育休は「当然とるべき」と思った
参天製薬は眼科領域の医薬品や医療機器を手がけるグローバル企業だ。日本では一般用医薬品(OTC)の「ソフトサンティア」などの目薬で知られているが、それは事業の1割にすぎず、実際には医療用医薬品を中心に世界60以上の国や地域で複数の事業を展開。海外も含めた従業員数は4000人以上にのぼる。
谷内樹生さんは2018年、その代表取締役社長兼COO(最高執行責任者)に40代半ばという若さで就任。翌年、2人目の子どもの誕生に合わせて1カ月間の育休をとった。
「育児には苦労もありましたが、今思えばとても楽しかったですね。『将来は俺のオムツも替えてくれよ』と言いながらオムツを替えたりして(笑)。育児は人生で何度も経験できることではない。せっかくの機会ですから、男性も絶対に経験したほうがいいと思います」
当時、社内の男性育休取得率は6%ほど。休む人はごくごく少数派で、社長としての仕事も忙しかったが、それでも「当然とるべきだと思った」と振り返る。そう考えたのには、父親としての理由と社長としての理由があった。
まず父親としては、1人目の子どもの時はヨーロッパに単身赴任していたため、生後半年ほど育児に関わることができなかったから。自身としてはそれがとても残念で、心の中でずっとしこりになっていたのだという。
仕事は人生の一部でしかない
赴任先のヨーロッパでは、男性が育休をとるのは当たり前。仕事は人生の一部でしかないという考え方が根付いていて、家庭で出産や子育てなどのイベントがあれば、男性も当然のように仕事を休んで参加していた。
そうした価値観の影響に加えて、夫婦ともに実家が遠く、親のサポートが得られないという事情もあった。2人で助け合わないと家事育児が成り立たない──。そう考えた谷内さんは事前に妻と話し合い、自分に何ができるかを一緒に考えていった。
「結局、私は父親として家庭でどのような責任を果たしたいのかと考えると、当然育休をとって一緒に家事育児をすべきだと。会社で責任のある立場になると休みが取りにくいという話をよく聞きます。しかし社長だから無理というものでもありません。会社でのポジションと父親としての責任とはまた別の話です。『いや俺忙しいからさ』で終わらせてはいけないと思いました」
社長が率先して幸せを追求する
むしろ社長だからこそ、自分が育休をとることで会社の理念を実践したいという思いがあった。参天製薬が目指す理想の世界は、Happiness with Vision(世界中の一人ひとりが、「見る」を通じた体験により、それぞれの最も幸福な人生を実現する世界を創り出す)である。谷内さんは、それなら社長が率先して幸せを追求する姿勢を示すべきだと考えたのだ。
社長になってから子どもが生まれる人はそう多くない。だからこそ谷内さんは、自分に訪れた育休取得の機会を、リーダーとして理念を実践するチャンスと捉えた。そして、出産予定日の6カ月前には「育休をとる」と宣言。そこから周囲との話し合いを開始し、説得や調整を重ねていった。
もちろん、社長に休まれては困るという声もあったという。そうした人に対しては「こうすれば大丈夫」と対策を提案し、自分の育休がいかに会社の理念に沿っているかを説明して回った。
例えば、会議はどうするのかという声にはリモート会議を提案。当時はまだコロナ禍前だったが、かつて赴任していたヨーロッパではすでにリモート会議が当たり前のものになっていたため、その現状や利便性を説明して納得してもらった。そのほかの課題も時間をかけて一つひとつ解消していき、谷内さんはようやく育休に入った。
朝食・お弁当・夕飯をつくる日々
では、1カ月の育休期間をどう過ごしたのだろうか。実際は完全な休みではなく、在宅での時短勤務のような形だったという。週のうち3~4日は10時から16時まで仕事をし、平日のうち1日は完全な「家事日」とした。
仕事もすべて自宅からのリモートワーク。毎回、仕事にとりかかる前には朝食や上の子のお弁当を、仕事を終えた後には夕飯をつくった。さらに育休中は、仕事上の会食はすべて断ってもらっていたという。
無力感の中で見えてきたこと
もちろん大変なこともあった。子どもが生まれた翌日には、どうしても外せない会議があり、妻の病室のトイレからリモートで対応したこともある。赤ちゃんの世話に「結局、父親は母親にはかなわない」と無力感を覚えることもたびたびだった。
「オムツ替えのほか上の子の世話、洗濯や料理などを担って、できる限り妻の負荷を減らす努力をしました。妻からは、特に夜中のミルクづくりが助かったと言われました。男親にもできることはたくさんあると実感できましたし、人生の中でこうした経験ができて本当によかったと思っています」
