日本の教育には何が欠けているのでしょうか。教育学者の汐見稔幸さんは、従来型の、先生が子どもたちに情報や知識を提供するlessonではなく、studyが必要だと説きます――。

※本稿は、汐見稔幸『教えから学びへ 教育にとって一番大切なこと』(河出新書)の一部を再編集したものです。

日本の教師
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lessonとstudyの違い

「すぐに役に立つ知識を教えない」ということも、これからの教育において非常に大事なポイントだと私は考えています。

そう考えるとき、まず「授業」という言葉の意味について改めて捉え直したいのです。「授業」は、もともと翻訳された言葉です。もとの言葉は2つあって、1つはlesson、もう1つはstudyです。

lessonの意味は、授業や学課のほかに、教会の用語として日課や教訓のことも指しますし、訓練を課すというような意味もあります。

一方、studyは勉強、学習、研究という名詞でもあり、研究する、調べる、観察するなどの動詞でもあります。studiumという「熱意」や「労を惜しまない努力」という意味のラテン語から派生しています。studiousになると「勉学好きな」という意味になるのですが、何か面白いものを見つけて夢中になって調べるということからstudy「研究する」という言葉になっていったのでしょう。

子どもが学ぶということは、それを知ろうと夢中になることです。そのようなときに学びは深まります。脳科学的に言うと、表面の大脳新皮質だけでなく、もっと深い、感情や生命を司る部分が全て働くことも含まれます。

「あれ、不思議だな」「どうしてだろう」「どうやったらいいんだろう」という、深く身体も反応してしまうような感情である「情動」が働くような問いを抱き、そして「え?」「馬鹿な!」「なるほど!」「こうやったらできるかもしれない!」というような、強い感情が動き出すことでstudyにつながる可能性が高まるのです。

「先生には教えられない」

studyと呼びたい印象的な出来事として、2つ例をご紹介しましょう。

1つは、1980年代後半に行われた東京都のある小学校の先生の授業です。

ある日、世界の国について教える授業がありました。

「先生は外国に行ったことがないので教えられないから、教科書を読んで自習にします」と言って教室から出て行ってしまいました。子どもたちは驚いて、「どうするの?」「先生、ずるいよ。給料もらってるのに」といろいろな意見が出ます。「先生、授業に来てください」と職員室に呼びに行きますが、「言っただろう。先生はここに出てくる国に一度も行ったことがないし、テレビで見たくらいで、みんなとあまり違わないんだ。そんなことで授業なんてできないから、悪いけど自習」と断られてしまいます。

大使館へ行って聞いてみよう

教室に戻ってみんなで相談しているうちに、ある子がこんなことを言い出しました。「大使館って知ってる? いろんな国が東京に大使館を置いてるって聞いたことがあるよ」

「じゃあさ、その大使館っていうところに行ってその国のことを聞いたらいいよね」

「それやってみよう!」

ここまでくると子どもたちの目が輝き出します。国の名前をそれぞれが挙げて、担当を分担しました。そして再び職員室に行きます。

「先生、大使館に行って聞いてみようっていう意見が出たから、行ってきていいですか」
「おお、それはすごいね。どうぞどうぞ。それで、先生にも教えてくれよ」
「大使館にどうやって連絡したらいいですか」
「先生は知らないよ。先生は大使館にも行ったことがないから」
「じゃあどうしようかな」
「電話帳があるよ、そこに」

そこから、子どもたちは電話帳で電話番号を調べて電話をかけて、「○○小学校の6年△組ですが、社会科の歴史でイギリスのことを知りたいので、ちょっとお話を聞きに行っていいですか」と聞いたそうです。

「行くなら、何を聞くか最初に決めていくといいね。あと、どうやって記録取るの?」

先生は最低限のアドバイスや質問をします。そしてそれぞれ子どもたちだけで準備をして大使館に出かけていきました。すると、最寄り駅の職員から電話が学校にかかってきます。「おたくの学校の子どもたちが駅にいますけど、先生がいないので電話しました」

「うちのクラスの生徒です。行き先は知っているので大丈夫ですよ」

子どもたちは自分たちの力で取材をセッティングし、取材して、わかったことを報告し合い、それらを冊子にまとめました。

地球儀を持った小学生
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オーロラのことが知りたい

もう1つは、あるフリースクールでの話です。

ある生徒が、オーロラの写真を見ながら「オーロラのことを知りたいなあ」と言いました。もう1人が、「本当に綺麗だよな。でもこれ、本当は動いてるんだぜ。ときどき色も変わるんだって」。それを聞いてまた1人、「本当? 絶対見たい」と、オーロラを見たい生徒がどんどん増えていきました。

「どうしたらオーロラを見られるのかなあ」と考えているうちに、「寒い国に行くしかない」「アラスカに行こう!」「どうやって行くの?」「飛行機で?」と、どんどん話は進みます。

