新型コロナのパンデミックにより世界各地でパニックが起きた。感染者差別や誹謗中傷はいまだに繰り返されている。哲学者の小川仁志さんは「まさに烏合の衆のようだ。同調圧力としてしか機能していない共同性を、人を育てるための学ぶ共同体に変えていかなければならない」という――。

※本稿は、小川 仁志『不条理を乗り越える 希望の哲学』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。

腕を組んでいる女性
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パニックがもたらす危険な心理

パニックともいうべき、初めての大規模なパンデミックを経験した私たちは、まさに烏合うごうの衆よろしく右往左往し、さまざまな失態を演じてしまった。

現実社会においては、買い占めや感染者差別のような行動に出、ネットの世界においてはフェイクニュースまがいの怪しい情報を信じ、中傷や炎上を繰り返している。

おとなしい国民性が幸いしてか、さすがに国会を襲撃することはなかったが、アメリカでは一部のトランプ支持者が議会を襲撃し大きなニュースとなった。

そうした時代の空気に呼応してか、フランス革命期の大衆の様子を描いたル・ボンの名著『群衆心理』(講談社学術文庫、1993年)が話題となった。

正確にいうと、ル・ボンが描いたのは群衆の様子であり、大衆ではない。群衆とは、ただの大勢の人々を意味する大衆とは異なり、感情や観念の同一方向への転換を意識している人たちである。

彼は、そのような群衆の本質を危険なものとして描いたのである。なにしろ群衆は破壊力しか持っておらず、社会を混乱に陥れ、バイ菌のように作用するとまでいっている。なぜ群衆は、そのような態度を取ってしまうのか。

群衆は「わかりやすさ」を求める

一言でいうと、それは単純化を好むからである。わかりやすさを求めるといってもいいだろう。だから、ひとたびカリスマ的な指導者が現れると、たちまち操られてしまうのだ。

この様子は、コロナ禍における私たち自身を重ねて見るとき、いかにも戯画的に映る。

私たちもまた、日々単純なメッセージに踊らされ、攻撃的な言動を繰り返していたのだ。よく調べることもなく、ある国が悪いと聞けば猛烈に非難し、若者が悪いと聞けば若者を非難し、ワクチンを打たない人が悪いと聞けば、その人たちを非難してきた。

もちろん政治的な革命とは異なり、カリスマ的な指導者はいないが、現代では誰もがそんな立場になりうる。それがSNS社会の怖さである。かくして、群衆の暴挙は日常的に繰り返される。

ただル・ボンも、だから群衆はどうしようもない、とは思っていない。

群衆の力をいい方向に転じるには

たとえば、教育によって、群衆も徳性を備えることができると論じている。そうすれば、群衆は社会をいい方向に変える力となりうるのだ。

その可能性について論じているのが、オルテガの『大衆の反逆』(岩波文庫、2020年)である。オルテガは大衆という言葉を使っているのだが、彼のいう大衆もやはりル・ボンの群衆と同じ危険な存在であることには変わりない。

なぜなら、彼の生きた20世紀は、ファシズムあるいは共産主義によって、人々が社会の秩序をひっくり返そうとしていた時代だからである。

大衆は、いわば根無し草になってしまっていて、自分で判断することなく、付和雷同的に扇動されるだけの存在だったのだ。

しかし、だからこそオルテガは、大衆がしっかりと自分の根を持つべきことを訴えたのである。

彼の言葉を用いると、「貴族」になることによってそれは可能になる。貴族といっても、身分の話ではなく、あくまで精神的な貴族のことである。精神的な貴族は、真理の探求を欠かすことはないという。おそらくこれが、根を持つための方法なのだろう。

西洋の文脈だけだとわかりにくいかもしれない。日本を例にとろう。

通勤する人々
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日本の政治界が変わらない理由

政治学者の丸山眞男は、よく知られた論稿「『である』ことと『する』こと」のなかで、前近代的で日本的な「である」という価値観と、近代的で西洋的な「する」という価値観を対比している。

わかりやすくいうと、日本では、現代になってもまだ前近代的な「である」価値観を引きずっているため、物事に働きかけて変えようとしないということである。

だから、近代的な「する」価値観によって、政治の場面において自由を獲得したり、民主主義を活性化しないといけない、というわけである。

ところが、ことはそう単純ではない。「である」価値観が求められる場面もあるのであって、そこに「する」価値観が入り込むというようなことも起こっている。

それに、先ほどの「する」価値観が求められるべきところに「である」価値観が居座る、という現象も起こっているのである。丸山は、これを価値の転倒と呼んでいる。

本来、求められるべき価値が転倒しているのである。

その最たる例は、学問や芸術の世界だという。学問や芸術においては、むしろ「である」価値観が求められなければならないのに、そういう価値の蓄積が行われず、「する」価値観によって、その時だけの実用が重視されてしまっているのである。

そこで丸山は、価値の再転倒を主張する。「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつく」べきだ、というのである。

つまり、学問や芸術の世界において、しっかりと「である」価値観を確立した個人が、政治の場面において「する」価値観を行使すべきだということだろう。

いい換えると、これは、個々人がしっかりとした根を持つということではないだろうか。

奇しくも、丸山もオルテガと同じく貴族という言葉を使っている。学芸によって教養を身につけよ、といいたいのだと思う。

時に、丸山の言説はエリーティズムだと非難されることがある。

「根を持つ」ではなく「根に持つ」

たしかに、教養という根を持つことで、個を確立するというのは、そう簡単なことではない。そもそも日本には、個の確立を実現する風土が欠けているように思われる。過剰なまでに、共同体や共同性を重視する国だからだ。そんな風土のなかで個人が変わるのは難しい。

小川 仁志『不条理を乗り越える 希望の哲学』(平凡社新書)
小川 仁志『不条理を乗り越える 希望の哲学』(平凡社新書)

そこで私は、もっと日本人にあった提案をすべきだと考えている。

それは、「根を持つ」のではなく、「根に持つ」ということである。これは、恨んで忘れないという悪い意味で使われる語だが、物事にこだわるという部分だけをとらえると、必ずしも悪いことではない。そこをとらえて転用したい、と思うわけである。

日本人は、勉強によって個を確立していくというよりも、共同性のなかで物事を学び、一人前になっていくのではないだろうか。ものづくりの世界で親方から学ぶように、あるいは伝統文化を、家元を中心に構成された集団のなかで学ぶように。

結局、現代日本の個人が群衆、あるいは大衆に成り下がってしまっているのは、近代的個人になれていないからではなく、共同体の成員として育っていないからだと思うのである。

そこを変えていくためには、ただ過剰なだけで同調圧力としてしか機能していない共同性を、人を育てるための学ぶ共同体に変えていかなければならないのだろう。

そうして根を持った、いや「根に持つ」ことができた個人が育ってきたときに、初めて、ようやく私たちは烏合の衆を卒業できるのである。