成功した富裕層の間で学歴は話題にのぼらない
マイナビの学歴フィルター問題や、つい先日起きた東大刺傷事件と、学歴や受験にまつわる出来事が連続しています。
ビジネスで成功している富裕層の考え方や習慣に学ぶこの連載では、成功と学歴について考えてみたいと思います。
私の周囲の起業家や富裕層に限ってですが、学歴を気にする人はほとんどいません。彼らと飲み会をしても学歴の話が出たことは一度もありません。だからお互いの学歴などは知らないと思います。講演などで一緒に仕事をした人はプロフィールを紹介されるので知っていますが、そのくらいです。
これはおそらく、ゼロからの起業では学歴が役に立つことはほとんどなく、学歴よりも努力や能力次第だと認識しているからだと思います。
そして富裕層の多くは事業家ですから、つきあう相手の選別基準は「自分にメリットがあるかどうか」です。飲み仲間は別として、メリットのない人とつきあうのは時間の無駄なのです。
「18歳の春の学力」だけで人を評価できない
それに、長い長い人生の中で、わずか4年間だけ通った学校のことを社会に出てことさら口にするのは、ちょっと幼い感じもします。
それは愛校心を否定するのではありません。18歳の春の学力というそのピンポイントだけでその人を評価できるはずがないのに、所属した学校名を借りて自分を盛らないと自尊心を維持できないという、自己肯定感の低さを感じるからです。
また、私の知人は中小企業の経営者が多く、人材採用はほぼ中途ゆえに、学歴やポテンシャルよりも実務能力を見ているという理由も大きいかもしれません。
優秀な経営者や起業家は学歴が高いことが多い
私自身、外資コンサルや起業した会社でも採用面接を経験しましたが、優秀な人はちょっと会話をすればわかるので、学歴を知らなくてもほぼ決まります。
外資コンサルのときはそれよりも、論理的思考力や思考の柔軟性、フェルミ推定などの抽象化思考力、そして組織風土とのフィットネス(一緒に働きたいと思えるかどうかなど)を重視していました。
その中で東大卒やハーバード大卒の応募者もいましたが、当然落ちる人もいました。
起業してからはあまりぜいたくは言えないので、むしろ主体性や積極性、ありていに言うと「やる気」を重視しました。かつて採用した従業員の学歴など誰も覚えていません。
ただ、起業してから出会った起業家・経営者で「この人は優秀だな」と思う人は、たいてい高学歴の人が多いので(あとでプロフィールを見て驚くという感じ)、学歴と能力はある程度比例関係にあるのだなと感じます(むろんそうではない人もいますが、一般的に)。
知人の経営者は、新卒採用では履歴書を見ず事前情報を何ももたずに丸腰で面接に臨むそうですが(先入観を避けるためだそうです)、「コイツ優秀だな」と思ってあとで聞くと実は高学歴だったということはよくあると話していました。
学歴の高さは可能性の高さなのか
こちらのプレジデントオンラインの記事によると、
2018年時点での東証マザーズ上場企業の経営者の出身大学1位は慶應義塾大学、続いて2位が早稲田大学、3位には一橋大学、関西学院大学、東京理科大学が、7位には青山学院大学や日本大学、明治大学がランクインしていたそうです。
あるいは経産省の発表によると大学発のベンチャー企業の企業数は東大がトップ、2位が京大、以下、阪大、筑波大、東北大と続きます(経済産業省「令和2年度産業技術調査(大学発ベンチャー実態等調査)調査結果概要」)。
さらに資金面でも、最⼤出資者は創業者が最も多く65.6%。取締役や従業員、創業者の家族・知⼈が最⼤出資者である場合と合わせると83.3%で、創業者自身が個人の資金を拠出して設立していることが読み取れます。一方、事業会社が最⼤出資者である企業は9.7%、VCは5.9%にすぎません。
高学歴、つまり基礎学力の高さは、「チャンスを手に入れられる素養」につながる可能性の高さを示唆しています。
基礎学力の高さはイノベーションを起こす力の土台の一部
海外を見ても、ビル・ゲイツ氏やマーク・ザッカーバーグ氏はハーバード出身(中退)、特にシリコンバレーを擁するスタンフォード卒の起業家も多く、グーグル創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、ナイキ創業者のフィリップ・ナイト、ほかにもヒューレット・パッカード、サン・マイクロシステムズ、シスコシステムズ、ネットフリックスといった有名企業の創業者を輩出しています。
スペースX社やテスラを率い、2016年にフォーブス誌の世界で最も影響力のある人物ランキング21位に選出されたイーロン・マスク氏ですが、彼は名門ペンシルバニア大ウォートンスクールを経て(しかもスカラシップを獲得している)、スタンフォード大学院に進んだほどの学力をもっています(が、2日で中退したそうです)。
