今年6月、東京五輪公式記録映画「東京2020オリンピック SIDE:A」と「SIDE:B」が公開された。両映画を見たコラムニストの河崎環さんは「コロナ禍で延期、無観客開催となり開閉会式もズタズタになった五輪の記録映画がこれでいいのか」と、複雑な思いを持ったという――。
東京五輪公式記録映画「東京2020オリンピック SIDE:A」の完成披露試写会であいさつする河瀬直美総監督=2022年5月23日、東京都港区
写真=時事通信フォト
東京五輪公式記録映画「東京2020オリンピック SIDE:A」の完成披露試写会であいさつする河瀬直美総監督=2022年5月23日、東京都港区

検索サジェスチョン「東京五輪映画 河瀬直美 無理」

「東京五輪映画」と検索窓に打ち込んだら、サジェスチョンに「東京五輪映画 河瀬直美 無理」と出た。

なんてことだ、と顔だけしかめっ面にしてみせるが、つい口元は笑って「ふっ」と声が出てしまう。

河瀬直美氏が総監督を務めた2020東京五輪の公式記録映画「東京2020オリンピック」の、アスリートを描いた「SIDE:A」が6月3日に、アスリート以外を描いた「SIDE:B」が6月24日に公開となった。確かに、両編を合計約4時間半きちんと見たご褒美的大フィナーレとなるはずの「SIDE:B」のラストで、河瀬監督渾身の少女のように切なげな鼻歌(本人作詞作曲)を聞かせられた観客はみな言葉にできない複雑な思いを抱えて帰宅し、世間の他の人たちと思いを共有せずには寝られずネットの検索窓に書き込みながら、ふと自分の気持ちを言い表す言葉を探し当てたのだろう。

「無理」と。

私はまさに「SIDE:A」、「SIDE:B」を同じ日に通しで見たクチである。カンヌに見つかりカンヌで育てられたカンヌの申し子、国内よりも欧米受けを意識した特殊なジャパエモさに定評のある河瀬直美監督の作品を褒めるタイプとは決して思えない人が「『SIDE:A』は正しく記録映画だった」とポジティブに評するのを聞いて俄然興味が湧き、慌てて見に行った。映画館を後にするとき、私の取材メモの最後の行には「これでいいのか」と少々乱暴に書き殴ってあった。

希望の数字だった「2020」

正直、昨夏の2020東京五輪は、私にとってトラウマレベルの事件だった。

2012年のロンドン五輪開会式を現地在住時代に生で見て感銘を受け、翌年に「お・も・て・な・し」が東京開催をもぎ取るのを見て快哉かいさいを叫んだ。日本への帰国後は英文政府広報誌のライターとしてクールジャパンや津々浦々のインバウンド観光の盛り上がり、雇用拡大に女性活躍を乗せて復興五輪へと向かう国内の機運を世界へ伝えてきた身としては、2020という数字は日本が何らか生まれ変わって新しい姿へ変容する予感を満々とたたえていた。2020は「日本はそこで本当のグローバル国家になれる価値観と経験を手に入れる」と、この歳でうぶにも信じてしまった、希望の数字だった。

だから武漢発のコロナウィルス感染拡大が世界に及び、東京五輪の延期が決まると、「ああ、思い描いた2020年は蒸発した」と喪失感があった。

無観客開催、政治でズタズタになった開閉会式

2021年に2020を開催するとの決定。明日のことを言えば鬼が笑う、で、「本当にできるのかねぇ」とまあ先のことなど何一つ見通せない人類社会未曾有の状況に、誰もが五輪開催だなんて話半分に聞いた。仕方がないのは重々承知だけれど、それはみんなが思い描いていたものと同じ姿には絶対ならない。

アスリートのコンディションを始め、全てが一時停止ではなくてむしろ後退。「お・も・て・な・し」産業の女性活躍なんてゼロどころかマイナスへ掘り進む状態。ある点に向かって一斉に集中力を高めていた全てのものが、ブツリという鈍い切断音と共にバラバラ離れ落ちていくようだった。

