※本稿は、林純次『学校では学力が伸びない本当の理由』(光文社新書)を一部再編集したものです。
習得すべき3つの学力の要素
まず、現在の日本の学校における「勉強ができる」という表現をしたときの勉強内容を考えておきたい。
2008年に改訂された学習指導要領では、小中高いずれの校種においても「生きる力」が強調され、知・徳・体のなかで「知」については「基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する」(小学校)ものと具体化された。
これは、前年の2007年に改正された学校教育法(30条)に示された習得すべき三つの学力の要素を踏まえたものである。
・これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力
・主体的に学習に取り組む態度
暗記一辺倒の受験を改善し、若い世代が力強く社会を生き抜いていって欲しいとの願いがこのような言葉になったのであろう。
認知力と暗記力を身に付ける段階
では、前半部分から見ていこう。「基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用」とある。これが可能になるためにはいかなる力を身に付けておく必要があるだろうか。私の答えは認知力と暗記力である。まず、自分以外の場所に存在する情報を認知できるか否か。有り体に言えば、文字が読めるか、音が聞き取れるか、といったレベルの力である。
教員は特別なトレーニングを受けた者以外、この能力の向上を十分に達成させられない。なぜなら、認知能力に欠陥がある児童・生徒の向上方法など教職課程で学ばないからだ。また教職に就いた後もこの分野の学習ができる機会は多くない。
例えば、文章を読んでいて次の行に移った途端、どこを読んでいたかわからなくなる生徒や、口頭で指示した内容をほとんど記憶できない生徒、緘黙傾向があってスピーキングが全くできない生徒や、黒板・ホワイトボードに書いた文字をノートに書き写せない生徒などを担当したとき、自分が指導者として何ができるか考えてみて欲しい。
我々のやれることは、課題を細分化し、できる限りその生徒のペースに合わせてマンツーマンに近い状態で向き合うことくらいしか打開策がないというのが本音だろう。
上位40%の生徒は時間を持て余している
私は重度知的障害や知的障害、盲聾の児童生徒のことを言っているのではない。普通学級に座っている生徒のなかに10%前後、このような特性のある生徒がいるのである。この生徒らを落ちこぼれにしないよう奮闘しているのが、小中学校教師の主たる教科指導業務となっているのが現状で、そのレベルの子から平均的なレベルの子にターゲティングして授業が作られていることが多いように感じる。
つまり、上位40%程度の児童・生徒はこの時点で、時間を持て余していると言えよう。もちろん、優秀な生徒を「ミニ先生」として指導役や丸付け係として使うなどの工夫をしている先生方もいるのだが、できる子ほど、得られるはずの利益が薄くなっているのが実情だろう。「教えられること」が本当の理解だとか「協調性が身に付く」といった体のいい言い訳をしても、できる子が支払っている学費や平等なサービスの享受という観点からは、不平等な状況と言わざるを得ない。
前回の授業内容をすっかり忘れてしまう子たち
次に彼らに対して、文字や記号の意味、計算操作の方法を覚えてもらう段階に入っていく。暗記力の弱い生徒はここで躓く。前回の授業で取り上げたこともすっかり忘れている。また前回と似たような説明を繰り返し、少し先に進んで授業時間が終わるといった光景もよく目にした。
一方、成績優秀な生徒の集まる学校や塾ではこのようなことは起こり難い。前回の授業でやったことを忘れていたとしたら、忘れた者が悪いのである。また、カリキュラムの進度計画もきっちりしているので、停滞することはできないのだ。
他方、進度の速い学校はどうか。関西の名門・灘中学校では中学3年生終了時には高校3年生の範囲まで終わっている科目があると聞く。ここまで速くなくとも、一流進学校では、大抵、高校2年生までに高校3年生の範囲が終わっているものだ。大多数の一般的な学校との差は永遠に埋まりそうもない。
