孤児院で育った少女ジェルーシャ(ジュディ)が、匿名の資産家(ジョン・スミス氏)の支援で大学に行く。ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』(1912年)は、多くの読者が胸をときめかせたシンデレラストーリーです。しかし、文芸評論家の斎藤美奈子さんは「大人の目で読むと別の構図が見えてくる」と指摘します――。

※本稿は、斎藤美奈子『挑発する少女小説』(河出新書)の一部を再編集したものです。作品からの引用は『あしながおじさん』(土屋京子訳、光文社古典新訳文庫、2015年)より。

羽ペンにインクで書かれた文字
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心うきうき大学デビュー

『あしながおじさん』は書簡体の小説です。舞台は寄宿制の女子大学。

大学の寮費と学費は資産家の「ジョン・スミス氏」から直接大学に支払われ、彼女には4年間、毎月35ドルのお小遣いが与えられる。そのかわり、月1回〈学業の進みぐあいや日常生活の細かなこと〉を綴った礼状を「スミス氏宛て」に書くべし。ただし、返事は書かないからそのつもりで。

そんな破格の条件で、彼女は大学に進学したのです。「あしながおじさん」は彼女が見知らぬ「ジョン・スミス氏」につけたあだ名。大学に通わせて、作家になるための教育をこの子に施したい。それがスミス氏の希望でした。

心うきうき大学デビュー。自分の名前を「ジェルーシャ」から「ジュディ」に改め、生まれてはじめて個室を与えられて、夢のような大学生活がスタートします。

勉強より遊びが難しい

しかし、彼女はまもなく、大きな壁にぶつかります。

〈大学で難しいのは、勉強じゃなくて遊びのほうです〉
〈わたしは世間ではよそ者で、みんなの話す言葉がわかりません〉

孤児院での生活しか知らず、一般の家庭を一度も訪れたことがないという彼女は、中流家庭の子が身につける教養も経験も決定的に欠落していたのでした。

〈この大学で、子供のころに『若草物語』を読んでいない学生は、わたしだけでした〉とジュディは告白します。

メーテルリンクを新入生と勘違いし、ミケランジェロが誰かわからず、『マザーグース』も『シンデレラ』も『ロビンソン・クルーソー』も『ジェイン・エア』も『不思議の国のアリス』も読んだことがなかった。人間がかつてサルだったとも、エデンの園が神話だとも知らなかった。『モナ・リザ』の絵を見たこともなかったし、シャーロック・ホームズの名前も聞いたことがなかった。

成長の過程で身につけるべき教養を一切もたなかった彼女は百科事典を調べ、お小遣いで本を買い、級友たちに追いつこうと努力します。それもこれも自分を真っ当な育ちの娘と思わせるため。自分で買ったクリスマスプレゼントの購入記録でさえ、彼女は故郷の「カリフォルニアから小包で届いた」ことにするのです。

度を越した気前よさの謎

ところで、気になるのはスミス氏の度を越した気前のよさです。大学の学費や寮費を負担したうえ、過分な小遣いを与え、洋服代やクリスマスのプレゼント代まで与え、休暇中に孤児院に帰るくらいなら〈死んだほうがましです〉というジュディの訴えに応じて、夏休みに滞在するための農場まで手配してやる。

彼の本心がどこにあるのか、ジュディの一方通行の手紙ではわかりません。でも想像はできる。作家にさせたい、なんてのは方便に決まっています。

オードリー・ヘップバーン主演の映画『マイ・フェア・レディ』をご存じでしょうか。音声学を専門とするヒギンズ教授が、下町育ちでなまりの強い花売り娘イライザを完璧な貴婦人に育てるという、あのお話です。ヒギンズ教授がイライザを拾ったのは仲間と賭けをしたからでした。

スミス氏の思惑も教授とほぼ同じだったはずです。孤児院育ちのイノセントな少女を教養のある一人前のレディに育てる。孤児院には恩を売れるし、本人には感謝されるし、むろん立派な慈善事業だし、ヒマな金持ちとしては最高の道楽です。

文才のあるジュディに白羽の矢を立て、手紙を書くことを課したのも、道楽の価値を上げるためでしょう。手紙は彼が投資の成果を知る手段ですが、どんなに成績優秀でも、杓子定規な文しか書けないクソまじめな子では、娯楽の価値は半減です。その点、新しい環境での驚きと喜びを大っぴらに報告するジュディの手紙は、そうとうおもしろかったはずです。

