イスラエルの社会学者、オルナ・ドーナトさんは、親になる願望を持たない人について研究してきた。ドーナトさんは「すべての女性が母になることを希望し、自分で選んで母になるとされているが、実際はそうではなく、社会が女性にそうした圧力をかけているのだ」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)の一部を再編集したものです。

息子と手をつないで歩く両親の影
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母になることを「義務付けられる」

すべての女性は出産すべきであるという社会的前提は、一部には、女性とその肉体との間の緊密で基本的な相関関係に端を発している。

女性が、自然界の要素と同一視されるのは、妊娠・出産と母乳育児という動物的と見なされる能力を持つためだ。したがって、私たちの体は、妊娠できるかどうかによって評価される。つまり出産能力こそが、私たちの生命の本質であり、そのことが存在を正当化すると考えられるのだ。

女性は「すべての生命の母」と認識され、生命の泉であり、人間の生存意欲に深い関わりを持つとされる。女性に対するこの評価基準は、女性を自然界の網に閉じ込めている。というのも、この問答無用の仮定によって、解剖学的に生殖できる可能性があるというだけで、女性は母になることを義務付けられているからだ。

私たちは他の選択肢を与えない宿命論者の指図によって、支配され、受け身にならざるを得ない。言い換えれば、さまざまなフェミニスト作家が指摘するように、歴史的および文化的概念が、生物的な性に従った選択の欠如という錯覚のもとに、女性を罠にかけようとする。社会は「自然界の言語」を使って私たちに妊娠して出産するように説得するのだ──ときには、それが生物学的な制約と言えるほどまでに。

すべての女性は「母になることを希望している」のか

同時に、もうひとつの対照的な仮定が存在する。それは、すべての女性が母になることを希望し、したがって自由な選択によって母になるというものだ。この仮定のもとで、女性は積極的に、賢明に、合理的に、解放された自由意志をもって、母への道を目指す。「泣き言はやめなさい! 自分で選んだ道なのよ──向き合いなさい!」とは、辛さを相談した母親がよく耳にする言葉だ。

すべての女性が自然の流れの結果として母になるという考えの根底にあるのは、遺伝子決定論(遺伝子が身体的、行動的形質を決定するという理論)という古めかしい用語である。

すべての女性が内なる意志の結果として母になるという考えは、近代性、資本主義、新自由主義政治からの影響も受けて形成された。そのなかで、自身の肉体や意思決定や運命を所有する権利があることが、女性の間で次第に認識されてきたのだ。

母になるメリット

現代では、より多くの女性が教育や有給の仕事を得ることができ、恋愛関係を築くかどうかや、恋愛対象を誰にするかを決める能力が高まっているため、女性は、自分のライフストーリーを紡ぐことができる個人と見なされることが多くなっている──まるで私たちが自立した立場で、賢い消費者のように多数の選択肢から自由に選んでいるかのように。

そんな空気のなかで、私たちは、母になることが完全に女性の望みであり、女性がそう望むのは、自分の肉体や人格や全人生を、以前よりも好ましい新たな方法で体験したいからなのだと推測する。次に挙げるのは、母になるメリットとして、社会が女性に約束していることの一部である。

・母になることで、正当化された価値ある存在へと導かれ、必要性と生命力が確証された立場になれる。
・母になることは、あらゆる意味でその人が女性であることを本人に確信させ、世界に知らしめる──生命を創造することによって自然界に借りを返すだけではなく、生命を保護し育成する道徳的な人物として。
・母になることは、自分の母と祖母、太古の昔に出産した女性たちへと、世代の連鎖をつなげる。脈々と続いてきた伝統に対する忠誠心を物理的に具現化し、今度はそれを将来の世代に伝える立場になることができる。
・母になると、何かを所有する権利が認められ、これまで文化によって否認されていた特権を取り戻すことができる。世界の支配力に服従するだけではなく、子どもに対する権限を持つようになる。
・母になると、実家を離れて自分の家族を築くことになるため、女性として成熟する方向へと切り替わる。忘れていた子ども時代を思い出して、自分だけの遊び場のように、そのなかを思い切り駆け回ることができるようになる。
・母になると、パートナー(もしいれば)と、子どもを通じて親密な同盟関係を結ぶことができる。
・母になると、何かに献身し、苦しみに耐え、要求を満たし、見返りを期待することなく利他的な優しさを示すことができるようになる。そのことが孤独を取り除き、自尊心と充足感、無条件の愛、進化するための居場所を与えてくれる。
・新しい家族を形成するなかで、母になることが、過去の怠慢、貧困、人種差別、嘲笑、孤独、暴力の記憶を破り捨てることを可能にし、以前の現実を置き去りにすることによって、新しい避難所が与えられる。
・母になることを通じて、より良い未来についての無限の可能性を想像することができる。加齢や継続性が尊重され、目的のない現在からの脱出が保証されるからである。
シンプルな子供部屋
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出産しない女性は「利己的」「子どもっぽい」「冷酷で無情」

