なぜ、私たちは叱ることをやめられなくなってしまうのでしょうか。臨床心理士の村中直人さんは「『叱る』には依存性があります。叱った相手が『ごめんなさい! もうしません‼』と言う姿を見て自己効力感というご褒美が得られるからです」といいます――。(第2回/全3回)

※本稿は、村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)の一部を再編集したものです。

居間で母親に叱られた子ども
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叱らずにいられなくなる人たち

決して少なくない数の人たちが、叱ることを自分の意志ではとめられなくなっています。ですが、「やめられなくなっている」と意識できている人はあまり多くないかもしれません。

叱る人はたいていの場合「叱られる側に問題がある」「(叱られる)人のためにしている」と考えるからです。本人は「やめようと思ったらいつでもやめられる。そもそも必要があるから叱っているだけ」、そう思っている場合が多いでしょう。でも実際には、やめられなくなってしまっているのです。

「叱る」という行為には依存性があるのではないかと、私は考えています。しかもそれは、ある限られた「問題のある人」「特殊な人」だけの問題ではありません。どんな人でも環境さえ整えば、〈叱る依存〉の落とし穴にはまってしまう可能性が十分にあるのです。これはこの社会における大きな課題のはずなのですが、今まであまり注目されてこなかったように思います。

そう考えると、「叱る」にまつわる最大の問題は、「叱ることがやめられなくなる」ことです。

なぜやめられなくなってしまうのか

「叱る」という方法が効果的な、危機介入を要する場面は確かに存在しています。また、抑止力として「叱る」を用いることが必要な場合もあるかと思います。現実問題として、まったく叱らずに人を育てたり指導したりすることは困難です。

しかしながら、効果と限界をわかった上で限定的に「叱る」という手段を用いることと、叱らずにいられない状態になってしまうことは、明らかに異なる現象だと考える必要があります。お酒を飲むことと、お酒を飲まずにいられなくなることが違うのと同じです。

私たちが「叱る」という行為とうまくつきあっていくためには、「叱る」が持つ依存性を正しく認識し、適切に予防する発想が必要なのです。ここからは、なぜ叱ることがやめられなくなってしまうのか、そのメカニズムについて考えていきます。

なぜ、人は「叱る」がやめられなくなるのでしょうか?

一つ、とてもシンプルな理由が考えられます。それは「叱る」ことがその人にとっての「報酬」につながる、ということです。つまり人は誰かを叱ることで気持ちよくなったり、充足感を得たりしてしまうのです。

叱ると気持ちよくなってしまう

「叱る」という行動は多くの場合、叱られた人の回避行動を引き出します。もっと簡単に言うなら、「苦痛から逃げよう」とする行動です。

具体的には、申し訳なさそうな顔をして「ごめんなさい! もうしません‼」と謝ったり、「わかりました! すぐやります‼」と返事をしてすぐに行動することです。そうすることで「反省しているみたいだし、今回は大目に見ます」とか、「まあ、しかたないね。次から気をつけなさい」などと言って、叱ることをやめてくれる可能性が高くなるからです。

これらのことを「叱る人」の視点で考えてみましょう。

叱る人から見ると、自分の行動が、相手の望ましい行動を生み出していると感じる体験です。そのため、この状況は叱る側に強い充足感を与えます。

「叱る」に限らず、「自分の行為には影響力がある」「自分が行動することで、何かよいことが起きる」といった感覚は、人間にとってとても心地よいことで、次の新たな行動のモチベーションになるからです。叱る人にとっては「正しい行動」「あるべき姿」が即座に目の前に現れているのです。そのため、相手の行動が単なる回避行動でしかないことに叱る人が気づくのは、とても難しいでしょう。心理学の言葉で、自己効力感とも呼ばれるこの感情が、叱る人が受け取るごほうびの一つです。

「処罰感情の充足」というごほうび

さらに、人を「叱る」に駆り立てる強い報酬があります。

それは処罰感情の充足です。処罰行動は脳内の報酬系回路を活性化させる、という研究結果があります。そしてそれはきっと「罰」を与えるときだけではありません。同じようにネガティブ感情を用いる「叱る」でも同様のことが起こる可能性が極めて高いでしょう。つまり、「相手が悪い」と思っているかぎり、人は「もっと叱りたい」という欲求を感じるようになるのです。

