※本稿は、辻秀一『自己肯定感ハラスメント』(フォレスト出版)の一部を再編集したものです。
「褒める」は、人をダメにする
「褒めて子どもを伸ばそう」という発想が蔓延しています。
「褒める」のは、結果に依存しがちですし、さらには、褒められる他者への依存にもつながります。「○○さんに褒めてもらうために、結果を出さないといけない」というような考えです。
それが、親や保護者になると、子どもはますますその考えの基に人格を形成していくことになるでしょう。それこそが親子でつくり出す自己肯定感呪縛ファミリーになります。
「褒める」は、実は人をダメにしていく認知的なアプローチです。怒りで人を動かすのも、褒めて人を動かすのも、相手を自分に依存させていくやり方です。あの人に怒られないように顔色をうかがい、あの人に褒めてもらうために頑張るという呪縛の構造です。自分らしく伸び伸びと、そしてイキイキと生きていくことにはなりません。
子どもに積極的に行いたい“最強の声かけ”
子どもや相手の自己存在感を育むすばらしい声かけは、感謝の言葉です。その人がどんな思考で、どんな感情で、そして、どんな行動でどんな結果であっても、まず「ありがとう」と言われている子どもは、間違いなく自己存在感を感じて育っていきます。もちろん、行動になるほど正誤も伴いますので、そこに指示の要素はありますが、行動にも「ありがとう」があれば、さらに自己存在感は磨かれるでしょう。
どんな結果でも、一生懸命やったり、目的を持って臨んでいたのであれば、それにも「ありがとう」の声掛け1つで、自己の存在につながります。結果はもちろん、OKなときもダメなときも、達成のときもダメなときもあります。しかし、それにかかわる自分自身の存在そのものや自分ができることに感謝されていれば、自分の存在を感じ、それをまた、自身の努力で全力を尽くそうとします。
それが、自己存在感に基づく内発的な生きる力です。存在そのものにありがとうの声かけが、自己存在感を大きく育てるのです。
「褒める」と「感謝」の決定的な違い
「ありがとう」も他者から来る言葉かけですが、「褒める」と「感謝」は何が違うのかというと、褒めるには評価が、感謝には無条件の愛があるので、受け手の感じ方が違うのです。感謝を通じて無条件の愛を受けていることが、自己存在感の源泉になります。
誰もが次第に認知の世界に誘われ、結果や評価による自己肯定感に呪縛されていきます。だからこそ、子ども時代に可能な限り、保護者や親から自己存在感の芽となる感謝や愛を感じておくことが重要です。
何よりも、「生まれてきてくれてありがとう」「今ここにいてくれてありがとう」には、評価などなく、自分の存在そのものへの価値を感じていくのです。それこそが、代えがたい体感・体験となって自己存在感が育まれると言えるでしょう。
子どもが疲弊する「親の○○思考」
無条件の愛につながる発想こそが「応援」です。応援は見返りのないエネルギーです。一方で、愛と勘違いして「期待」を振り回すことがしばしば生じています。期待とは、勝手な結果という枠組みに当てはめて、それを愛だと勘違いしている思考です。「期待している」と言われて育つ子どもは、親の思考の枠組みで育ち、結果を出すことでその期待に応えようとします。期待されているほうもプレッシャーだし、期待しているほうも勝手な枠組みどおりにいかないと、怒りの原因にもなりかねない思考です。
期待思考で育てば、当然のごとく自己肯定感への執着が生まれ、常に苦しくストレスフルな人生を歩むことになるでしょう。応援思考は、結果に関係なくエネルギーを与えられているので、それだけで自己存在感を子どもは感じます。
親の目が期待なのか、応援なのか。それは、子ども自身が感じ取っていく世界なので、親が応援のつもりだと言っても、子どもが期待と受け取っていたら、自己存在感は育まれないでしょう。それは、上司部下の関係でも、コーチ選手の関係でも、同じです。
自分らしく伸び伸びと生き抜いていくには、今のような自己肯定感至上主義の発想から脱却しなければ、それは実現不可能です。視点を変えて、認知的な思考、認知的な声かけに慣れきってしまった私たち自らが、自分、心、質といったものへの非認知的思考を新たに習慣として身に付けていかなければ、豊かな社会は永遠にやってきません。
難しく感じるかもしれませんが、慣れていないだけであって、非認知的思考は、誰にでもできるものです。認知的思考の世界は、実は単なる進化した動物の社会であって、真の人間としての世界は非認知的思考を有した文化的社会と言えるでしょう。そんな世界にいなければ、人は疲弊して人間らしさを失っても当然なのです。