※本稿は、アルボムッレ・スマナサーラ『心は病気:悩みを突き抜けて幸福を育てる法』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
私たちは「自信の持ちすぎ」で失敗する
人はよく「自信がなくなった」などと言いますね。これもじつは妄想のせいです。
人間が自信をなくす原因は、意外かもしれませんが、自信の持ちすぎなのです。
「自分はこれくらいできる」「これくらいやってやる」と思っていたのに、いざやってみると何一つできない。よくあることですね。
でも、心は自分が偉いと思っていますから、理想の自分と今の自分のギャップに打ちのめされてしまうのです。
“自信がある人“がスピーチで失敗する理由
結婚式でスピーチを頼まれたとします。スピーチというのはほんの2、3分ですが、自信がありすぎる人は、「よし、抜群のスピーチをしてやろう」と思って、頭の中であれこれと、できる限りの妄想をしてしまうのです。
それで当日は30分もしゃべったりして、ひんしゅくを買います。
しかも、そういう人に限って、いいことは何もしゃべっていないんですね。
本人も、心臓がドキドキするわ、汗が出るわ、膝が揺れるわ、もうひどい気分なのです。これも、妄想の中の自分を過大に評価していることが原因です。
逆に、自信のない人のほうが抜群にいいスピーチができたりします。そういう人は「どうせ私は口下手で大したスピーチなんてできないから、1分ぐらい何かしゃべって早く逃げよう」と思います。
でもその1分でしゃべることは、必要なことがぴったりと収まった、きれいな良いスピーチになります。「私は口下手なのであまり長い時間しゃべれませんが、とにかく本当におめでとうございます。お幸せに。ありがとうございます」という感じで、すぐ終わってしまう。
でも、こちらのほうがみんなには大受けなのです。たったこれだけのことができないのは、自信がありすぎるせいなのです。
“ものすごい成功”ではなく、できることをやればいい
「自分の仕事に自信がない」という人もよくいますが、それも、何か奇跡的な成功を頭で妄想しているせいです。「そこそこでいいんじゃないか」と思えないから、結局何もできなくなってしまうのです。
ですから、我々は自分に悔いがないように、できることをすればいいのです。
実現できるかどうかわからない目標ではなくて、目の前の仕事を大切にしてください。
もちろん、結果は自分だけで決まるものではありません。が、どんな結果になっても「自分は精一杯やった」と心から言える、そんな状態を目指すといいのです。
自信がありすぎるバカ者は病気
仏教の立場から言えば、自信がありすぎてなんにでも手を出す状態は、病気です。
でも社会の人はそう言いません。うつ病とか対人関係に自信がないとか、人に会うと心臓がドキドキするとか、そういうものは精神的な病気として見るのに、自信がありすぎるバカ者のことは、誰も病気だとは言わないのです。
むしろ、活発だとかやり手だとか言ってほめますね。それが世の中の心理治療の世界なのです。
仏教的に考えれば、どちらも危険な道で病気に変わりはありません。「あなたはこの病気の代わりにこっちの病気になりなさい」と言っているのと同じことです。
「ガンが怖い」と言う人に「じゃあ代わりに高血圧と心臓の病気になりなさい」と勧めているようなものです。でも、高血圧や心臓病でガンより早く死ぬこともありますからね。そう考えると、現代の心理治療はずいぶんいい加減なのです。
仏教と心理学の違い
お釈迦さまの仏教の立場から見た「本当に心を治す方法」は、心理学の方法とはずいぶん違います。
ですからここでは、心理学の本で言っていることをまったく言わない可能性もあるのです。
仏教の世界では、「自我・エゴという高慢」を捨てることを徹底的に教えます。
「すべての問題は自我から生まれる」と考えているからです。
「自我・エゴ」というのは「まったく変わらない確固たる自分が存在する」と思うことです。「自我意識」と言葉が似ているので混乱するかもしれませんが、この二つは違います。