その頃、朝の情報番組に末席のコメンテーターとして呼ばれ始め、コロナだアベノマスクだ緊急事態宣言だ自粛だクラスターだとやっているうちに、嘘のような本当の「無観客開催」が決定し政治でズタズタになった開閉会式を見たショックは、昨年の当コラムで背中を丸めて泣きながら書いた。

2012年以来思い描いていた未来予想図からはかけ離れすぎて、近年の思い出の中では際立ってショックが大きかった。

「オリンピック、本当に要りますかね~? もう要らないんじゃないですか? ガハハ!」と言い放つのが一種お家芸となっていた、大物コメンテーターの剛毛の生えた心臓が羨ましかった。正直、ご覧の通り(ええご覧の通り)繊細な私としては、夏季も冬季も、オリンピックはあんまり思い出したくないのである。

スカイツリータワー
写真=iStock.com/Joel Papalini
※写真はイメージです

「期待」に綺麗に応えた記録映画

そんな、個人的にはあんまり思い出したくない、「2021に行われた2020の記録」を見に行ったわけであるが、なるほど「SIDE:A」はIOCのオーダーと「河瀬作品」への期待に綺麗に応えた内容で、公開前の批判的報道の結実なのか「映画も無観客」と皮肉られるほど観られていないのがかわいそうに思えるほどだった。河瀬が対象に選んだ女性アスリートや亡命アスリート、競技、彼らが立てた音、発した声、言葉の選択や表情や動作に現れる機微が高解像度で刻まれ、2021年の日本のあの夏があの夏の姿のままそこにあった。

日本に五輪がやってくるぞとなった時、最重要のナショナルイベントの記録映画は誰に撮らせるかとなった時、「その候補者の中に存在し得ていた」「しかも選ばれた」というのは、それだけで才能だ。

心を揺さぶる力はあったけれど

競争者しかいない世の中で、その時点での社会の上澄みにまで浮き上がって大きなチャンスや題材を与えられる立場には、お上手なだけや政治力があるだけやファンをたらしこむだけでは、なれるものじゃない。ましてそれがナショナルイベント(国家的行事)なら、なおさらだ。本人のアウトプットが、何だかんだ結局人の心を動かすものだから選ばれるのである。どう愛されようがどう憎まれようが、スターになる人というのは、スターになれない人とは明確に違う光がある。引き摺り下ろしてみせても、引き摺り下ろした者のまぶたの裏からこそ消えない光である。

だから河瀬は、いろいろ報道されたように、確かに自分の撮りたい画のためには傲慢で乱暴でイタい面がふんだんにあるのだろうが、ただとにかくずっと一貫して自分のエゴ(映画)に対して本気(マジ)なんだろう。そのマジなエゴは、「またお得意の木漏れ日ショットだな」「この人、やたら空を見上げるな」とこちらの底意地悪い視線にも負けず、やっぱり人の視線を留めて心を揺さぶるだけの力があるのだ、そんな感想を持った。

記録映画ですら消化不良

ただ「SIDE:B」は消化不良というか、五輪の裏面の色々な事件事象を語るには監督本人の政治的理解の不足、「視線の力」不足を感じた。目の前の山盛りの材料を料理しきれない感じだ。

なんかインタビューの合間に「んふーん、うぅん」とアンアン言ってる声が聞こえるなと思ったら、取材側の合いの手、取材者河瀬の声なのである。「SIDE:B」にだけ顕著に挟まれる監督本人の存在に「それ要るかな」と思い、またその声がいつも甘えささやくもだえ声のようでなおさら「それ要るかな」と思う。

材料の山に一つひとつ取り掛かるが、あるところで臨界点を超えてしまい、カオス(混沌)の海へとダイブする。「色々あったけれど要は復興五輪で鎮魂が最大テーマだから」と終盤ひたすら祈りを捧げ、太陽に照らされる子どもたちの無垢むくな笑顔、光で半分白飛びしたような姿を何度も重ねてイメージで丸め、最後に自作自演の鼻歌「Whisper of Time」を聞かせてくれる。

あの夏は、公式の記録映画ですら消化不良なのだ。そりゃあ私たちだって、まだ噛み砕いて飲み下せるわけがない。