むろん海外ではエッセイや課外活動、面接などのウエートが高いので学力だけではありませんが、やはり基礎学力の高さはイノベーションを起こす力の土台の一部になっているとは言えそうです。
主体的に勉強してきた子がもつ力
ではなぜ高学歴と起業が両立するかというと、自ら主体的に勉強して進学する子は、下記の能力があまり勉強しない子よりも高い次元で獲得できるからではないでしょうか。
・家から遠く離れてもチャンスをつかもうという自立心
・日常的に勉強に取り組む姿勢・集中力
・自らモチベーションを維持しあきらめず勉強を続ける精神力
・自分に合った勉強法を自分で考え工夫する創造力や応用力
・勉強方法を試行錯誤し必要に応じて都度変更し最適化させる柔軟性
・受験までの戦略を描く時間感覚やプランニング能力
・複数の科目を同時に勉強するバランス感覚や並行処理能力
・力を入れる範囲、手を抜く範囲を取捨選択する分析力や判断力
・点数や順位を上げたいという向学心
これはつまり、日頃の勉強や思考習慣を通じ、おそらく根源的な学習能力や思考力が高いレベルに育っているからであり、つまり高学歴は彼らの能力の副産物みたいなものなのかもしれません。
実際、高学歴者のほうが多方面に対応でき、やる気・気力もある印象があります。
受験勉強の罠
しかし高等教育を受けさえすれば誰でも起業して成功できるわけではありません。
特に受験勉強にどっぷりはまってしまうことの危険性のひとつに、学ぶことが「受験勉強のスタイル」に固定されてしまいがちなことが挙げられます。
たとえば、テキストを読む・暗記する・問題集を解く、という学び方しかやってこないと、それが勉強の型として固定してしまい、それ以外の学び方を思いつかなくなります。
だから「自己投資」と聞くと、多くの人の頭には「資格取得」が思い浮かんでしまうのでしょう。
しかし実社会は、学校のテストや資格試験のようなクイズ大会ではありません。
そもそもテキストなど存在しない。問題も与えてくれない。正解はないし科目も範囲もない。カンニングも相談もOK。
それよりも、自ら問いを立てて課題を設定し、いまある知識を統合・組み合わせ、正解ではなく最適解を導くことが要求されます。
高学歴でも貧しい人の特徴
つまり高学歴でも貧しい人は、学んだ思考の枠組みを実社会で応用する習慣が養われていない、あるいは社会に出てからそういう姿勢で取り組んでいないように思います。
もっている知識を組み合わせ、あるいは新たに知識を得て統合し、より複雑な問題に適用できないのはなぜか。
おそらく与えられた問題を解くことに慣れ、自分で問いを発し探求し、解決方法を自らの頭脳で編み出し成し遂げるという経験をしてこなかったからでしょう(そういう意味で「東大クイズ王」みたいな番組が人気なのはちょっと不安です)。
学ぶとは、「自分が疑問に思ったことを探求する」というもっと能動的で創造的な行為のはずですが、受験では疑問をもつという行為自体が封印され、探求ではなく正解を導くことが要求されます。
そのため「進学のためだけの勉強」「受験に合格するためだけの勉強」という、根源的な思考力を磨かず青春時代を過ごすと、誰かが固めた理論をなぞるしかないという、受け身の姿勢になりかねないのです。
抽象化能力の獲得がカギとなる
もう一つ、稼ぐ人は抽象化能力が高い傾向があります。これを川上と川下で説明したいと思います。
以前も紹介しましたが、会社では川上に行けば行くほど抽象化能力が求められ、川下に行けば行くほど具体化能力が求められます。
たとえばビジネスモデルの創造という川上では、発想は自由です。ルールや指標はあってないようなもので、環境も条件も自由に変えることができます。
しかし現場という川下に下りれば環境は与えられるものであり、ルールも指標もしっかり固まっており、その枠内で仕事をこなすことを求められます。自分で変えられるのは細かい実務レベルにとどまります。
これは他のことにも当てはまり、たとえば創造性やイノベーションを期待され自分で流れを創るのが川上で、既存の手続きや前例踏襲など、規範に合わせるのが川下です。
問題を発見して課題を設定するのが川上であり、川下ではその課題を与えられるでしょう。
そう考えると、ほとんどの人は「川下」で生きていると言えます。なぜかというと、抽象的な発想が苦手だからです。
たとえば家庭や学校や会社という環境が与えられ、その中でなんとかするしかないと考えてしまう。自分の人生は自由にデザインできるにもかかわらず、それが見えない。
「人生の構想」という抽象化された方向性がないために、何をすればいいのかわからなくなる。