顔を見せないスミス氏

顔を見せないという彼の判断は正解でした。影のキーパーソン「ジョン・スミス氏」は匿名の人物で、影から見守っているから価値がある。

この人と顔を合わせたら最後、ジュディは恐縮し、萎縮して、とてもここまでのびやかな大学生活は送れなかったでしょう。

ところが、途中でオキテ破りの異変が起きます。大学に入って8カ月後、ジュディはおじさんへの手紙で衝撃の事実を告白します。

〈わたし、男の人とお散歩して、おしゃべりして、お茶を飲んだんです。それも、すごく上流の方〉

問題の人物はジャーヴィス・ペンドルトン。クラスメートのジュリアの叔父です。

どうせわかることなので、ネタバレ承知で先に答えを明かすと、このジャーヴィス・ペンドルトンこそが「あしながおじさん」の正体です。

おとなしく引っ込んでいればいいものを、このチャラケた男は、手紙だけでは飽き足らず、手紙の主がどんな子かを確かめたくなり、姪の面会にかこつけて、女子大にのこのこ偵察に行ってしまったのでした(ちなみにジャーヴィスはジュディの14歳上なので、彼女が18のとき、彼は32歳です)。

それを知らないジュディはしかし、ジャーヴィスとの距離を徐々に縮めていきます。

夏休みにスミス氏のはからいで滞在したコネチカットのロック・ウィロー農場が、ジャーヴィスが少年時代の休暇をすごした場所だったことも、農場にジャーヴィスが現れて楽しい休暇になったのも、むろん偶然ではありません。

ニューイングランドの農家
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スミス氏の変貌

ジュディの側から見れば、『あしながおじさん』は女子大生の成長の記録であり、楽しい大学生活案内です。が、ジャーヴィスの側から見ると、これは金持ちの道楽息子が小娘に翻弄される物語です。

斎藤美奈子『挑発する少女小説』(河出新書)
斎藤美奈子『挑発する少女小説』(河出新書)

一切返事を書かず、ジュディの学生生活に口を出さないはずのスミス氏は、彼女の行状が気になるあまり、やがて秘書を通じて、あれこれ指図してくるようになった。

2年生になったジュディは、クリスマス休暇を親友サリー・マクブライドの実家に招待され、はじめて「ふつうの家庭」の暮らしを体験します。

〈最高にすばらしい休暇を過ごしています〉と彼女はノーテンキに書きます。

〈家族もとってもすてき! 家族がこんなにすてきなものだとは夢にも思いませんでした〉

スミス氏=ジャーヴィスは、この手紙を苦々しく思ったのでしょう。翌年の夏、今度はマクブライド家の別荘に招待されたと喜ぶジュディに、その誘いは断れと秘書を通じて伝えてきた。昨年と同じようにロック・ウィローの農場に行けと。

信頼していたスミス氏のまさかの命令。ジュディには意味がわかりません。このころから、ジュディは少しずつスミス氏に逆らうようになっていきます。

反抗するジュディ

3年生になる9月。ジュディは、出版社に送った原稿が50ドルで売れたこと、奨学金の申請が通ったことを報告します。

ところがスミス氏はまたもや秘書を通じて、見も知らぬ人からの厚意を受けることは望まない、奨学金は辞退せよ、といってきた。

ジュディは断固、抗議します。

〈これは「ご厚意」などではありません。賞金のようなものです。わたしが一所懸命勉強して勝ち取ったものです〉〈おじさま、奨学金辞退のお話は拒絶いたします。これ以上あれこれおっしゃるならば、毎月のお小遣いも返上いたします〉

かわいそうな孤児を一人前のレディに育てるつもりだった道楽おやじの思惑を、彼女は軽く超えてしまった。これはスミス氏=ジャーヴィスには大きな誤算だったはずです。

2年生でサリーが級長選に立った際に彼女は書きます。

〈いいですか、おじさま、わたしたち女性が選挙権を得たあかつきには、あなたがた男性は心して自分たちの権利を守ったほうがよろしゅうございますよ〉

3年生に進級した後は、もっとスゴイことをいいだした。

〈あのね、おじさま、わたし自分も社会主義者になろうと思います〉

〈たぶんわたしは社会主義者になって当然の人間なのだと思います。だって、プロレタリア階級の生まれだから〉

プロレタリアなんて言葉が、まさか少女小説に出てくるとは!

女子大でジュディは社会の矛盾に気づき、階級差に気づき、変革の必要性も知ってしまった。「お嬢さまぶりっこ」に明け暮れていたジュディは、このころから自身の過去を見つめ、将来に思いを馳せ、自立への道を歩みはじめるのです。