※本稿は、冨久岡ナヲ、斎藤淳子、伊東順子ほか『夫婦別姓 家族と多様性の各国事情』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。
日本の「名前の常識」が通用しない
結婚後の夫婦の姓を自由に選べる英国。
同姓も別姓もありだし、二人の姓を連結することも新しい姓を作ることもできる。
決められた「選択肢」があってその中から選ぶことが許されている、のではない。
こうしなくてはいけない、という規定がそもそもないのだ。
「選択的夫婦別姓」を「許す」「許さない」について果てしない議論を続けている日本と比べると、ほかの惑星の話のように聞こえるかもしれない。筆者も20年あまり前にロンドンに来た当時は「夫婦別姓がOKな国」程度の知識しかなく、日本から持ってきた「名前の常識」とのとんでもない違いには驚かされることばかりだった。(ここでは「名前」は姓名全般を指すこととする)
それは夫婦の姓どころか、姓名そのものに及んでいた。
イギリス人数人とハウスシェアをしていた頃、隣室に住むジョナサン・ロウという男性の不在中に役所から書留が届き、郵便配達人は家のドアを開けた筆者に代理署名を請うた。「いいですよ」とペンを取ったが宛名を見てびっくり。住所は合っているが全然違う名前なのだ。リチャード・J・L=ディンブルビー? 宛名間違い? ジョナサンは偽名?
当時の英語力では自分の戸惑いをうまく説明できずにオタオタしていると、別の部屋に住んでいる隣人が出てきて「大丈夫、これは彼の本名なのヨ」とさらっと署名してしまった。
「彼はなぜ偽名を使って暮らしているの?」と聞くと、「偽名? ジョナサン・ロウも彼の名前よ」という答えが。「えっ、この国では複数の名前を使うことが許されているの?!」目が点になっている筆者に、大学院で法律を学んでいた隣人は「うーん、許されるからやっていい、という考え方じゃないんだけど……」と、イギリス人の名前のからくりからその背景まで親切に教えてくれた。
彼女から聞いたことはカルチャーショックを乗り越える助けとなり、その後英国文化や慣習について書く機会を得るたびに、より深く学ぶためのスタート地点としても大いに役立った。だから夫婦の姓について語る前にまず、英国の姓名事情と感覚について触れておきたい。
「名前を変える自由」が保障されている
英国では姓も下の名も自由に変えることができる。その自由は法的に保障されている。そうだ、今日から違う名前を名乗ろう、と決めるだけでよい。改名の理由を明らかにする必要はなく、変えたことを公式に登録する「義務」もない。なぜなら、姓名に関することは「個人の事情」であって国が関与すべき事項ではないとされているからだ。
実際には、新たな姓名で生活していくためにパスポートや選挙人名簿登録、国民医療サービス、クレジットカードなどの名義を変更する必要が生じる。ここで改名したことを公に証明しなくてはならないのだが、あくまでも任意。「やりたければどうぞ」というのが基本姿勢だ。
この国では、本人の自由意志が最も尊重される。それが「法によって禁止されていること」でない限りなんでもありだ。これは「コモン・ロー」という英国法(判例法ともいう)の考え方に由来し、争い事があれば慣習や今までの判例を参考に解決をはかる。フランスなど欧州大陸の多くの国や日本のように「法が許すこと」以外やってはならない、つまり決まり事を絶対視し形式を重んじる「シビル・ロー」(大陸法、または制定法)とは対極をなしている。姓名をめぐる価値観を含め、日本人には「いいかげん」と映る英国の文化と社会通念の多くはこの「コモン・ロー」のコンセプトに裏打ちされていることが多い。
ネットでいつでも改名OK
さて、改名したことを法的に証明するには、ディード・ポール(Deed Poll=正式名はA Deed of Change of Name、改名を宣誓する証書)と呼ばれる書類を作る。旧姓名と新姓名を書き並べ、身内以外の第三者の立ち会いのもとで宣誓署名をする。
自分で適当な紙に書いて証人に署名してもらうだけでも、法的には改名の証拠として認められる。ただし、銀行など相手機関のほうがそれを受け付けてくれるとは限らない。書いた紙をさらに事務弁護士、司法書士やパラリーガルなどに「証明」してもらうのが一般的だ。
まれに、法院(Court of Justice、日本では裁判所に当たるがその機能はずっと広い)に届け出ることもある。その場合は改名したという事実が国立公文書館(The National Archives)に記録される。公文書館は英国民の出生、結婚、死亡などに関する記録を保存する機関で16世紀の創設時から今までのデータが保存されている。しかし、届け出はあくまでも任意なので、家系を辿ろうと過去の改名事実を探る手段としてはあまり役に立たない。
驚くことに、このディード・ポールは民間のネット手続きサービスを使えば数分で終了してしまう。翌日には証明済みの書類が送られてくるので、証人とともに自筆署名をするだけでおしまいなのだ。
昨年末には、酔った勢いで夜中に自分の名前をセリーヌ・ディオンと改名してしまったイギリス人男性のニュースが、長引くロックダウン生活に疲れたお茶の間を沸かせた。男性は元の名に戻さず、これから一生正式に歌手のセリーヌと同姓同名として生きていくことを選んだ。英国で姓名を変えるのはそのくらい簡単だ。もっともこの男性は、職場や家族からは依然として改名前の名で呼ばれているそうだが。
日本にはない「ミドルネーム」