叱る側は、「叱られる人」に何か問題があると思うから叱るのです。多くの場合で「叱られて当然の理由がある」「叱られるようなことをしたから叱っている」と思っているでしょう。つまり「叱る」には、処罰感情の充足というごほうびが常について回るのです。このことは「叱る」とうまくつきあっていくために、絶対に知っておかなくてはいけない知識です。

息子を叱る母親
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「勧善懲悪」が好まれるのと同じメカニズム

処罰感情の充足による快感が人の行動に与える影響は決して小さなものではありません。いつの時代も、勧善懲悪の物語は人気のエンターテインメントとして親しまれてきました。そうした物語では、悪人は明確に悪人らしく描かれ、聴衆の「罰を与えられて当然だ」という気持ちを駆り立てます。そして物語の最後に、悪人に罰が与えられ懲らしめられる流れになって一件落着するのが定番となっています。

こういった勧善懲悪のお話はまさに、処罰感情の充足が人に与える快感をうまく活用したエンターテインメントだと言えるでしょう。かつて古代ローマでは、犯罪者が処刑されたり猛獣と戦ったりする姿を見ることが、市民の娯楽であったといわれています。その人気は絶大で、そのために大きな観覧施設(コロッセオ)まで建設されたことは有名です。残酷さの程度こそ違いますが、起こっていることのメカニズムは勧善懲悪の物語が好まれるのと基本的に同じです。つまり、何かのきっかけで現代版のコロッセオが生み出されたとしても、なんら不思議はないのです。

行動が無意識レベルで変化する

人間も含め動物には、行動の直後になんらかの「報酬」が与えられると、その後その行動の頻度が高くなるというメカニズムが備わっています(このことを専門用語で「強化学習」といいます)。つまり、人は行動にごほうびが結びつくことで、その行動をもっと頻繁にするように学習していくのです。

このメカニズムによる行動の変化は、単純なようで実は人間の行動パターンに無視できない大きな影響力を持っています。そう言われてもピンとこない人もいるでしょう。「私はごほうびなんかに簡単に左右されない」と思われるかもしれません。ですが、そうではないのです。このメカニズムは、多くの場合、本人も気づかない無意識レベルで行動を変化させています。

「叱る」は長期化、慢性化、日常化する

例えば会話をしているときに、聞き手のうなずきの頻度を変化させることで話し手の発言量をコントロールできることが知られています。発言に対して頻繁にうなずくと話し手の発言量が増え、逆にうなずきをなくすと発言量が減る傾向があるのです。この場合、聞き手のうなずきは話し手にとっての「ごほうび」の役割を果たしていると考えられます。

村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)
村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)

興味深いことに、話し手は自分の発言量が相手のうなずきの量に影響を受けていることに、ほとんどの場合まったく気づきません。ですが、発言量を測定すると明確な影響がみられるのです。行動の直後に起こることが、その人のその後の行動に与える影響が決して小さくないことがわかるかと思います。

「叱る」に話を戻しましょう。人が誰かを「叱る」と、多くの場合そこに「自己効力感」や「処罰感情の充足」と呼ばれるようなごほうびがついてきます。そうなると人は、無意識のうちにどんどん叱る行動を増やしてしまうのです。

「叱る」ことがある種の快感につながるということは、本来的な目的が達成されていない状況が続いていたとしても、ずっと叱り続けてしまう悪循環におちいりやすいことを意味しています。

例えば「子どもが自発的に部屋を片付ける」という未来を望んでいる親がいるとしましょう。どれだけ叱っても、まったく子どもの学びを促進しておらず、何も問題が解決できていない状況が続いています。叱った直後だけ子どもは片付けをしぶしぶ行い、いつまでたっても自発的に片付けようとはしません。そんな中でも、何度も繰り返し叱る状態が続くことになるのです。そしてその結果、「叱る」が長期化し、慢性化し、日常化してしまいます。