青年期と成人期の女性に、ほぼ毎日与えられる社会的な約束がいくつかある。

これらの約束は、裏を返すと、母ではない人々に対する決定的な裁定である。妊娠・出産できない女性は、本来与えられたはずの有利な能力を使わなかったとされ、欠陥や損傷があると見なされがちなのだ。母になりたいが状況的な制限を受けている(独身、パートナーが親になることを望まない、経済的な事情、身体的または精神的障害がある)女性もまた、否定的なステレオタイプにさらされる可能性がある。

さらに、イスラエルなど多産な国の多くでは、妊娠・出産を望まない女性と育児を望まない女性は、哀れみや疑念の目を向けられやすく、利己的、快楽主義的、子どもっぽい、不名誉、健常ではない、危険、正気が疑わしい、といった印象を持たれがちである。母になりたくない女性への標準的な反応の一例を以下に挙げる。

「〔彼女たちは〕ナルシシストで、自分の自由時間だけを考える女性だ。欠陥のある魂の治療法を見つけるためにセラピーに行きなさい」
「夜遊びの時期はすぐに終わる。帰りを待つ子どもたちの笑顔の代わりに、目の前にパソコン画面がある生活が待っている。未来の幸運を祈る」
「あなたは女性でしょう。子どもが絶対に必要です!」
「冷酷で無情な人ですね」
「でも、あなただって子どもだった頃があったでしょう?」
「精神科の診療を受けなさい‼」

これらのメッセージは、決定的な裁定だけでなく、運命の予言についても述べている。それは、母になることを進んで放棄する女性は、空虚で退屈で孤独な、後悔に満ち、意義と実体が欠如した苦しい人生を自らに課してしまうということだ。

この観点からすると、健康で正気であるとされ、今や自分の人生を自由に選択できるようになった女性が、母にならないと決定することはとんでもないことのように思われる。それどころか、進歩し満たされるためには、非母(ノンマザー)の人生から前進する義務があり(自然の摂理として)、その意思がある(選択の自由として)と考えられているのだ。

それでも、フェミニスト作家たち、たとえばアンジェラ・マクロビー、ロザリンド・ギル、リッキー・ソリンジャー、キネレット・ラハドは、この選択の幻想を暴いてきた。これらの作家によると、「自由な選択」は自由、自律、民主主義、個人的責任の原則を想起させるものの、最終的には幻想なのである。というのも、不平等、強迫、イデオロギー、社会統制、権力関係が無視されているからである。

「自由な選択」に影響を与えるもの

私たちは、不幸や悲劇を含め、自分の人生の筋書きの唯一の著者であるかのように、個人的な物語を自身の選択の産物だと解釈すべきだと告げられている。これにより、私たちの生活と下す決定が、文化的規範や道徳や差別や強力な社会的勢力によって大きく影響されるという事実が、見えにくくなっているのである。

妊娠して母になることに関しては、すべてを包括する選択というレトリックに疑問を投げかけることが重要である。自由に選べるのが社会が女性たちに望む選択だけだとしたら、実際にはどれだけの策を講じる余地があるだろうか?

女性が社会の意志とそれが私たちに与える優先順位と役割に従って決定を下す限り──たとえば、異性愛者と愛のある関係を続ける、善意ある献身的な母である限り──私たちは、自由で独立した自律的な個人という社会的地位を獲得し、欲求を満たすための制限のない能力を手に入れることができるのだ。

しかし、私たちの選択が社会の期待と衝突するとき、たとえば美容に手をかけることや、子どもを持つこと、男性との(概ね)愛のあるパートナーシップを維持することを拒否した場合に、問題にぶつかる。行動を非難されるだけでなく、孤立して社会的地位を失う結果に直面するのだ。なぜなら、「それはあなたの選択ですよね!」(「悪い選択」と付け加える人もいるだろう)と、いうわけだから。

