他人を支配し、操ろうとする人を「マニピュレーター」と呼ぶ。精神科医の片田珠美さんは「彼らはうわべはいい人なので、だまされていたことに気づいたときにはすべてを失っていたということもあります」という。20代の女性が被害に遭った上司の驚きの手口を紹介する――。

※本稿は、片田珠美『他人をコントロールせずにはいられない人』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

消沈しているビジネスウーマン
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トラブルをでっち上げるマニピュレーター

※実際のケースをもとに個人が特定されないような再構成をしています。

必ずしも金銭が目的ではなくても、トラブルをでっち上げ、それを自分が解決したように見せかけるのは、マニピュレーターがしばしば用いる手である。

たとえば、20代の女性会社員Hさんは、数年ほど前から上司のIさんと不倫関係にあった。その不倫のきっかけになったトラブルはどうもIさんがでっち上げたものだったらしいと最近わかった。

Hさんは入社後最初に配属された営業部で、当時30代だった上司のIさんに「話がある」と個室に呼ばれた。そこでIさんから聞かされたのは、取引先からHさんにクレームがきているという話だった。Hさんは、自社の商品を置いてもらうためにスーパーやコンビニなどを訪問し、お願いしていたのだが、その訪問先から「自社の商品が目立つように、他社の商品の置き場所を勝手に変えている。やりすぎじゃないか」というクレームがきたという。

親切で面倒見のいい上司を装う

たしかに、Hさんは売り上げを伸ばして上から認められたかったこともあって、自社の商品を目立つ場所に置くために、他社の商品を動かしたことがあった。だから、「申し訳ありませんでした」と謝罪し、「クレームがきたお店に謝罪に行ったほうがいいでしょうか」と尋ねたところ、Iさんから「僕が代わりに行っておくから、君は行かなくてもいい」という答えが返ってきたので、親切で面倒見のいい上司だと思ったとか。そのときはそれですんだのだが、その後Hさんはプライベートで大変つらい目に遭った。入社直後から交際していた同期の男性社員Jさんが、取引先の社長のお嬢さんと突然結婚したのだ。取引先の社長から跡継ぎとして見込まれたらしく、結婚と同時に会社も退職した。

HさんはJさんと結婚するつもりで交際していたので、強いショックを受けた。しかし、Jさんからプロポーズされたことはなく、婚約もしていなかった。だから、婚約不履行で訴えるわけにもいかず、しばらくは出社しても仕事が手につかない状態だった。周囲も、HさんとJさんが交際していたことに薄々気づいていたようだ。なかには「相手が取引先のお嬢さんじゃあ、勝ち目はないんじゃないの」と、慰めているのか傷口を広げているのか、わからないようなことを口にする年配の女性社員もいた。

優しい人を装って近寄ってくる

そんなとき、上司のIさんから「重要な話がある。会社ではできないので」と食事に誘われた。以前、クレームがきたという取引先に謝罪に行ってくれたことを思い出し、Hさんは誘いに応じた。そこで聞かされたのは、「先日結婚して退社したJ君が君をストーカー容疑で訴えると言っているらしい」という話だった。

寝耳に水だったので、「まさか……どうしてですか」と理由を尋ねた。すると、Jさんの結婚の噂を社内で耳にしたHさんがJさんの携帯に何度も電話したことを、Jさんがストーカー行為と受け止め、警察に相談したということだった。

たしかに、Jさんが結婚すると聞いて、驚いたHさんは携帯に電話し、「結婚するって本当? 私たち、つき合ってたんじゃなかったの」と問い詰めた。だが、Jさんは何も言わずに切ってしまい、その後はずっと着信拒否だった。だから、そのうちにあきらめて電話しなくなった。

また、Jさんが当時一人で住んでいたマンションの玄関の前まで行ったことも一度あるが、オートロックなので、インターホンを鳴らしても解錠してもらえず、入ることはできなかった。しかも、それからまもなくJさんは有休消化とかで出社しなくなったので、顔さえ見ていない。それくらいのことでストーカー呼ばわりされるなんて、Hさんとしては信じられない思いだった。

自宅の床に座り悲しむ女性
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「君が逮捕されかねない」と仲介役を買って出るが

しかし、Jさんが警察に相談したと聞いて、Hさんは大変なことになったと感じて不安になり、上司のIさんに「どうしたらいいでしょうか」と尋ねた。すると、Iさんは「このまま放っておくと、J君が警察に被害届を出して、君が逮捕されることになりかねない。優秀な君がうちの部署からいなくなるのは困るので、僕がJ君に会って、被害届を出さないように頼むよ。君はあまり表に出ないほうがいい」と答えた。Hさんは、本当に親切な上司だと思い、「よろしくお願いします」と言って、その晩は別れた。

2週間後に再び上司のIさんから食事に誘われ、その席で「J君に会って、『被害届を出すのはやめてくれ』と頭を下げて頼んだら、『先輩の頼みですから断れない』と言ってくれた」と聞かされた。Hさんはほっとして、「ありがとうございました」と感謝した。一安心したこともあって、勧められるままにワインを飲み、ぐでんぐでんに酔っ払った。その後ホテルに行って男女の関係になり、それから関係がずっと続いているという。

トラブルを解決したというのは全部嘘

Iさんは妻子持ちなので、不倫関係になるのだが、Hさんは「あんなに私のために親身になってくれたのだから、やがて離婚してくれるだろう」と信じていた。しかし、最近「Iさんの話は本当なのか」と疑いたくなる出来事があった。