抽象化して考える習慣をもつ人は「コロナで仕事が減り、どうしようもない」という状況でも絶望することはないでしょう。
家から通いやすい会社を選んでしまう
転職の際も、たとえば「自分の家から通いやすい会社に応募する」と考えてしまう。
本来はまず、自分がどういう経験を積みたいか、そのためにどういう仕事を選ぶか、その仕事ができる会社はどこか、というふうに抽象から具体へと落とし込みます。
つまり「どこに住むか」はそのあとのはずですが、抽象化能力が低いがゆえに思考が自由にならない。
むろんさまざまな事情で引っ越しをしないことが最優先になることもあるとは思いますが、独身者でもいまの住居を起点にしてしまう人がいます。そしてそれが選択肢を狭める要因になっているかもしれないことに気がつかない。
あるいは人間関係でも、「苦手な人とどうつきあっていくか?」というふうに考えてしまう。
これも多少はやむを得ない側面もありますが、抽象度を上げれば、「そもそも苦手な人とつきあわないようにするにはどうすればいいか?」といった発想が出てくるはずが、そこに考えが及ばない。
そこまで視点を引き上げることができないから、見える景色が川下から抜け出せない。
このコラムのように「富裕層は~」などという話も、具体的事実や事象を抽象化して紹介しているわけですが、「富裕層はそんなことしない」「データで示せ」という意見が出るのは具体の世界、つまり川下でしか生きていないからです。
「自分の業界・会社は違う」「自分は違う」という人も、抽象的思考力が弱いから、他業界・他社・他人の成功パターンや要諦を抽出して応用して自分に適応させるということができない。彼らは自分が見えていないことにも気がついていません。
そして、抽象化能力の低さがこうした小さなことから大きなことまで人生の全方位で発揮され、それが何年も何年も継続され、やがて大きな差となってしまうのです。
数学などの勉強を通じて脳は訓練されている
重要なのは「抽象化思考力を獲得する」ことであり、「具体と抽象を往復する習慣をつける」ことです。
実はその訓練が、たとえば国語や数学、物理などの学習によって行われています。
数学ではリンゴ3個、自動車3台、ネコ3匹も、すべて「3」で扱えるように、抽象化して考えます。
その数学で出てくる素数や虚数、サイン・コサイン・タンジェントなどは、技術開発分野など以外では、社会に出てもまったく役に立たない知識です。
しかしこのように目に見えない世界を扱う分野は極めて抽象度の高い学習となり、いろいろな角度から脳を刺激し抽象化能力を養うために役立っているのです。
「実生活で使えない数学なんて何の役にも立たない」と言う人は、数学を学ぶことの本当の意味をわかっていない。こういう人ほど抽象化能力が低く、ゆえに稼げない(むろん数学が苦手だった人でも抽象化能力が高い人はいますが、一般的に)。
数学に限らず学校の勉強は、実生活で役に立つ知識を身に付けるためではありません。
実生活でさまざまな問題に直面したとき、自分がもっている知識と思考の枠組みを活用・応用し解決できる思考回路を創るためなのです。
つまり頭脳を鍛えるのが学校の勉強の目的なのですが、ここを誤解している人は少なくないようです。
これは大学の勉強でも同じく、1、2年次で教養科目が重視されるのは「物事の価値判断基準」を養うためであり、すぐには役に立たないからこそ長く使えるし差別化にもなるのです。
稼げる人とそうでない人の決定的な違い
「お金」も抽象度の高い概念です。パン、コップ、ネジなどとモノが異なっても、100円であれば100円で買えます。
2%のインフレであれば、現在の100円は1年後の102円ですから、いま買っておくかどうかやインフレで値上がりする資産を保有するかどうかなどの判断材料にもなります。
だから抽象化思考力が高い人は、お金も自由にコントロールできます。お金が足りなくなってキャッシングしたり消費者金融に駆け込んだりするということもありません。
勉強を通じ、抽象化思考を高いレベルで獲得した人は、仕事の面でもお金の面でも、あらゆる方面で具体と抽象の往復が可能です。
ただし、これが「点数を上げるため」だけで勉強していたら、あるいはパターン暗記だけで乗り切ろうとしていたら、なかなか身に付かないでしょう。
この具体と抽象の往復、特に抽象化能力の獲得が、高学歴と低学歴の差、そして高学歴であっても稼げる人とそうでない人を分かつ原因のひとつではないか。そして高学歴者の多くは学習を通じてこの能力を身に付けてきたのではないか、というのが私の仮説です。
ただしこの能力は、学校の勉強がたまたま苦手で低学歴であっても、その後の思考習慣を通じて後天的に身に付けることができます。その方法については改めてご紹介したいと思います。