文科省の目標は現場とかけ離れすぎている
このような状況を把握していながら、文部科学省は、「自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する」ことまでを目標とする。理想はわかる。皆がそうなれば夢のような国ができあがるだろう。だが、大多数の児童・生徒はそのレベルにない。同省の目標は灘やそれ相応のレベルの生徒に適合するものではなかろうか。
つまり、“勉強”を定義しようとしたとき、いきなり困難な状況が発生しているのだ。同じクラス内に、認知できるようになることを目指す子と、暗記できるようになることを目指す子と、考え判断できるようになることを目指す子がいるのである。それぞれが無駄なく効果的な学習ができるとは考え難い。
元来、知識の効率的な吸収や学力の向上は、学習者が一人で、かつ最適な方法によって達成されるものだろう。自分と大きく乖離した知能・知識量を持つクラスメイトと相乗効果を生み出すのは至難である。
暗記力は向上させられるか
さらに細分化して、暗記力は向上させられるのか、という点について述べていきたい。
結論から言えば、現段階では難しい、となろう。米国などでは暗記力を含めたIQ向上の取り組みなどが始まっているようだが、日本では未着手と言っていい。米国でも信頼に足る数的結果は出ていないという。
私はこの仕事をするにあたって、暗記術の論考や実践事例をいくつも読んだ。そのなかで、最も的確だと感じたものを参考に論を進めよう。
岩手大学の塚野弘明は暗記力について、認知心理学の観点から次のように分析している。
①人間の記憶容量には極めて強い制約があり、これ自体は訓練によって増加することはない。つまり、人間は基本的に記憶が苦手である。
②無意味情報の記憶には記憶術が有効であり、訓練することによって記憶容量を増加させることができる。しかし、訓練にはかなりの努力が必要であり、実際には限られた情報の記憶にしか用いられていない。しかも有意味情報の場合には記憶術は効果的ではない。
③有意味情報の記憶の場合、記憶しようとするより理解しようとする方が覚えられる。
④日常生活では、意図して記憶しようとするよりは、外部記憶メディアを効果的に使用することで、できるだけ記憶しなくても済む工夫を行っている。
こうした結果から考えると、「暗記力」とは、何か特別な方法を用いて増加させられるものではないように思えてくる。むしろ、極めてオーソドックスではあるが、繰り返すこと(リハーサル)によって、時間をかけて機械的に覚えるということではないだろうか(rote memory)。ということは、「暗記力」の差というのも、どれだけ時間をかけ努力をして覚えようとしたかの差ということになる(※1)。
記憶力の良い子は元々いいし、悪い子は元々悪い
塚野のこの指摘はかなり的を射たものと言えるのではないか。私自身、指導した生徒たちや講師として指導した聴講生合わせて約5000人を思い出してみても、記憶力の良い子は元々いいし、悪い子は元々悪いという感覚が強い。
特に高校生は、学校やコースが偏差値で分かれているため、その傾向が如実に表れる。自分に適した記憶術をマスターすることで最適な暗記をすることはできるが、元々記憶力に優れた生徒も自分に最適な暗記トレーニングをしていくので、差は簡単に縮まらない。
具体的には、前回やった指導内容を忘れてしまう、再度繰り返しても夜になると一人では回答できない、といった子が、偏差値40を下回る学校では多数派として存在している。
全員に高校物理を教える必要はあるのか
信頼できる教育レベルと物理学の博士号を持った物理教師はこう嘆く。
「高校でやる物理はあまりに理論寄りですし、物理に興味がなく、能力的に高くない生徒に対して、必修科目である物理基礎を学ばせることが正しいことなのかすら疑問です。定理を教えても、その定理が生まれた背景に感動することも、知りたい気持ちもありませんし、簡単な公式の暗記も難しいですから。彼らのレベルであれば、生活に即した中学校理科を楽しく学ぶところまでで十分だと思います。正直、強引に物理を覚えさせることはかわいそうに思えてなりません」