「でも、お金はどう手に入れるの?」

どうすればお金が集められるのか。みんなで知恵を絞り、バザーをやり、道端で「アラスカに行くお金を集めています」と募金を集め、とうとう八人でアラスカへ行くお金を集め、実現できたそうです。

1枚の写真をきっかけに、みんなで調べて、お金を集め、実際にオーロラを体験して、写真もたくさん撮影してくることができました。

一生残る学び方

子どもたちにとって、どちらのケースも、そのときの学び方はきっと一生残るはずです。

大使館に出かけるのはまだしも、オーロラというと普通の学校では、行けるはずがないと思われるかもしれません。でも、小さなことでもいいのです。学校でできなければ家庭ででもいい。やりたいことを見つけたとき、どうすればできるかを自分たちで考えて実行することは、子どもたちにとって大きな学びになります。

地球サミットでスピーチをした12歳

セヴァン・カリス=スズキというカナダの環境活動家がいます。1992年、ブラジルのリオデジャネイロで行われた地球サミットに12歳で参加し、子どもの視点から環境について感動的なスピーチを残した女性です。

汐見稔幸『教えから学びへ 教育にとって一番大切なこと』(河出新書)
汐見稔幸『教えから学びへ 教育にとって一番大切なこと』(河出新書)

父は日系カナダ人の遺伝学者で環境活動家のデヴィッド・スズキ。アマゾンのジャングルの環境が破壊されているということで、セヴァンは幼い頃、父親に連れられてアマゾンに行きました。そのとき、夜の飛行機の中からアマゾンのジャングルがあちこち焼畑農業で燃やされているのを見ます。アマゾンは雨が多く、焼畑にしたところの土は全て流され、あとは砂漠になり木が生えてこないことを知りました。

彼女はその後、9歳のときに友達とECO(Environmental Children’s Organization)という小さな環境学習グループを立ち上げ、環境問題について学び始めました。12歳の頃、リオデジャネイロの地球サミットに自分たちでお金を貯めて参加しますが、発言の機会が与えられていたわけではありませんでした。

「私たちにも子どもの視点から発言させてほしい」と何度も粘り強く交渉をして、6分間だけ時間をもらうことができ、最終日にスピーチをしたのです。彼女のスピーチは、そのサミットの中で最も感動を与えるものだったと世界中で話題になりました。

その様子は、『あなたが世界を変える日 12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ』(学陽書房)という本にもまとめられています。

大人はどこかで、「子どもだからそんなことはできない」「子どもだからまだやるべきではない」と子どもの可能性を見くびっているところがあります。しかし、子どもたちは、大人にもできないことができる可能性を秘めています。体験を通して何かを知ることで、居ても立ってもいられなくなる行動力を持っているのです。

熱中し没頭する時間をつくる

「子どもたちが没頭する、熱中する時間をつくる」ことが、本当に子どもたちに必要な授業であり、教育です。教育のイメージをこのように切り替えると、「授業」と呼ぶのはちょっとおかしい。

日本では、国が組み立てた内容を、教育関係者が具体的な教材にします。その教材や教科書を使いどう教えるかを考えるのが教師です。つまり、教師は教え方のプロであり、教える中身についてはこれまであまり絡んできませんでした。そういう点にも考慮し、学びを活性化させるための方法を柔軟に、大胆に考えていく必要があると思います。

20世紀型のこれまでの教育は、子どもたちが黒板に向かって並んで座り、先生が情報を提供してくれる人という限定された条件の上でのトーク&チョーク方式の教育でした。いまはICT化も進み、たくさんの情報をインターネットから拾うこともできるようになりました。地球の反対側の子どもたちと映像をつなげることもできます。

いま、学校の授業にうんざりしている子どもたちが「これは面白い、すごい!」と感じ、没頭し、熱中するような本物性、そういうものを学校が用意する素地はできています。

子どもたちがあっと驚くことを用意する

本物性とは何でしょうか。それはやはり、子どもたちの心の深いところが動くことです。小さなことでもいい。そこに何か大事な真実があれば、子どもたちは感動します。

社会のどうでもいい論理でまだ汚されていない子どもたちには大きな可能性があります。子どもたちのことを「まだ何もわかっていない」と言う人もいますが、大人のつくった本来は必要のない知識に汚されていない子どもたちだからこそ、心を揺さぶるような授業をしなければ、子どもの可能性を引き出す教育にはならないのです。

「子どもはこうだ」と勝手に解釈して、失敗しないように先に手を打ってしまうのではなく、子どもたちの可能性をリスペクトして、教師や親が必死になって、子どもたちがあっと驚くことを用意してあげてほしい。

そのときの子どもの内面の反応についても「きっとこうに違いない」などと下手に推測することなく、ただ、子どもたちが感動し、面白がっている、その事実に謙虚であればいいと思います。評価したり価値づけをしたりするというのは、本来はこういう態度のことを言います。アセスメントです。そして、「子どもって面白いな」と思い続けていることが、子どもの教育を支える教師の仕事であり、親の役目なのです。