親にとっては地獄のような季節
子どもにとってうれしい夏休みは、親にとっては家事の負担が大きく増える、地獄のような季節かもしれない。何しろ、1日中子どもが家にいるのだ。毎日お昼ご飯を用意するなど世話を焼かなければならないし、宿題をやっているかどうかも気になる。自由研究は、手伝ってやらなければいけないかもしれない。
夏はそうでなくても暑くてモノが腐りやすく、つくりおきに頼りづらい季節でもある。暑くてしんどい、食欲がわかないといった人もいるだろう。火を使う料理をしたくなくても、料理はしなければならない。負担が増す夏、いつも以上に市販の総菜に頼る頻度が増すという人もいるのではないか。コロナ禍でテイクアウトやデリバリー対応を始めた飲食店が多いこともあって、今は選択肢も増えている。
「総菜論争」で物議をかもすのはいつも男性
市販の総菜の扱い方は、近年のホットな話題でもある。昨年から今年にかけ、総菜を巡る論争がくり返し起こっているのだ。
最初は昨年7月に起きた「ポテサラおじさん」論争。総菜コーナーでポテサラを買おうとした幼児連れの女性に対し、高齢男性が「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と発言したことを目撃者がツイッターで投稿し、高齢男性の発言に対する批判が集中した。
8月には冷凍ギョーザを出した妻に夫が「手抜きだよ」、と言ったことに対する批判が巻き起こり、SNSでの盛り上がりを見て「スッキリ」(日テレ系)が報道したところ、街頭インタビューで男性がから揚げを「手抜き」と発言したことが、また物議をかもした。
今年1月には、刺身パックをそのまま食卓に出したら、夫に「結婚した意味がない」とまで言われた、と読売新聞投稿サイト「発言小町」に30代の女性が投稿。読売新聞やテレビなどが取り上げて論争が起こった。
物議をかもす発言をするのは、いずれも男性。その発言に対し、SNSで批判をするのは主に台所を担う女性たちである。論争が盛り上がるのはもちろん、SNSが発達したからだ。しかし、「総菜を買ってきていいかどうか問題」自体は、少なくとも1970年代から存在していた。
「総菜論争」は半世紀にも及ぶ
1976年発行の『日本の民俗2 日本人の衣食住』(瀬川清子、河出書房新社)は、「午後五時すぎのターミナルのデパートに入ると、その食料品部には、勤めをおえて帰る男たちが、いろいろの副食物を買い漁っている風景に出くわす」、とどちらかと言えば批判的に時代が変化した様子を書いている。
男性が買っているところが興味深いが、それは当時まだ、都心でフルタイムで働く既婚女性が少なかったからと考えられる。彼らは独身か、妻に頼まれたかしていたのだろう。総菜はまだ、デパ地下ぐらいでしか潤沢に売られていなかった時代である。
また、時短レシピで一世を風靡した小林カツ代も1981年に出た『働く女性のキッチンライフ』(大和書房)で、たまにはお総菜を買ってもいい、と女性たちを応援する記事を書いている。それは、総菜を買う女性が増え始め、批判されるようになっていたことへの反論である。しかし、「買ってきたものをポンと容器ごと食卓に移しただけというのでは、やはり味気ないですね」とも書いている。その後1990年代には、新聞の家庭面で買うことを肯定したうえで、総菜を移し替えるかどうかが議論になっていた。
私たちは半世紀もの間、総菜を買える環境で暮らしながら、いまだに買っていいかどうか批判にさらされ、買ってきたものをそのまま食卓に出していいかどうかの結論も出せていないのだ。
働く妻の家事時間は働く夫の2.6倍
総菜論争が始まったのは、専業主婦が既婚女性の多数派だった時代が終わり、働く女性の割合が増加し始めた時期と一致する。そして今は働く既婚女性が専業主婦の倍以上いる。家族の誰かが、あるいは皆が家事を行わなければ生活は回らない。皆が分担すれば1人当たりの負担は軽くなるが、残念ながら日本では、現在に至るまで妻たちの負担が圧倒的に大きいのだ。
データでも、その実態は裏付けられている。2020年版の「男女共同参画白書」によると、仕事をする女性の家事時間は、子どもがいない夫婦世帯の女性が1時間59分で夫の2.6倍にもなった。また、クックパッドが2017年に発表した「おうちごはん白書2016」によると、週1回以上料理する人の中で、夕食を週7日作る人が45%も占めていた。近年の総菜論争の発端となるのも、おそらく料理を妻任せにしていて現場を知らない男性たちの発言である。
手作りにこだわるなら、こだわる側が作ればいい
