現在、広告業界で働きながら、ツイッターでフェミニズムに関する発信を続けている笛美さんは、かつて大手広告代理店で働いていました。2016年、電通で働いていた高橋まつりさんが亡くなったというニュースを見た笛美さんは、大きな衝撃を受けました――。

※本稿は、笛美『ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生』(亜紀書房)の一部を再編集したものです。

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高橋まつりさんのツイッター

30歳になろうとする頃、少しずつ世の中の空気が変わりはじめました。

2016年、当時電通の新入社員だった高橋まつりさんが前年のクリスマスの朝に自殺したことが大きく話題になりました。会社でそのニュースを同僚が話しているのを聞いたとき、まるで冬のコンクリートの冷たさを肌で感じたような気がしました。

気になってスマホでまつりさんのTwitterアカウントを検索してみると、アカウントは削除されずにちゃんと残っていました。誰にも見られないように気をつけながらスマホで彼女のタイムラインを見ました。

「部長(…)「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」「今の業務量で辛いのはキャパがなさすぎる」
わたし「充血もダメなの?」

この人は、私なのだろうか? 「充血した目で会社にくるな」は私が新入社員のときに先輩から指摘されたこと、そのまんまじゃないか。

「1日20時間とか会社にいるともはや何のために生きてるのか分からなくなって笑けてくるな」

うんうん、わかるよ。1日20時間会社にいると、意識が朦朧として、まともな思考ができなくなるんだよね。みんな平気なのかと思ってたけど、辛いのは私だけじゃなかったんだ。

怖いくらいわかりすぎる

「男性上司から女子力がないだのなんだのと言われるの、笑いを取るためのいじりだとしても我慢の限界である。おじさんが禿げても男子力がないと言われないのずるいよね。鬱だ~」

ほんとそれ! ていうか、こんなかわいい人にまで女子力いじりする上司がいるんだね。腹立つな。

「私の仕事や名前には価値がないのに、若い女の子だから手伝ってもらえた仕事。聞いてもらえた悩み。許してもらえたミス」

なんだろうね、大学まではクラスのリーダー的存在でも、社会人になってからいきなり「若い女の子」扱いされるあの感じ。ありがたいんだけど複雑だよね。人はいつか老いるし。

「優しかったり面白かったり超仕事できたり後輩や同僚思いだったりする先輩や同期も、たまにプライベートが垣間見えることがあって、仕事が終われば女の子を弄んだり泣かしたりしているいわゆるところの『広告マン』なんだなぁと思うと切ない気持ちになる」

うんうん! 自分にはやさしい上司が、他の女子を粗末に扱っているのを見ると空恐ろしくなるよね。男性の先輩のモテっぷりに比べて女性の自分は……と愕然とすることもあったよ。

「異性とまともに愛を育む時間がなく子孫を残せる可能性がないのでは?と危機感を覚えてるのに、しっかり生理痛にだけは悩まされてるのかわいそうじゃないですか?」

ああ、怖いくらいわかりすぎる。自分は子孫を残せないかもしれない絶望感。でも体は子孫を残すために機能し続ける虚しさ。

私はただ運が良かっただけ

まつりさん、辛かったね。寂しかったね。殺伐としたオフィスの片隅で、押しつぶされそうになりながら頑張っていたんだね。

彼女は私と同じような景色を見て、私と同じような痛みを感じていた。しかも、私がこれまで自覚しないようにしてきた感情の一つ一つを言語化していた。その存在に気づいたときには、彼女はもうこの世にはいなかったけれど。

広告業界の女性たちは、多かれ少なかれ、きっとまつりさんと同じような経験をしているはずです。ちょっとでも条件が違ったら、私だってまつりさんと同じ行動をとっていたかもしれません。ただ、私は運よく自分が好きな仕事ができていたから、長時間の残業や理不尽にも耐えることができました。そして私には運よく自分のことを気にかけてくれる密な人間関係がありました。でもどんな部署に配属されるかなんて、努力ではどうにもならない。もはや運でしかない。それは会社の中で何の権力も持たない新入社員がどうにかできる問題ではないと思うのです。

もしも私がまつりさんと同じ部署にいる先輩だったら、悩みを聞いてあげられたのに。いや、でも無理だったに違いない。きっとその場にいたら、忙しくて殺伐とした空気に飲み込まれてしまって、誰かを気遣うとかそんな余裕もなかったかもしれません。かわいい新入社員に女の子ポジションを脅かされるのではないかと、ライバル心を燃やしていた可能性もあります。

