※本稿は、黒川祥子『シングルマザー、その後』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
専業主婦が優遇される国民年金制度の改訂
「女性の貧困元年は1985年」という提起を行ったのは、法政大学の藤原千沙教授である。2009年、藤原教授(当時・岩手大学准教授)は『女たちの21世紀 特集 女性の貧困 何が見えなくしてきたのか?』に、「貧困元年としての1985年 制度が生んだ女性の貧困」という論考を寄せ、女性の貧困問題が「制度により作られた」ものだという視点を明らかにした。
では、なぜ、ここが女性の貧困元年なのか。
1985年5月、男女雇用機会均等法が成立した。正式名称は、「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」。
女子労働者にとって追い風が吹くことになったわけだが、この前月の4月、国は今までにない新たな制度を作った。まるで男女雇用機会均等法成立の前に、やっておかなければならなかったものであるかのように。
それが、国民年金における「第3号被保険者」制度の創設だ。この制度こそ、「女性の貧困元年が1985年」と言われる、核心となるものだ。
「第3号被保険者」制度とは一体、何なのか。年金制度に初めて登場した、「第3号被保険者」。これまでは、1号と2号しかなかったのだ。
「第1号被保険者」とは、自営業や農業者などとその家族、学生や無職者を指し、「第2号被保険者」とは民間の会社員や公務員など厚生年金、共済の加入者を指す。
そして、新たに作られた「第3号被保険者」とは、「第2号被保険者」に扶養されている配偶者のことを指す。平たく言えば、会社員や公務員の夫に扶養されている、妻のことだ。
働いていない専業主婦が、どうやって保険料を納めるというのだろう。いや、納めなくていいよ、と新たな制度は規定した。「第3号被保険者」は、自分で保険料を納付する必要がない人たちのことでもある。妻たちは自分で保険金を納めなくても、年金がもらえるような仕組みを作ってもらえたのだ。
もちろん、そこには国の明らかな目的がある。この国の意図こそ、本稿の核心となるものだ。藤原教授は、このように指摘する。
「結婚した女性は自ら経済力を得て社会保障制度に加入するのではなく、経済的には夫に従属し扶養されることに対して社会が補助金を与えるがごとく優遇したのである」(前掲論考)
当時の自民党政府には、労働現場における男女平等の実現の前に、専業主婦を優遇する制度を作る必要があったのだ。それは、この国が女性に対してどのような態度で臨むのかと同義だ。そして、どういう社会を作るのかにも通底する。
夫に扶養される妻への優遇策
80年代は、専業主婦やパート労働を行う妻たちへの優遇策が次々と作られた時代でもあった。
1980年には、相続の分野で「寄与分」制度が創設された。夫が死亡した際、夫の療養や介護に尽くしたとされる相続人(多くが妻)には、特別に与えられる相続財産の持ち分が「寄与分」として新たに作られ、寄与相続人は、寄与分と自身の相続分と両方を取得できることになったのだ。あたかも介護を家庭で担ってくれたことへのお礼、あるいはご褒美として。
まさに、菅義偉が総理就任時に掲げた、「自助」を第一に据える姿勢そのものだ。国に頼らず、自分たちで何とかしろという。
税制面でも、優遇制度が作られていく。1987年創設の「配偶者特別控除」だ。
それまでは、「配偶者控除」というものが存在していた。配偶者控除の創設は、1961年。生計を一にする妻がいる場合、夫が支払う所得税を計算するにあたって、所得から一定金額を差し引くことができるという仕組みだ。課税所得が少なくなるわけだから、夫が納める所得税や住民税が少なくなる。
ではなぜ、この配偶者控除なるものが必要とされたのか。創設の前年にあたる1960年12月に出された、税制調査会の答申などにこう書かれていることが、北村美由姫さんの論考、「配偶者控除についての一考察」で紹介されている。以下、引用する。
