胸を張って「趣味はこれです」と言えるものがない。そんな忙しい世代をターゲットに開発され、10カ月待ちの人気商品になっている楽器がある。ヤマハの開発者が注目したのは「責任世代」のつらさだった――。

趣味のない男性が増加中

突然ですが、皆さんの「趣味」は何ですか?

ある情報サイトが、コロナ禍で趣味の習い事に関する調査を行ったところ、社会人では1位が「フィットネス系」、2位が「語学系」、そして3位が「音楽系」と「スポーツ系」(同率)でした(21年 EDUSEARCH調べ)。

一方で、男性では7年前に比べて「趣味ナシ」の人がはるかに増えたとの調査結果もあります。調査した20~50代で「趣味がない」と答えた男性が、7年前(2014年/2.1%)の4倍以上、約1割(9.2%)に増えたというのです(2021年 アスマーク調べ)。

一般には「コロナ禍で自由な時間が増えた」とされるのに、なぜ「趣味ナシ」男性がこんなに増えたのか。過去のインタビューから推察すると、近年はスマホやSNS、動画などを日常的に楽しむ人が増え、ついダラダラと時間を過ごし、結果的に「趣味と言えるほどのものがない」と感じる男性が増えているのかもしれません。

予約後10カ月待ちの楽器

加えてもう一つ予想されるのは、昔から変わらず多い「周りの目が気になる」「うまくできる趣味がない」といった男性特有の悩みです。

女性の場合は、周りやスキルがどうあれ「趣味では、自分が楽しいことをやる」との声が大多数を占めますが、男性、とくに40代以上は、昔から競争主義の時代を生き、仕事や勉強、そして趣味も「他人よりうまくできないと」と考えやすいのでしょう。

ヤマハ デジタルサックスの市場想定価格は約10万円。1台でソプラノ、アルト、テノール、バリトンの4つの音質を奏でられることが特徴。
写真提供=ヤマハ
ヤマハ デジタルサックス「YDS-150」の市場想定価格は約10万円。1台でソプラノ、アルト、テナー、バリトンの4つの音質を奏でられることが特徴。

「ですが大人の特権は、周りの評価を気にせず、自分のために自由に趣味を楽しめることだと思います」と話すのは、ヤマハ・電子楽器事業部の宮崎裕さん。

その特権をぜひ活かしてほしい、と18年春から宮崎さんが開発に関わったのが、同社の「デジタルサックス」(「ヤマハ デジタルサックス『YDS-150』」)です。

20年11月に発売されるや否や、予想をはるかに上回る売り上げを記録。部品調達も含めて生産が追い付かない状態となり、21年9月現在、予約から手にするまでなんと8~10カ月待ちだといいます。初年度売上は、当初計画の3倍になる見通しです。

開発者が注目した「責任世代」のつらさ

なぜここまで早く人気が広がったのか。その大きな理由は、後ほどご紹介しますが、デジタルサックスの開発にあたって、宮崎さんたちがまず意識したのは、メインターゲットとなる男性(おもに30代後半~50代後半)に共通のキーワード、「責任世代」だったそうです。

ヤマハ 電子楽器事業部 宮崎裕さん(写真提供=ヤマハ)
ヤマハ 電子楽器事業部 宮崎裕さん(写真提供=ヤマハ)

「責任世代の男性は、仕事に忙しい半面、ゴルフや釣り、バイクなど、過去にいくつか趣味を経験していて、多くがいわば“酸いも甘いも”知り尽くしているでしょう。一方で、趣味について回る『コミュニティ』のつらさも、多少は知っているはず」だと宮崎さんは言います。

サックスについても、一般のアコースティックサックスは、一人ではなかなか演奏しづらい。多くの人はバンドやサークルに所属して、他の楽器とともに発表の場、すなわち演奏会やコンサートなどを目標に練習するケースが一般的です。宮崎さんは、「仕事以外でも人間関係に気を使うとなると、それなりに大変だと思う」と分析します。