また、イギリス人の下の名は一つではない。最初の名(洗礼名、ファーストネームまたはフォアネーム等と呼ばれる)の他にたいがい「ミドルネーム」を持っている。姓と名が一つずつである以外にバリエーションのない日本からすると、これも不思議で興味深い。ミドルネームはファーストネームとともに出生時につけられ、ファースト、ミドル、サーネームの順で並ぶのが一番多いスタイルだが、中には複数の名を持つ人もいる。
例えばウィリアム王子のミドルネームは、「アーサー・フィリップ・ルイス」とファーストネームの他に三つある。父君のチャールズ皇太子のほうは「フィリップ・アーサー・ジョージ」だ。
このように王族、貴族などの間で、父系母系にかかわらず先祖につながる血筋を誇るために名前を並べる、という中世イタリアでの慣習が英国にも広まったのがミドルネームだ。どちらを向いてもジョンやポールやジョージなど同じような名前なので、それでよく誰のことかわかるものだと感心してしまう。これはローマ時代以降のキリスト教国において「洗礼名は聖書に載っている名からのみ」という慣習から来ている。
しかし今では階級に関係なく、祖父母など血縁者の名、母親の旧姓、親が尊敬する聖人や有名人から映画の登場人物の名前までがファーストネームの後に続けられている。最近はユニコーン、アップル、ミントなど、およそ名前らしからぬミドルネームも珍しくなくなった。
学校の試験で初めてわかる自分の名前
イケメンシェフとして知られるジェイミー・オリバーの五人の子どもたちの名前を並べると、「ポピー・ハニー・ロージー、デイジー・ブー・パメラ、ペタル・ブロッサム・レインボー、バディー・ベア・モーリス、リバー・ロケット」と、まるで子ども番組のキャラクター名を見ているような気分になってくる。
親が想い入れたっぷりに並べた名のうち「どの名で呼ばれたいか」は、ここでも本人の意思が優先だ。しかし中には、親自身が初めから子どもをファーストネームで呼ばない例もある。
英国TVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のジョン・スノウ役で知られるキット・ハリントンのフルネームはクリストファー・ケイツビー・ハリントン。自分の正式なファーストネームが「キット」ではない、とわかったのはなんと小学6年生の時だったという。親ですらキットを「クリストファー」と呼んだことはなかった。小学校で「正式な」ファーストネームとラストネームを書かされるのは、卒業前に行われる全国共通学力試験の時が初めてであることが多い。
本名だろうが通称だろうが気にしない
というわけで、「親からもらった名前は一生もので、結婚などよんどころない事情でしか変えられない」という感覚はイギリス人にはない。誰かの名が本名なのかまったく関係のない通称なのか、など誰もあまり気にしないし生活に支障もない。名前でも生活上のことでもまずはルールやマナーが気になってしかたのない自分にとって、英国に移住してしばらくの間は面食らうことばかりだった。
冒頭のハウスメイト、ジョナサンの例を思い出してほしい。彼のフルネームはリチャード・ジョナサン・ロウ=ディンブルビー。ジョナサンはミドルネーム、ロウは母親からもらった姓だから、確かにジョナサン・ロウは彼の名前の中から構成されている。リチャード・ディンブルビーという著名なTVプレゼンターと同姓同名になるのが嫌だったのと、連結姓のおかげで気取った上流階級の出かと公立校でいじめられて以来、この姓名を使ってきたらしい。最近結婚し、妻の姓とロウを合わせた新たな姓を作った。ディード・ポールを書くついでに、ジョナサンを正式なファーストネームに変えたそうだ。
英国と日本の名前感覚の違いを少しでも感じていただけたことを願って、夫婦の姓についての話に移ろう。
改名は簡単、結婚の手続きは大変
夫婦同姓と別姓のどちらかにするべき、という決まりがないこの国では結婚し何も考えずに新生活を始めたら別姓のままだ。夫婦同姓に変えるほうがよほどややこしい。
英国での結婚には、教会や認可を受けたホテルなどでキリスト教義に基づいた婚姻の儀式執り行う「宗教婚」(キリスト教以外では、その宗教に基づいた儀式と別に英国法に基づく手続きが必要)、レジストリーオフィスと呼ばれる地方行政管轄の登記所で宗教に関係なく結婚登記をする「民事婚」の2通りがある。気楽にできる改名とはまったく対照的に、結婚するためのルールは厳しい。役所に届けを出すだけで婚姻が成立する日本ともだいぶ違う。
まず、重婚や偽装婚を防ぐ目的で結婚の意思を28日間、公示しなくてはならない。伝統的には新聞の告知欄や登記所の掲示板が使われる。公示期間に誰も異議を唱えなければ、資格を持つ聖職者か公証人の前で、2人の証人の立ち会いのもとに当事者が婚姻を宣言する。
ちなみに俳優のベネディクト・カンバーバッチが結婚した時には、まず古めかしい婚約の告知が新聞に掲載され冗談ではと騒がれた。しかし、それはオールドファッションなやり方を好む本人の意向だった。
そして、どちらの方法を採っても「結婚証明書」が発行される。証明書には、二人とも結婚前のステータス(独身または離婚)と出生届、再婚の場合は離婚証明書にあるフルネーム、父親の姓名が記載されている。だから結婚した直後は誰もが「夫婦別姓」であり、別姓を選ぶという届け出は不要だ。
夫婦同姓を選んだ場合でも、パスポートやクレジットカード、選挙人名簿登録、国民医療サービスなどを旧姓のままにしておいて不便なことはほとんどない。登録名や記載名を変更する場合は、どんな「同姓」にするかによって変更のしかたが変わる。