「妻とは『単なる扶養親族ではなく、家事、子女の養育等家庭の中心となつて(ママ)夫が心おきなく勤労にいそしめるための働きをしており、その意味で夫の所得のか得(ママ)に大きな貢献をしている』者であるのだから、扶養親族と見るのは不当である」
こうしたことを踏まえ、北村さんはこう指摘する。
「この配偶者控除創設の考え方の根本には、『税法上「妻の座」』を認め、妻の役割をより一層明確にするという、『妻の座確保』政策があったことがはっきりとわかるのである」
女性が103万円以上稼ぐのが許されないシステム
よく「103万円の壁」と言われるが、これは配偶者控除の要件が、配偶者の収入金額が年収103万円以下ということを指している。103万円以下なら、38万円を控除額として夫の所得から差し引くことができるというもの。
1987年に、新たに「配偶者特別控除」なるものが創設されたのは、パート労働で103万円の壁を超えてしまった場合、配偶者控除が受けられなくなり、結果として世帯の所得が減るという事態が起きるからで、そこで妻たちは、103万円を超えないように就業を調整するようになる。1980年頃から、こうした「パート問題」が発生していたと、前出の北村さんは指摘する。
そこで「配偶者特別控除」を創設して、妻の収入状況に応じて、103万円以上の収入がある場合でも使える制度を導入して「パート問題」を解決するとともに、サラリーマン世帯の減税を図ろうと意図したのだ。
配偶者控除の枠を1円でも超えてしまうと全く控除がなくなるのではなく、一定レベルまでは控除額を維持し、その後、段階的にゼロにしていく制度が配偶者特別控除で、納税者の所得金額と配偶者の所得金額で控除額が変わるというシステムとなっている。
こうして1980年代に、立て続けに専業主婦及び家計補助的なパート労働をする妻を、優遇する制度が作られていった。それは、この国がどのような社会を目指すのかによって形作られたものだ。
80年代、当時の自民党政権は日本社会のあるべき形を目指すべく、明確な方向に舵を切った。
藤原教授によれば、あるべき形とは「男性稼ぎ主モデル」という家族形態を指す。それは男性(夫)が稼いで妻子を養い、女性(妻)は夫に扶養されながら家事・育児・介護を行うというものだ。この「男性稼ぎ主モデル」が強化されたのが、まさに80年代だったという。
「1979年、当時の政権与党である自由民主党が発表した『日本型福祉社会』(自由民主党研修叢書)において、日本がめざすべき福祉社会は、安定した家庭と企業による福祉を前提として、それを市場で購入するリスク対応型民間保険が補完し、国家は最終的な生活安全保障の場面にのみ登場するというものであった」(前掲論考)
未婚や離婚のシングル女性は存在が想定されていない
国が福祉にいかにお金を出さなくて済むか、それが「日本型福祉社会」だった(今や、安定した家族と企業両方が、破綻していると言わざるを得ないが)。
ゆえに女性は専業主婦か、働いても家計補助的な低賃金のパート労働でいいとされ、夫に扶養されることを前提に、家事、育児、介護を無償で担う「日本型福祉社会」の支え手とされた。その代償としての、専業主婦優遇制度だったのだ。専業主婦がいれば、国は福祉に使うお金を最低限にできると。
女性の労働形態はパートなどの非正規雇用でよく、対価は低収入でいいとされたのだ。ここに現在の女性の貧困に繫がる要因が、くっきりと見える。女性の貧困は、ここで運命付けられたというわけだ。
ちなみに、この「日本型福祉社会」では、未婚や離婚によるシングル女性の存在は一切、想定されていない。女性が稼ぎ頭(大黒柱)になる家族など、自民党政権の眼中には存在していないのだ。
80年代は世界的に見て、発展途上とされる国でも、女性が労働力として社会進出を果たしていった時代だという。そんな中、日本では女性を家庭に繫ぎ止め、ケア労働に努めれば老後の安定を保障するという政策を打ち出した。それが、「日本型福祉社会」であると。国が福祉に登場するのは、最後の最後でいいのだと。
国連の手前上、男女雇用機会均等法を制定しておきながら、労働力としての女性の社会進出など、一顧だにしていないというわけだ。
男女雇用機会均等法と労働者派遣法が同じ年に制定