きっかけは、取引先のスーパーに営業に行ったとき、そこの店長に就任したばかりの元彼のJさんと久しぶりに再会したことだった。Jさんは、そのスーパーのオーナー社長の娘と結婚したので、しばらく系列店で修業をしてから、最近店長に就任したようだ。Jさんから「久しぶり。元気だった?」と笑顔で話しかけられ、Hさんは顔も体も一瞬こわばったが、取引先の店長なので、無視するわけにもいかず、「いつもお世話になっております」と頭を下げた。

店長室に通され、お茶も出されて話し込んでいるうちに、Hさんはつい「私、ストーカー容疑で訴えられるようなことはしていませんよ」と言ってしまった。それに対して、Jさんが「は? 何の話?」とけげんそうな顔をしたので、Hさんは上司のIさんから聞いていた話をした。すると、Jさんは「僕は君をストーカー容疑で訴えるなんて言っていないし、被害届を出さないようにIさんから頼まれたこともない」と驚いた様子だった。

驚いたのは、Hさんも同じで、Jさんが嘘をついているかもしれないと思ったので、「じゃあ、私があなたの結婚の噂を聞いて携帯に何度か電話したことを、なぜIさんが知っていたんですか?」と尋ねた。それに対して、Jさんは「会社を辞める前にIさんに挨拶に行ったら、飲み屋に誘われて、そこで『お前、Hとつき合ってたって噂だけど、別れ話はちゃんとしたのか』と聞かれたんだ。『何度か携帯に電話がかかってきましたけど、そのうちかかってこなくなりました』と答えたので、もしかしたらそのことに尾ひれをつけて君に伝えたのかもしれない」と答えた。

不信感がようやく芽生えた

もちろん、Jさんが嘘をついている可能性もないわけではない。しかし、Hさんの胸中にIさんへの不信感が芽生えたので、今度は自分が新入社員の頃にクレームがきたという取引先の担当者に「私、新入社員の頃に売り上げを伸ばしたいばかりに他社の商品を動かして、ご迷惑をおかけしたことがありましたよね」とそれとなく聞いてみた。すると、驚愕きょうがくの事実が判明した。

その担当者は「そんなこともあったね。でも、とても熱心で頑張っていると思ったので、『他社の商品を動かすくらいの熱意がないと営業の仕事はできませんよね』と上司のIさんに言っといたよ」と答えたのだ。

面食らったHさんが、「じゃあ、お宅にIさんが謝罪にうかがったというのは?」と尋ねると、担当者からは「え、そんなこと一度もないよ。だいたい、あの人、何かトラブルがあっても、絶対謝らないから」という答えが返ってきた。

トラブルを解決したように装って信頼を得てきた

Hさんは愕然とした。元彼のJさんの話と合わせて考えると、Iさんは自分がトラブルを解決したかのように装って、Hさんの信頼を得ようとした可能性が高いからだ。その目的は何だったのかというと肉体関係、つまりカラダ目当てだったとしか思えない。自分がIさんにだまされ、もてあそばれていたと気づいたHさんは、はらわたが煮えくり返った。そこで、Iさんに「取引先からクレームがきたというのも、ストーカー容疑で訴えられるというのも、そのトラブルを解決したというのも、全部作り話だったんじゃないですか」と詰め寄った。だが、Iさんは「向こうが嘘をついているんだろ」と笑うだけで、取り合ってくれなかった。

詰め寄ると、毎朝叱責されるように

それだけでなく、売り上げを伸ばしていた取引先の担当からはずされて業績がガクンと落ちたため、HさんはIさんから毎朝叱責しっせきされるようになった。しかも、それまでHさんが担当していた優良な取引先は、女性の新入社員が担当することになり、彼女がIさんからほめられているのを見るたびに歯ぎしりしたくなるようだ。

片田珠美『他人をコントロールせずにはいられない人』(朝日新書)
片田珠美『他人をコントロールせずにはいられない人』(朝日新書)

そのせいか夜眠れず、食欲が低下して、出勤しようとすると吐き気や動悸どうきが出現するようになったので、内科を受診した。しかし、検査を受けても異常が見つからなかったため、私の外来を受診した。

Hさんは睡眠導入剤と抗不安薬を服用しながら何とか出勤しているものの、集中力が低下したせいで仕事上のミスが増えた。ミスが見つかるたびにIさんから叱責されており、「あなたのせいでしょ」と言い返したくなるが、じっとこらえているらしい。

昼間我慢している分、そのツケが夜に回ってくるのか、イライラしてどうしようもなくなり、抗不安薬を大量に飲んでしまったこともある。イライラの最大の原因は、20代という一番いい条件で婚活できるはずの時期をIさんのせいで無駄に過ごしたことに対する悔しさと怒りだという。

Iさんは、トラブルをでっち上げ、それを自分が解決したかのように見せかけることによって、Hさんを信頼させ、“落とした”。その結果、20代の若い女性と不倫関係を続けることに成功したわけで、典型的なマニピュレーターといえる。

弱っていた状態につけ込んだ可能性

見逃せないのは、IさんがHさんを“落とした”のが、Hさんがそれまで交際していたJさんの突然の結婚によって落ち込んでいた時期だということである。Hさんが当時仕事も手につかないほど弱った状態だったのは、上司のIさんの目にも明らかだったはずで、そこにつけ込んだ可能性が高い。このように弱っているときほど、マニピュレーターにつけ込まれやすいし、だまされやすい。「弱り目に祟り目」「泣きっ面に蜂」といったことわざがあるのは、似たようなことが昔から多かったからに違いない。

ターゲットを信頼させる下準備も忘れていない巧妙さ

しかも、ここぞというときにマニピュレーターは仕掛けてくる。もちろん、ターゲットを意のままにして、自分のほしいものを手に入れるためだ。おまけに、Iさんのように取引先からきたクレームを解決したように装って、あらかじめ自分の存在感を高め、ターゲットを信頼させておく下準備も忘れない。実に巧妙かつ用意周到なのである。