残業時間に注目するのは「ピントがずれている」

ニュースでは残業時間月100時間という労働環境の悪さばかりが注目されたけど、私はどこかピントがずれているような気がしました。実際、広告業界では月100時間残業している人なんてざらにいました。まつりさんを苦しめたのは長時間労働に加えて、女性だからこその終わりのない苦しみだったんじゃないか? そんな思いが頭を離れませんでした。

女性として日常的に上司にバカにされ、男性より圧倒的に下の存在であることを自覚しながら、そこに長時間労働が組み合わさったときに、人はどれだけ自尊心を削られるだろう。男性社員なら長時間労働の先にも輝かしい栄光が見えるのではないか。六本木のクラブや銀座コリドー街に行けば、きれいな女の子たちにチヤホヤしてもらえるだろうし、美人の奥さんと結婚できて家事も育児もしてもらえるだろう。でも私たち女性社員は、はたして彼らと同じように働いたところで報われるのだろうか? 子孫も残せないのに生理痛に耐えて残業する日々を何十年も繰り返すのだろうか。

まつりさんの一件から広告業界の労働環境は大きく改善され、どの会社でも夜10時以降の残業はオフィシャルではNGになりました。あれだけ変わらないと思っていた「残業してなんぼ」という慣習も建前としてはなくなったのです。それは奇跡のようなことに思えました。資料をスピーディに作成したり、会議を効率的に進める方法が導入されたり、クライアント対応を調整したりする部署もありました。完全ではないにしろ、やればできたんだと思いました。

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業界を大きく動かした高橋まつりさん

広告業界には「クリエイター・オブ・ザ・イヤー」などの賞があり、広告業界に顕著な変化をもたらした人は毎年表彰されます。たいていは有名クリエイターがノミネートされるのですが、近年で業界を本当に動かしたのは、紛れもなく高橋まつりさんだったと思います。

「まつりさんは敏感な子だったのでは?」「ゆとりは打たれ弱いから」「プライドの高い東大女子が社会に出て鼻をへし折られたのだろう」「仕事ではなくプライベートに問題があったのでは?」「まつりさんのせいで残業すらできなくなった」

そんな社員の声もちらほら聞かれました。

きっと表面上でも話を合わせた方がいいのでしょうが、私は内心モヤモヤしていました。でも実際に同じような経験をした自分たちが生き残って、まつりさんが亡くなってしまったことを考えると、「近頃の若者はがまん強さが足りないから」という結論に到達するのが理解できてしまう自分もいました。

もし自分の娘さんが将来同じ目にあったら、彼らはそんなことを言えるんだろうか? でも彼らは「娘には広告の仕事はさせない」と言うのです。大切な娘にさせたくないヤバい仕事をしている女が、あなたのすぐ目の前にいるんですけど。

「選ばれるはずない」最初からわかっていた

まつりさんの件が話題になった頃に、働く女性のストレスを癒すことをコンセプトにした化粧品のコンペがありました。

クライアントのオリエンは「話題性を出したい」ということだったので、いまちょうど話題になっているあのことを出さないわけにはいかないだろう、むしろそれを避けて「前髪を切りすぎちゃった」みたいなゆるふわなストレスを描いたら、噓になってしまうだろうと思いました。

CM企画「女性のストレス」篇
<働く女性に様々な言葉がぶつけられ、肌がダメージを受ける様子を描きます>
「疲れた顔をするな」「女子力がない」「女の子は偉い人の隣に行ってお酌して」「女の賞味期限は25歳まで」
NA:現代女性の肌はかつてないほどの大きなストレスにさらされています。
○○○美容液は△△成分配合で、肌ストレスを軽減。
使うたび、健やかな肌へ。
<夜に自宅で女性が商品を使ってほっとしたような顔>
NA:いまを生きる女性とともに。
○○○美容液。

社内での企画打ち合わせのとき「このクライアントでは実現が難しいと思いますが、こんな方向性もあるかもしれません」と前置きしつつ、この企画をプレゼンしました。

私以外は男性メンバーだらけの会議室は凍りついてしまいました。

男の人は女の怒りの表現に慣れていないのかもしれない、そう思いました。

クリエイティブ・ディレクターは言いました。

「広告業界は、最近あんな事件が起きたばかりだしねえ。こういう強い表現だと、クライアントもショックを受けてしまうかもしれないね。笛美の気持ちは伝わるんだけど、もっと他にも癒しを描けてる企画があるから、今回はそっちを出そう」