夜間でも練習可能

そこで、同社のデジタルサックスが重視したのは、「いつでも、どこでも、誰でも」カジュアルにサクソフォン演奏の楽しみを味わえるというコンセプトでした。

「いつでも、どこでも」を可能にしたのは、デジタル技術による15段階の音量調節です。ヘッドホンやイヤホンを接続すれば、夜間でもリビングルームでも音を外に漏らさず、のびのび演奏できる。「会社帰りや休日のひとり時間に、あるいはリビングのテレビから流れてきたCM曲を、家族の前で(小音量で)カジュアルに演奏し、『さっきのCM曲、お父さんが青春時代に聴いていた曲だよ』など、会話のきっかけにもなるはずです」(宮崎さん)

そしてもう一つ、「誰でも」のポイントは、吹き口に息を吹き込むだけで、初心者でもすぐ音を出すことができること。

さらに、息の圧力によって音量や音色に繊細な変化を加えられるので、「音を出すためのコントロール技術にばかり気を取られず、心のまま演奏する“感性”の領域に注力できると思います」(宮崎さん)

あっという間に演奏できるようになる

一方、同社のデジタルサックスを「ある種、男性の変身願望を満たす『魔法の杖』と言えるかもしれません」と話すのは、同B&O事業部でマーケティングを担当する玉井洋行さんです。

ヤマハ B&O事業部玉井洋行さん(写真提供=ヤマハ)
ヤマハ B&O事業部 玉井洋行さん(写真提供=ヤマハ)

「デジタルサックスは、アコースティックサックスと形状や素材が同じマウスピースやキー配列を採用したほか、アコースティック特有の響きや振動を感じながら演奏できるシステムを取り入れました。そのため、これまで『サックスを演奏したいけれど自分には無理』だと諦めていた人も、まるでアコースティックサックスを演奏しているような一体感が、すぐに味わえるはずです」(玉井さん)

ゆえに、アッという間に「なりたかった自分=意のままにサックスを演奏できる自分」へと変身できる「魔法の杖」だと感じてもらえるのではないか、といいます。

ちなみに、玉井さんいわく「サックスらしさとはなにか?」をアンケート調査で調べたところ、「ジャズ」のイメージとの親和性が高かったとのこと。若いころ聞いたジャズの繊細なサックスの音色に感動し、「いつか自分も演奏したい」と夢を抱いてきた男性も多いのではないでしょうか。

日本だけではありません。同デジタルサックスは、欧米やアジア諸国でもグローバルに販売展開され、世界各国で順調すぎるほど売れているそうです。

ある海外の専門ディーラー(サックス界のプロフェッショナル)は、自身のユーチューブで「まさに“ゲームチェンジング”な(社会を変えるほど画期的な)商品だ!」と絶賛したそうです。それだけ見た目も音色も触覚も、インパクトが強かったのでしょう。

開発エンジニアの苦労

もっとも画期的な商品だけに、「開発段階では、それなりに苦労もあった」と宮崎さん。

その一つが、「エンジニア」と呼ばれる開発者と「評価者」と呼ばれるプロのサックスプレーヤーとのやり取りです。

デジタル化に向けては、評価者(プレーヤー)が「こんな感じ」だと評するサックス特有の音色や音の強弱を、エンジニアがデジタルの数値に落とし込まねばなりません。

「ところが、評価者たるサックスのプロは、自身の国や文化、あるいは“サックス吹き”ならではの言葉遣いや表現法で『こんな感じ』を伝えようとするので、数値化するまで何度も何度も、議論を重ねる必要がありました」

一方で、困難な商品開発だけに、「会社にとっても大きな収穫があった」と宮崎さんは言います。

それが、デジタルサックスの開発を契機とした、自社の強みの「棚卸し」。

先の通り、サックスをデジタル化するうえでは、まず開発者(エンジニア)だけでなく協力を仰げるプロの評価者人脈をどれだけ持っているか、あるいは彼らの声を具現化できる研究、設計、調査関連スタッフの有無など、「人」が大きなカギを握ります。