私たちは「正しい選択」を期待されている

このように、現代では以前よりも母になるか否かを決めることができる女性が増えているものの、全員とは言わないまでも大半が「正しい選択」をすることを期待されている。それは常に子どもを産むことであり、常に「正しい」人数が期待されているのである。

しかし、英国の経済学者スーザン・ヒメルワイトは、私たち女性が、子どもを産むことについて──特定の人数の子どもを持ちたいか、母になること自体に関心を持たないかについて──の決定を下す状況の「選択」を必ずしも持っているわけではないと主張している。

現実には、私たちの多くは、今でも多くの社会的制約のもとで、子どもを持っている──または持っていない──のである。抑圧された民族や階級(またはその両方)の女性はしばしば、避妊について誤った情報を与えられたり、避妊へのアクセスが制限されたりし、自身の決定を下す資格がないと見なされる。レイプの結果として、妊娠し、出産し、子どもを育てる女性もいる。また、他からの圧力や、必ずしも自分自身のものではない決定のために妊娠を中絶する(または継続する)女性もいる。精神的または身体的に障害のある女性に、出産や母になることを思いとどまらせるというケースは非常に多く、貧しい女性は、大家族を計画する権利を奪われることがしばしばだ。

「国のために子宮を捧げよ」

それに加えて、世界中の女性が、「国に利益をもたらすために子宮を捧げよ」というメッセージからの攻撃に依然としてさらされている。

そのひとつの例がオーストラリアである。2004年、財務大臣(当時)のピーター・コステロは、少子化と年金費用の増加を理由に、オーストラリアの女性に国のためにもっと多くの子どもを産むようにと呼びかけた。「『1人は母のために、1人は父のために、そして1人は国のために』。〔彼は〕『家に帰って、愛国的な義務を今夜果たすように』と指示したのだ」。

女性が子どもを産む(またはさらに数を増やす)ことへの奨励は、国家による出生率政策とインセンティブによって、さらには子どもを持たないという決定が権威者によって踏みにじられていることによって支持されている。たとえば2015年に教皇フランシスコは、これに利己的な選択だという裁定を下した。

子どもが欲しくないという発言はタブー

女性が子どもを産むか否か、いつどのように出産するかを「選択」するにあたり、この種の条件付きの自由が存在することは、多くの母親の証言からも明らかである。たとえばイスラエルの有名なモデル兼女優は、このように述べている。

オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)
オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)

「私はプレッシャーをかけられています……3人目を産むようにと!……あらゆる人が私に言います。イスラエルでの〔ユダヤ人とパレスチナ人の〕紛争のため、安息日(シャバット)の夕食には少なくとも3人の子どもが必要であると」

また、あるドイツ人のブロガーは、こう発信している。

「2015年になっても子どもを欲しがることを期待されている女性として……女性と母にまつわる社会構造は深く根付いているため、多くの女性がいつかの時点でこのプレッシャーに(無意識に)屈服して子どもを産む……子どもが欲しくないという発言はタブーだ。私はほぼ毎日このタブーに直面している(なぜなら体内時計が刻々と過ぎている年齢だから)。あらゆる方面から尋ねられる。友人も同僚もかかりつけの医者も──誰もが私に、いつなの、どうするの、どうしてまだなの(!!!)と質問するのだ」。

要するに、子どもは必ずしも「自然の摂理」や「選択の自由」によって生まれるとは限らない。時には、私たちがそれ以外の道を持たない/見つけられないという理由で生まれてくるのである。

「母になることが唯一の道」

アメリカのフェミニスト哲学者ダイアナ・ティージェンス・マイヤーズは、これを想像力の植民地化と呼んでいる。それにより、私たちは母になることが唯一の道であるという概念を吸収し、他の利用可能な選択肢を想像できなくなり、想像できる唯一の決定が「純粋な空間」からやって来たような印象を持つのである。

この植民地化は、女性が母になるまでにはさまざまな経路があることが多くの場合隠されていることからも起こる。これは、母になることは本能的な欲求だという名目で語られる「自然界の言語」と「選択のレトリック」を維持するための隠蔽である。

すべての道が子どもを産みたいという願望から始まるわけではないし、少なくとも願望が明白なわけではない。たとえば、私の研究に参加した母の一部は、あまり考えずに、流れにまかせて妊娠したと話していた。数名が、自分の社会集団に溶け込みたいなど、子どもが欲しいという以外の理由で母になりたかったと説明した。また、妊娠する前に(時には自分が子どもの頃から)子どもを産みたくないとわかっていたが、明確な、または内在的な圧力のために母になったという人も複数いた。