皮肉なことに、1985年は男女雇用機会均等法と労働者派遣法が、同時に制定された年でもあった。
派遣切りなどの不安定雇用、格差拡大などで問題となっている派遣労働の始まりが、ここ1985年に遡るわけだ。
そもそも、自社が雇用する労働者を他社に派遣して就業させるという、「業務処理請負業」が登場したのは1966年、アメリカの人材派遣会社が日本に進出したことで開始された。このシステムが一定の役割を果たすことを受け、労働者派遣事業の制度化が必要だということで、労働省(当時)が立法化に着手、1985年に労働者派遣法が成立したという流れがある。
これによりビジネスとして派遣事業を行うことは可能になったが、当時は専門性の高い13業務に限定、建設業務、警備業務などへの派遣は禁止、製造業へも政令により禁止され、労働者保護の色彩の強いものとしてスタートした。これにより、通訳や秘書など専門性を活かした職業に就く人が1日数時間、週に数日だけなど、融通をきかせて働くことが可能になった。
当初は専門職だけに限られていたが、その後、労働者派遣法は何度も改正を重ね、対象業務はどんどん拡大し、2003年の改正では、製造業への派遣が解禁となった。
2008年暮れに日比谷公園に作られた、「年越し派遣村」を覚えているだろうか。リーマンショックの影響で企業が一斉に派遣切りに走り、寮生活を送っていた製造業の非正規社員は、職と同時に住居も失うこととなり、派遣村に押し寄せた。ここで初めて可視化されたのが、非正規雇用などの男性の貧困だった。しかしそれ以前に、女性はずっと、低賃金のパートや派遣労働でいいとされてきたのだ。
加えて、男女雇用機会均等法の制定により、女性の間にも明確な分断が持ち込まれることとなった。男女雇用機会均等法が成立したことで、女性にも「総合職」というポストが作られた。つまり、一部のエリート女性たちが男性並みに働くことが可能となり、高収入を得ることができるようになったのだ。とはいえ、この恩恵を享受できたのは、ほんの一握りの女性でしかない。
「男性稼ぎ主モデル」が社会の首を絞めている
一見恵まれていると思われる総合職の女性だが、男性並みに働くということは、何を意味するのか。男性は家庭のこと(家事、育児、親の介護)すべてを担う、妻の「ケア労働」があるからこそ、仕事だけをしていればいいわけだ。夜中までの残業だって、なんてことはない。
しかし、そのようなケア労働を担う存在がいない女性が男性並みに働くとなれば、自身が家庭を持つことを断念せざるを得なくなる。よほど家事を担ってくれる夫(そもそも、そのような男性は80年代、極めて希少だった)か、祖父母がいない限り、子どもを産み育てることと仕事を両立させるなんて不可能だ。
世は80年代半ば、いくら金銭に余裕があっても、民間の家事・育児サービスを利用する発想は乏しかったし、今ほどサービスが充実していたわけでもない。
男性が「家族サービス」(何が、サービスだと思うが)と称し、子どもの愛らしさに目を細める団欒のひとときを持てるのに対し、総合職女性は何と細く厳しい道を歩まざるを得なかったのだろう。
ゆえに女性が仕事と家庭を両立したいとなれば、自ずと低賃金のパート労働や派遣労働を選ばざるを得ないという、半ば強制された選択肢しか残っていない。それでも大黒柱である夫がいれば、妻は生活に困ることはない。
しかし、パートや派遣で働かざるを得ないシングル女性はどうなるのか。国が想定していなかった「男性に扶養されない女性」は現にいる。そして今、その数は1985年当時では、予想もできなかったほどの広がりをみせている。
女性の生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)を見ると、1985年は4.3%だったが、2020年には16.4%に急増。母子世帯数は1988年に84万9200世帯だったが、2016年には123万1600世帯へと増加している。
千葉大学、放送大学名誉教授で家族社会学が専門の宮本みち子さんは、「予想以上の出生率の低下と非婚化の進行について、人口学者が甘く見過ぎていた」と指摘する。
