「悪い夢かな……と呆然としました」

2人目の子どもを望んで不妊治療を始めた直後、子宮にポリープが見つかった。手術して退院後、「今すぐご家族と一緒に来てください」と連絡を受ける。夫の駐在に同行していたタイ・バンコクの病院で告げられたのは「子宮体がん」。進行が早いため、1週間後に全摘手術を言い渡された。

笹尾里枝さん
笹尾里枝さん

「悪い夢かな……と呆然としました。どうしても2人目がほしかったので、子宮を取るのが嫌でした。泣き明かした後、やっぱり1度日本へ帰ろうと。何とか子宮を温存できる方法を探そうと思ったのです」

一時帰国すると、子宮温存治療で知られる大学病院へ。だが医師から、自分よりグレードの低い患者が子宮を温存して1年後に亡くなったことを聞かされた。出産と同時に命を落とすリスクもあり、「息子さんをお母さんのいない子にできますか?」と問われる。初めてがんは「死ぬ可能性のある病気」だと思い知らされた。

バンコクへ戻って、子宮と卵巣の摘出手術を受ける。その病床で心に決めたことがあった。

「まだ30代だったので『死』は遠い先のことと思っていたけれど、私はずっと生きられないかもしれない。ならば自分のやりたいことだけをしようと思いました。がんになったことをマイナスの記憶にはしたくなかったので、『ギフト』と肯定的に思えるように生きていかなければもったいないなと」

“一日一善”。笑っていれば「いいことがきっとある」

20代の頃から、子宮内膜症もあり、妊娠しづらいと医師に言われていた笹尾さんは、1人目のときも不妊治療で苦労した。自分の経験を不妊で悩む女性のために生かせたらと、妊活関連講座を開設する準備を始めた。

笹尾さんのワーク・ライフ・ストーリー

2017年に日本へ帰国。海外歴は12年を超えた。結婚後、最初に暮らした北京では中国語力を高め、現地のフランス系不動産管理会社で働き、たった1人の日本人として奮闘した経験がある。出産で退職した後も翻訳などの仕事を受けながら、次のキャリアを模索していたという。

中国、タイでの子育て中は保育事情にも不安があって再就職こそ断念していたが、その間はネット販売事業など、自身で仕事をつくり出した。

「帰国後、やっとフルで仕事ができるという気持ちでした。現地では『駐在員の妻がなぜ?』と日系企業では駐在員妻を理由に断られました。やっと私らしく働ける、生きられると、すごくうれしかったですね」

自分の強みは、会社員時代に実績を積んだ「不動産」の実務と現地で磨いた「中国語」。笹尾さんは、強みを生かせる中国系不動産投資会社へ再就職する。翌年には個人会社も設立し、銀行から融資を受けて投資物件として一棟のアパートを買った。

「どうしたら自分らしく働けるかと考えたとき、たどり着いたのが不動産投資です。毎月コンスタントに稼げる仕組みがあれば、女性でも本当にやりたいことができると。体にも無理のない働き方を選べるようになりました」

不動産の仕事は「天職」だった。さらに執行役員のオファーを受けた現職では、さまざまな問題を抱えた不動産を積極的に扱い、「世のため、人のために、不動産の困り事を解決する」ことがミッションに。次々にやりたいことを実現する姿勢はパワフルだが、この5年間はがんの再発リスクへの恐れとも闘ってきた。

「私は生き急いでいると言われますし、『忙しくするのが趣味』とも(笑)。けれど人生には限りがあると痛感したので、今の自分にできることは何でもやってみようと思うのです」

不動産業のかたわら、ライフワークの「妊娠力講座」を始めると、まもなく子どもを授かった人から喜びの声が届く。行政の助成金を利用して、海外の生活文化を子どもたちに教える活動もスタートしている。誰かの役に立てたと思えることが何よりうれしいと笹尾さん。大切にしているのは「一日一善」の考え。善いことをすると幸せがやってくる、笑っていれば「いいこと」がきっとあると、ほほ笑む顔はとても晴れやかだ。

笹尾里枝(ささお・りえ)
1978年、静岡県生まれ。大学卒業後、不動産会社入社。不動産仲介、主に売買業に携わり、入社3年目に上半期全社トップに。当時最年少店長に。子宮内膜症を患いつつも自ら志願し、2005年に上海支店へ異動。08年、結婚を機に退社。夫の赴任先の北京で語学を鍛え、現地でフランス系不動産管理会社に就職。北京で不妊治療の末、33歳で長男出産。14年、夫の転勤でバンコクへ。アクセサリー輸入業を始める。2人目を望むも15年に「子宮体がん」が見つかりバンコクで手術。17年に日本へ帰国。中国系不動産投資会社へ就職。20年に現職のMARKSから執行役員のオファーを受け転職。同時に自身のライフワークをスタートし、現在に至る。