我々には瞬間瞬間、自我意識が生まれます。何かを見たら「私が○○を見た」、何かを聞いたら「私が○○を聞いた」と認識する。それが自我意識です。
この自我意識は、修行して悟りをひらくことでなくなるものです。ですから自我意識の問題は、今お話ししている自我・エゴよりずっと先にあるテーマなのです。
自我・エゴというのは、瞬間瞬間のこの自我意識に気づくことなく「確固たる私がいる」と想定することです。言い換えれば、「見たり聞いたり話したり考えたりする、変わらない自分がいる、存在している」という気持ちなのです。
変わらない自分がいると想定すると、瞬間瞬間変わってゆく環境に、適応できなくなります。それで、精神的な病気になる原因は自我だ、というのです。
自我を守っても病気が治るわけではない
そして、病気になると「私はそういう病気だからしょうがない」と思ってしまう。身体に病気がある場合も同じです。「私は生まれつき○○病だから、勉強も仕事もできないんだ」と思って、自分を正当化してしまいます。「私じゃなくて病気が悪い」と思えば、自我が守れます。それで簡単に逃げる道を選んで、ますます精神的に弱くなるのです。お医者さんたちも一生懸命頑張って、心理学的になんとか治そうとしています。
でも私に言わせれば、そういう方々というのは、結局は仏教で扱うほど幅広くは心のはらたきを勉強していませんから、やっぱり無理です。
無理だから、症状だけでも抑えてあげようと薬を出してしまいますが、ああいうのはぜんぶごまかしです。精神安定剤などいろいろな薬がありますが、飲んで落ち着くとかいう効き目はあっても、病気を根本から治せるわけではありません。
自我を捨てれば問題も消える
それでは、心を治すには、どうすればいいのでしょうか?
心というのは「わがままな大バカ者」です。手に負えない曲者です。
エゴを守るために、あの手この手の言い訳を繰り出してきます。我々が簡単に考えつくような方法では、その病んだプロセスは治せません。
最終的な答えを先に言ってしまうと、「自我を捨てること」です。自我からすべてが生まれるのですから、それがなくなれば問題も消えるのです。
自我のたわごとには一切耳を貸さないで、自我そのものを捨ててしまうのです。
自我を捨てるとは、「自分の心は、弱くて脆くて大したことのないものだ。どうでもよくてくだらない心だから、誰のものでもべつに同じだ」という事実を認識することです。
そういうふうに、自分という自我を完全に横に置いておければ、自分が何者でもないことを心から理解できます。
“たまたま”くらいがちょうど良い
そうすると、失敗しても成功しても平然としていられるのです。たとえ失敗しても、「自分は大したことのない人間なんだから、まあ仕方ない」と思うだけで、全然怒りなど湧いてきませんし、落ち込むこともありません。
逆に成功しても「我ながらよくやるじゃないか。でもまあ、たまたまうまくいっただけだ」と思うだけで、偉そうな気分には決してなりません。
いつもそういう気持ちで生きていられれば、絶対に病気にはなりません。たまたまうまくいっただけ、たまたま会社が儲かっただけ、たまたま失敗しただけ……。ぜんぶ大したことではなくなります。
でも、現実は違いますね。「たまたま」の代わりに人間が何を考えるかというと「ここは私に任せろ」とか「私がこの会社をここまで発展させたんだ」とか「私にはこんなすごい能力があるんだ」とか、そんなところでしょうか。
そんな気持ちでいると、うまくいかなくなったとたんに耐えられなくなって、病気になったり、最悪の場合は自殺してしまったりします。
環境は常に変わっています。自分の置かれた状況がずっと同じということはありえません。仕事もうまくいったりいかなかったりします。失敗なんてありふれたことです。
仏教的に正しい態度は「精一杯やったら、失敗しても成功しても、どっちでも構わない」という態度です。それをしっかり覚えておけば、健康な心を維持することは難しくありません。