山田昌弘中央大学教授に、現代日本の未婚化の背景についてうかがったところ、若年男性の経済力低下に伴う経済不安と、男性が経済的に家族を扶養する意識が残存しているためという指摘を受けた。
まさに80年代に強化された、「日本型福祉社会」のための「男性稼ぎ主モデル」が、社会の首を絞めているわけだ。
「男性に扶養されない」女性に対して、国はいまだ態度を保留したままだ。シングルマザーに対して国がどのような眼差しを持つのかは、その国が女性をどのような存在として見ているのかと全く同義なのにもかかわらず……。
児童扶養手当の減額が追い討ちに
児童扶養手当─―これはまさに母子家庭の生命線と言っていい。子育てをしていたとき、この手当にどれほど助けられてきたことか。生活費の足しになるだけでなく、医療費が無料になったり、水道料の基本料金が免除になったりと、生活のさまざまな場面で母子家庭生活を下支えしてくれるものだった。
当時、子ども2人で月額4万円ちょっと、それが年に3回、4カ月分がまとめて支給となった。この日をどれほど待ち望んだことだろう。子どもの怪我や病気、自分の歯科治療など、医療費が免除になることの恩恵はどれほど大きかったことか。
児童扶養手当制度は1961年に制定、支給には所得制限があるものの、何度か改定されても基本、一律の金額が支給されてきた。
ここに楔を打ち込んだのが、1985年だった。国は全額支給の他に、一部支給というシステムを導入、多くのシングルマザーの反対にもかかわらず、制度改定を行い、給付額の大幅な削減を成し遂げた。
所得が171万円未満なら月額3万3000円の全額を支給、所得が171万円以上300万円未満なら2万2000円の一部支給という、児童扶養手当に二段階制を初めて持ち込んだのだ(以降今日まで、より残酷な方向へ変遷を続けている)。夫の扶養から飛び出した女に、払う金はもったいないとばかりに。
この1985年の児童扶養手当法改正は、外在的には財政支出削減を目的とし、内在的目的は母親の就労を通じて児童の福祉増進を目指す制度に改めることにあったとされる。外在的にはわかるが、母親の就労がなぜ、児童の福祉増進に繫がるのか。支給金額を減らされて生活苦となれば、児童の福祉増進どころではない。
「妻の座」の優遇措置と母子世帯の貧困は表裏一体
一方、手のひらを返すがごとく、「妻の座」にいる女性には、配偶者特別控除、相続の寄与分制度に加えて、新たな優遇制度が作られた。
それが遺族年金の充実だ。遺族年金は国民年金や厚生年金の被保険者が亡くなった場合、その人によって生計を維持されていた遺族に支給されるものだ。
1985年の年金制度改革により、従来の国民年金法の母子年金や遺児年金を「遺族基礎年金」に統合。死亡した夫が厚生年金の被保険者であれば「遺族厚生年金」も支給されるなどの「遺族年金制度」を導入、これまでより手厚く、充実した保障が用意されることとなった。
同じ母子世帯でも、死別という夫を亡くした妻には手厚い保障を用意し、離別という家庭から飛び出した女性には、唯一の生命線である児童扶養手当を減額するという、この露骨過ぎる差別。平気で差別をする国で生きていることに、暗澹たる思いが拭えない。
藤原教授はこの分断策を強く非難する。
「すなわち、これら一見して女性を優遇しているかに見える社会政策は、妻としての女性とそうでない女性を分断し、女性の経済力の獲得を阻害し、女性の貧困問題を覆い隠すものであり、妻の座の優遇措置と母子世帯の生活困難は表裏一体である」(前掲論考)
正直、怒りなしで先に進めなくなっている。私たちシングルマザーの生活苦は作られたものなのだ。国によって生命線を脅かされるばかりか、顧みなくてもいい存在であると言われているに等しいわけだ。
だから、ここが貧困元年なのだ。藤原教授はこう結論づける。
「そして、女性にとっては、一方で雇用分野の男女平等を標榜しつつ、他方で家族責任の分断・性別分業の強化・非正規雇用の拡大の道を開き、妻の座の経済的優遇と母子世帯への給付削減を行った1985年こそ『貧困元年』である」(前掲論考)
国により強いられた貧困を、私たちシングルマザーは生きているのだ。