高校生段階になっても、小学校に配当されている漢字や分数・小数の計算がままならない生徒は大勢いる。覚えられないのだ。
一方、東大京大・医学部医学科を狙うレベルの子だと繰り返しの時間など必要ないから早く先に進んでくれ、という知的好奇心を見せてくることも多い。無論、前回の授業の内容などほぼ完璧に暗記できている。
悲しい話だが、こちらがよかれと思って挟み込む雑談すら、前者の子たちはすぐに忘れてしまうし、後者の子は同窓会のその日まで覚えていたりする。
それぞれの学力の向上を目指す勉強を用意する
これは努力の有無の差ではないと理解する方がよいのではなかろうか。と言うのも、彼らは自分の暗記力のなさ、彼ら自身の言う「馬鹿さ」を努力不足と連関して捉える可能性があるからだ。彼らが努力をしなかったからできないわけではないし、後に東大などに進学する人々が小学生段階の暗記で多大な努力をしたり、暗記術を習得したからできるようになったわけでもないだろう。
まず、暗記力にも一定の才能があることを前提として、それぞれの学力の向上を目指す勉強を用意してあげる方が、その個人にとっても、社会にとっても、一教室にとっても利益に繋がるのではないかと思ってしまう。
我慢強さもゲノムの影響が強い
また、暗記力以外の重い要素である「我慢強さ」もゲノム(遺伝子情報)の影響が強い。
京都大学のビッグデータ医科学分野の西垣昌和特定教授は、その影響を次のように指摘している。少し長いが重要な提言なので、引用させていただく。
ゲノムがもたらす多様性(variation)は、社会学的な多様性(diversity)とは異なり、生物としての「形質」の違いを意味する。形質とは、肌の色、髪の毛の性状、身長の高低、といったような人間の特徴そのものであり、その中には、「疾患Aへのかかりやすさ」「症状Bのおこしやすさ」といったような疾患・症状に関する形質や、「薬剤Cの効きやすさ」「副作用Dのおこりやすさ」といった薬剤応答性に関する形質も存在する。
すなわち、ゲノムは、人体に生じる様々な現象の内的要因であることはもちろん、外的要因への反応の多様性に関連している。臨床においては、「同じ手術でも疼痛の訴えが多い人とそうでない人がいる」「Aさんは温罨法が、Bさんは冷罨法がより安楽だという」といったような、個人による反応の差異を経験する。このような個人差は、「個別性」として一括りにされがちで、場合によっては「我慢強さ」や「好み」といった曖昧な言葉で片づけられることがなかっただろうか。
もし、これらの反応の個人差に、ゲノムが関わっているとしたらどうだろう。ゲノム情報をもとに、その人の反応を予測できれば、その人に適した医療・看護を、問題が生じる前に提供できる。それこそが、ヒトゲノム計画により現実のものとなってきたPrecision Medicine(精密医療)である(※2)。
根性論に基づいた指導は減らすべきではないか
もし、西垣教授の見立てが正しいのであれば、我々教師や保護者が「あの子は我慢強い」と粗雑な評価を下していたものが、ゲノムによって関連付けられた反応だということになり、根性論に基づいた指導というものを減らすべきとの結論にならないだろうか。
もちろん、社会性を身に付けるためのマナーや基礎基本の学習のための指導は必要であろうし、子供の側の我慢も必要であろう。ただ、生まれつき我慢強く待てたり努力できたりする子と、そうではない子がいると認識することから始め、担当する生徒がどのような性向を持っているかを見極めなければ、教育がただの恐怖政治に堕するというのは言い過ぎだろうか。
こうした考察もせず、ただ怒鳴り散らす教員を多く目にしてきた私としては、こういう思いが強い。特に現場にいると、学校型の努力や我慢ができない子供を持つ保護者のなかに、真摯に自分を責める方に会うのだが、その度にこう思う。
家庭の中まで見たわけではないから一概に断じることは難しいが、両親が同じ兄弟姉妹でも、性格や能力が全く違うケースは多々ある。
※1塚野弘明「社会的に組織化された『暗記力』」(2003)
※2西垣昌和「ゲノム解析技術がもたらした保健医療の変革―ゲノム看護学の始まり―」(2019)