また、まったく新たな視点で描いた「設計図」を現場で量産するためには、外部からの部品調達も含めた多様なモノづくりを可能にする体制や、完成品をグローバルに流通・販売できる幅広いチャネル(サプライチェーン)なども重要です。

ヤマハではサックス以前にもさまざまな楽器を電子化してきた。写真はサイレントギター™。(写真提供=ヤマハ)
ヤマハではサックス以前にもさまざまな楽器を電子化してきた。写真はサイレントギター™。(写真提供=ヤマハ)

「サックス以前に、ピアノやバイオリン、ギターなど、さまざまな楽器を電子化してきた自社の強みをサックスに応用できないかと、今回改めて見直すことで『棚卸し』につながりました」(宮崎さん)

デジタルサックスの開発過程では、「この土(市場)にどんな種をどう植えれば花が咲く(実現できる)のか」を、過去の豊富なエレクトリック実績からひもといた。それによって、「うちの会社は、この部分にも強みがあるんだ」と気づけたといいます。

宮崎さんたちが実感・実践した新たなモノづくりの考え方こそ、まさにアメリカの経済学者、デビッド・J・ティースが「ダイナミック・ケイパビリティ」と呼ぶ、企業の重要な能力です。

不確実性の高い競争市場で勝つために必要なこと

コロナ禍やデジタル化など、不確実性の高い競争市場に巻き込まれやすいとき、企業は既存の商品や市場にしがみつくのではなく、自社が有する知識やスキル、人材、あるいは資産など、多くの「ケイパビリティ(組織的能力)」を見つめ直し、それを再構築・再編成する能力が求められます。

まさにこれが、ティースが言うダイナミック・ケイパビリティ。この能力は、さらに「Sensing(感知)」「Seizing(捕捉)」「Transforming(変革)」という3つの能力に分解できるとされます。

ティースのダイナミック・ケイパビリティ

すなわち、市場や環境の変化をつぶさに感じ取り(感知)、それをチャンスと捉えて既存の知識やスキルなどの応用に乗り出し(捕捉)、そして企業の内外の資源や組織を体系的に再編して「変わろう」とする(変革)スキル。これらの力を持つ企業こそが、変化が激しい時代でも持続的な競争優位を保てる、との考え方です。

ダイナミック・ケイパビリティを活用した企業として、よく例にあがるのは、富士フイルムやIKEA(イケア)でしょう。

富士フイルムは2000年以降、写真フィルム市場が大幅に縮小するという危機を体験しましたが、そこで自社のコア技術を見直し、強みであるフィルム処理技術を応用することで、医療や美容などさまざまな新市場に進出しました。

一方のイケアは以前、商品の仕入れや、家具を倉庫から取り出す人手(以前はスタッフが担当)に苦慮した時期がありました。これらをピンチでなく変化の好機と捉え、完全自社生産に乗り出したり、「客がみずから倉庫から商品を取り出す」モデル(倉庫型店舗)を取り入れたりすることで、時代に合った持続的な成長を成し遂げてきたのです。

発売直後に口コミが一気に広がった

デジタルサックスも、古くからのサックス専門家の一部は、「邪道だ」とみるかもしれません。ですが「いざ発売してみると、デジタルは想像以上にSNSやユーチューブと相性がよかった。一般の方々も、演奏をすぐネット上にあげられるので、口コミがアッという間に広がった」と宮崎さん。

まさにこれが、発売直後の「初速」の口コミ速度にもつながったのでしょう。

実績ある企業にとって、変化はリスクでもある。でも勇気を持って新たな一歩を踏み出すことで、次世代につながるまったく違う景色が見えてくることもあるのです。