谷内さんの育休取得は、自身の人生だけでなく会社の風土にも大きな影響を与えた。復帰した年、社内の男性育休取得率は10倍以上にも増加。翌年度には該当する男性のほぼ100%が取得するまでになった。
「ある程度の伸びは予想していたが、これほどとは思っていなかった」と谷内さん。社長がとったことで、育休取得者を少数派と見る風潮が変わったのかもしれない。男性社員からは「上司に言い出しやすくなった」という声が相次いだ。
男性の育休を義務化する必要はない
社内で男性育休への理解が一気に進んだのは、もともと社員の間に企業理念が根づいていたからでもある。谷内さんも、自身が取得する際には「世の流れがこうだから」「法律がこうだから」ではなく、参天製薬が目指す理想の世界である“Happiness with Vision”を自らが実践することを説明。この言葉が経営陣や社員の腹落ちにつながった。
「トップが理念を自分事化して発信すれば、企業文化も変わっていきます。ですから、個人的には男性育休の義務化は少し違和感を覚えます。日本ではまだ男性が育休を言い出しにくい企業も多いようですが、そこはトップが変えていくことが重要です。自ら行動で示しながら、皆がオープンに話せる企業文化をつくることができれば、そもそも義務化する必要はないはずです」
育休取得率が高い企業では、取得者の穴埋めをする社員の間に不公平感が生まれがちだ。だが参天製薬では、取得率が伸びてもそうした問題はほとんど起きなかったという。理念への理解や、中途入社や外国籍の社員も多い多様性のある環境が、互いの生き方を尊重する姿勢につながっているのだろう。
何の支障もなく全社リモートワークへ移行
もうひとつ、社長が育休中にリモートを活用したことで会議風景も一変した。リモート会議が当たり前になり、遠隔地の社員との意見交換も活発化。最初は、リモート参加の社員が意見を言い出しにくいなど多少の壁があったそうだが、皆が慣れるにつれてそれも解消していった。
1年後、これが思わぬ形で役立つことになる。コロナ禍の影響で政府が出勤者数を削減するよう要請し、参天製薬も全社的にリモートワークに移行。しかし、多くの社員が経験済みだったためほとんど混乱はなく、業務に支障が出ることもなかった。
もともと谷内さんは、会議は会議室でやるものだという日本独特の暗黙知のようなものに疑問を感じていたという。リモートでもできるのになぜその場にいなければいけないのか、非合理だと感じていたのだ。自身の育休は、そうした考え方を社内に根づかせる機会にもなった。
「出勤しているか、していないかで社員が対等に扱われないようでは、多様性のあるいい組織とは言えません。その意味では、コロナ禍を通して、より多様性のある強靭な組織になれたと思っています」
女性の中に男性一人というマイノリティーを体験
今の日本では、家事育児負担はまだ女性に偏りがちだ。谷内さんは「どう分担するかは各家庭で決めること」としながらも、家事育児は女性の仕事という昭和的な価値観からは脱却していくべきだと指摘する。
育休中、上の子の保護者会に行った時のこと。100人ほどの保護者の中で、男性は谷内さんただ一人だった。男性なのに働いていないのかと思われたのかもしれない。変に視線を集めてしまい、マイノリティーであるがゆえの居心地の悪さを体感した。
つい先日も、授業参観に行って同じ状況を経験。逆に日本企業で働く女性はこういう思いをしているのではとあらためて気づき、少なくとも自社の女性社員にはこうしたマイノリティー感を味わわせてはいけないという思いを強めた。
世の中にマジョリティーをつくってはいけない
企業でダイバーシティや男女平等を進めるには、皆がマイノリティーの立場にある人の思いを理解しておく必要がある。だが、一般的にはそうした立場を経験したことがある男性は少なく、その傾向は立場が上の人ほど強い。
その点、谷内さんは海外赴任先では数少ない日本人の一人として、また子どもの学校行事では唯一の男親として、マイノリティーの立場を経験してきた。企業の風土づくりには、トップにそうした経験があるかどうかも大きく影響するのではないだろうか。
「あらゆる人々のハピネスを実現するには、皆が何かしらマイノリティーの立場を経験したほうがいいのではと思います。今の段階では、男性の育休や家事参加もそうした経験のひとつ。そうすれば、多様性も相互理解も進んでよりよい社会になるはずです。世の中にマジョリティーをつくってはいけない。育休を経験後、より強くそう思うようになりました」