の滅私奉公に対して、むしろ自分を活かすことで公を開くというウインウインの関係を目指すためである。
しかし、私はどうしてもこのスローガンが引っ掛かっていた。なぜなら、自分を活かすことが主になると、いくら公を開くといっても、それが、おこぼれのようになってしまいかねないと感じたからだ。
何事も、面白いからやるという人が多いが、その結果、社会の役に立てばいいと考えている程度だと、失敗したときは、社会になんのメリットももたらさない。かえって有害なことさえあるだろう。
公共哲学においては、あくまで公を開くことが主目的でなくてはいけない。だから私は、先のスローガンの前後をひっくり返して、むしろ「開公活私」であるべきだと唱えたのだ。公を開くために私を活かす。それが田口のいうソーシャルビジネスの思想と重なるわけである。
常に公益を考えて行動する
これからは、ビジネスに限らず、あらゆる生き方がそうした「開公活私」的なものでなければならないと考える。
現にSDGsとはそういう発想である。ビジネスでも日常生活においても、私たちは常に社会のこと、公益を考えて行動しなければならない。そういう時代を生きているのだ。
考えてみれば、私たち一人ひとりの活動は皆、誰かにつながっている。だからなにをしても、他者に影響を与えてしまうのだ。そのことを意識していれば、利己的になるのを防げるのではないだろうか。
次の世代へつなぐ「恩送り」システム
田口らのソーシャルビジネスには、「恩送り」というシステムがあるという。グループの支援があって成功したのだから、次は、自分が新しい人たちに恩を返すつもりで、資金を提供するというものだ。
そのおかげで、若い人たちもスムーズに起業することができる。私は、この発想を社会のすべての仕組みに反映すべきだと考える。彼らの恩送りは決して施しでもビジネスライクな支援でもない。恩返しなのだ。別にお世話になった人への恩返しではないから恩送りなのだろうが、その本質はやはり恩返しなのだと思う。私たちは皆つながっているのである。
こうした発想を社会全体に適用するとき、それはもう従来の利他主義とは異なるのだから、新たな名称が必要だろう。たとえば、「リターン主義」というのはどうだろうか。利他主義とリターンを掛けている。言葉遊びだが、実質をとらえてはいないだろうか。
誰もが誰かになにかを負っていると感じ、お返しする気持ちで生きていく。そんな社会が実現したとき、私たちは、ようやく気持ちよく生きていけるような気がしてならない。このぎすぎすした世の中を変えるのは、そこに住む一人ひとりの気持ちでしかないからだ。