外で働いてきて、帰ってくるとすぐ夕食の支度。そうした毎日に疲れている女性は多い。市販の総菜や冷凍食品などの加工食品、ミールキットは、そもそも忙しい女性たちのお助けアイテムとして誕生した。だから利用はしていい。
もし、市販の総菜を家族が嫌がるとすれば、その理由をきちんと確認し対策を考えよう。
味が合わない場合は、別の商品を試すのもいい。また、炒め物なら他の野菜などを炒めて加え、味を薄めるといったリメイクの方法もある。平野レミは、『家族の味』(ポプラ社)で、コンビニのおでんを家にストックしてある出汁で煮直したことがある、と書いている。
しかし、リメイクはいずれもひと手間かかるため、疲れ切った人にはあまり向かない。リメイクしにくい総菜もある。総菜を買うのではなく、仕上げ調理の工程が組み込まれていて味をカスタマイズしやすい、ミールキットや冷凍食品に切り替えたほうがいいかもしれない。
仕上げ調理もつらいほど料理がおっくうなら、家族に相談して料理当番を交替してもらったほうがいいのではないか。きちんと話し合えば、問題解決の方法が見つかるかもしれない。手作りにこだわるなら、疲れ切った人に押しつけず自分で作るべきなのだ。
もしパートナーに料理の経験がなかったとしても、今はインターネットでいくらでもレシピを検索できる。今は子ども向けを含め、初心者向けのレシピ本もたくさん出ている。料理動画など分かりやすいレシピ情報はインターネット上にも多い。また、余裕があるときに、家族にも料理を教えていくとよいのではないか。
そのまま出されたくない人は「手作り」に幻想を持っていないか
買ってきた総菜を器に移し替えるかどうかの是非は別の問題だ。刺身パックなどそのまま出すことを想定して盛り付けを工夫し、売られている商品もある。しかし、是非はその人や家族の感覚の問題なので、実は良し悪しを第三者には決められない。プラスチックの容器が苦手、という人もいるだろう。これも家族で話し合うことが必要である。
一つだけ気になるのは、そのまま出すのは気が引けるという人、出されたくないという人の中には、手作り料理に幻想がある人もいると思われることだ。買ってきたものを出されるのがどうしても嫌だ、という人も同様である。
主婦が主流だった時代の習慣が仕事を持つ女性を苦しめる
令和を生きる人たちが手作り料理に幻想を抱く要因は、昭和の暮らしにあった。高度経済成長期、日本で日替わりの手作り料理がスタンダードになった。主婦が既婚女性の主流になった時代である。この頃は、食材の選択肢が豊富になり、家電が普及し台所が板の間になった台所革命期とも言うべき時代で、新しい生活様式にふさわしいレシピと料理に対する心構えを、主婦雑誌など料理メディアが盛んに紹介していた。
その前の時代は既婚女性も仕事で忙しく、食卓には手作りだが常備菜や漬物といったつくりおきが組み込まれていた。作りたての料理だけがデフォルトではなかったのである。
高度経済成長期の一時期にできた習慣がデフォルトとされているものは多いが、それは食卓も同様である。主婦業に専念できる女性たちが採り入れた、日替わり手作り献立がやがて当たり前になったことが、外で仕事を持つ女性たちを苦しめ続けているのだ。
総菜をそのまま出すかどうかは家族で決めること
母親が専業主婦だった、という人は男女ともに今でも多い。専業主婦が主流だった昭和育ちはもちろんのこと、平成育ちの人たちでも多いのは、つい最近まで子育てと仕事の両立が難しく、母親になったのはキャリアを中断した人たちが中心だったからである。
しかし、現在は子育て世代でも共働きが主流。フルタイムで働いて帰ってきて、それからまた家事をするダブルワークに疲れている人は多い。また、仕事を持つ持たないにかかわらず、台所の担い手に交代要員がいないとすれば、それは365日休みなしのブラックワークと言える。台所の担い手にとって、家庭がブラック職場だとすれば、疲れ切ってやる気を失うことがあるのは当然だ。
総菜について誰かが不満を言ったときは、家族がきちんと向き合うチャンスである。なぜ総菜を買うのか。ふだんどのぐらい家事に疲れているのかを、ちゃんと聞いてもらおう。あるいは、仕事の負担がかかっていて家事に手が回らないことを。
もしかすると、パートナーも仕事で疲れることがあり、いつも以上にストレスが大きくなっているのかもしれない。その愚痴を聞いてあげることも必要だろう。互いの大変さを語り合い、どのようにすれば支え合えるのか改めて見直す。ケンカも議論も、互いをよく知り大切にするためのプロセスである。そういう場面でこそ、よりよいパートナーシップが育つのではないだろうか。