この企画が選ばれるはずないことなんて、出す前からわかっていました。

近くて遠い#MeToo

2017年に起きた#MeTooのムーブメントを、私は遠い世界のできごとのように眺めていました。ジャーナリストの伊藤詩織さんが元TBS記者の山口敬之氏にホテルに連れ込まれて性行為を強要されたというニュースを聞いて、新入社員のときに先輩にホテルに連れ込まれかけたことを少しだけ思い出しました。でも当時はちょっと気になるニュースだなとしか思わず、そのまま流していました。

その後、#MeTooの声は、広告業界の男性に向けても上がり始めました。著名なブロガーのはあちゅうさんは、元電通のクリエイティブ・ディレクター岸勇希氏からのセクハラ・パワハラに対して声を上げました。グラビア女優の石川優実さんは、電通の名を騙って枕営業をさせた男性を告発し、芸能界にはびこる枕営業文化を明らかにしました。芸能界の枕営業の噂は、やはり本当だったのだと思いました。

うまく言語化できなかった

仕事の合間にニュースアプリでそれらの記事を読みながら、男性たちのした行為自体にはまったく驚きませんでした。正直、本当によくある話だなと思いました。なぜセクハラをする男性というのは、判で押したように同じ言動をとってしまうのだろう? 普段は素晴らしいクリエイターとして評価されている人たちも、セクハラするときはちっともクリエイティブじゃなくなる。

でもなぜ彼らの行いが悪いことなのか、なぜ世の中が騒いでいるのか、自分の言葉でちゃんと説明できませんでした。他の人はバレないように上手くやっているのに、そこら辺を誤って下手にやったから悪いのだろうと思っていました。

私の辞書に「人権」という言葉はあっても、そのページにたどり着くことはできませんでした。セクハラは人権を侵害していて、人間としての尊厳を奪っている。

どんなに競争の激しい業界だからといって、どんなに地位のある業界人だからといって、女性の人権を侵害していいわけではない。偉いクリエイターさんも被害にあった女性も、本当は人間として平等なのだ。そんな当たり前のこともわかりませんでした。

彼女たちが訴えてくれていることが、どれだけ自分の人生に直結しているかも気づいていませんでした。

私はむしろ訴え出た女性に対して驚いていました。なぜ他の人も同じ目にあっているのに、ひとりだけこんなに騒いでるのかな? なぜそこまでして訴え出たの? 社会人生命が終わるのが怖くないのだろうか? 彼女たちはきっとメンタルが強い特別な人で、自分とは違うんだろうと結論づけるしかありませんでした。

「女を使う」ってどういうこと?

会社の男性たちは「怖い時代になったものだ」「うかうか女子社員と会話もできない」「なんでもセクハラになってしまう」などと古典的なリアクションをしていて、私もそうだなと思っていました。

笛美『ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生』(亜紀書房)
笛美『ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生』(亜紀書房)

でもこんなに世の中で騒ぎになっているのを見ると、やはりうちの業界はおかしかったのかもしれないと思う反面、「異常な環境でサバイブできてる私って特別だ」と自分に酔ったりもしました。

#MeTooをした女性に対して「自分だって女を使って散々トクをしたんだろ」という批判をよく見かけました。その言葉がなぜか私の心にチクリと刺さりました。

私も「女を使った」と男性陣に言われたことがあります。「女を使う」とはどういうことでしょうか? 女として求められる化粧や服装や笑顔や愛想を発動することが「女を使う」になるならば、私は女を使ったことになると思います。自分が「女を使った」から、相手が「女」に反応してセクハラや性加害に及んだのだとしたら、もしかしたら責任の半分は自分にもあるのではないかと思っていました。

じゃあ、なぜ私は女を使わなければいけなかったのでしょうか? 刻々と迫っている、と思わされている女性の人生のタイムリミット。わずか数年で確固たるキャリアを身につけなければならない焦り。早く結果を出すためには、権力のある人と仲よくしたい、無理なことも我慢しようと思うのは、そんなに不自然なことでしょうか?

たとえ「何かおかしいな?」と思っても相手から逃げ出せたでしょうか?