1時間4万円、コンサルティングのすごい中身
「パーソナルコンサルティングをするお客様には『苦手な色はありますか』と必ず聞きます。苦手な色でも、これはOK、これはダメと決めつけず、その人に合ったその色の着こなし方、『似合う』を伝えたいんです」
エレガントな巻き髪に艶のある生地の服に身を包むのは、newR代表の中川かおりさんだ。「似合う」を追求した結果、ストレートロングの髪型を毎朝ヘアアイロンで巻くという徹底ぶりだ。
newRでは顔立ちから「似合う」ものを分析し、硬さ、シルエット、形など様々な要素を加味してマトリクス化する。ただし、サービスの価格は1時間4万4000円と高額だ。
男性客が2割 “似合う”企業カラーまで見つかる
それでも客がつくのは、その分析の細やかさからだ。
分析では、中川氏がまとめた、自分の顔に似合う形、似合う色、似合う素材などさまざま当てはめた約20ページにわたる分析シートを受け取る。一般的なパーソナルスタイリストも服装の提案をするものだが、newRは服や色はもちろん、髪型やメガネ、マスク、さらには柄や文字のフォントまで、その人に似合うものを詳細に分析する。
服装も通り一遍のアドバイスではない。ブランドのECサイトなどからその人に似合うものを、実際に売っている洋服から何パターンも提案し、色や生地、丈の長さまで、どこがどう似合うのか着こなしのアドバイスをするのである。
この「似合う」という概念を理論化した自社開発の分析手法によるパーソナルコンサルティングが人気を博している。
1時間のコースではオンライン上で、客の個別の悩みを相談できる。最近多いのは、自分のサイトを作ろうとしている人による「自社のブランドカラーをどうしたらいいか」という相談だ。newRでは、その人の分析内容に応じた色を選び、サイトのイメージをアドバイスすることが可能なのだという。
パーソナルコンサルティングサービスは数あれど、男性利用者が2割を超えるのは珍しい。
「自分が好きだと思っていたこの色は、やっぱり私に似合っていたんだ」と喜ぶケースもあるし、苦手だと思っていた色の服でもインナーに使ったり、色味を変えたりすることで、「似合う」パターンがあることも示される。中には車までこのサービスを利用して「似合う」ものを探す客もいるそうだ。
複雑な家庭環境が自立心を育てる
中川さんの故郷は島根県出雲市。小学校まで片道40分の通学路は、山道に実ったアケビやイチジクを食べながら歩いた。四季ごとに移り変わる色とりどりの草木の美しさに、毎日感動していたという。
しかし、家庭環境は複雑だった。親の都合で何度も引っ越したことから、持ち物はいつも最低限。小学4年生で両親は離婚。母・妹と暮らしていたが、数年後、再婚した父に引き取られた。しかし、再婚相手との間に立て続けに子どもが生まれ、自分は経済面で親に頼れないことを早くから悟った。
「今思えばかなり複雑な家庭環境だったのでしょうけれど、気にしていなかったんです」と中川さんは淡々と語る。親に対して反発するというよりも、「親に頼らず生きていこう」と考え、合理的でミニマムを追及する精神が育っていった。
高校生からプログラム一筋 Windowsの日本上陸に感動
大学の学費を用意できないことから、中学3年生の時点で進学校への進路はあきらめ、県内の公立高校で最も倍率が高かった「情報処理科」を志望した。この選択が、今後の人生を支えることになる。
商業高校に入学して学んだのは、プログラミング言語・COBOLだ。まだWindowsも登場していなかったころのことである。プログラミングに興味はなかったが、ロジカルでグレーな部分がないところは気に入った。卒業後は地元でIBMのオフィスコンピュータを販売する会社に、プログラマとして就職した。
1993年にWindows3.1が日本で登場したときは感動した。「今までは黒い画面に白い文字が浮かび上がるだけだったが、いろんな色やグラフィックが出てくるようになりました。これがあれば世の中を便利にすることができる、そう思いました」
発売されたばかりのWindows95を全社員に配布したときは、中川さんが現場の社員に使い方を教えて回った。「これで便利になる」とみんなが喜んでくれる姿に喜びを感じた。
プログラマのスキルだけを持って、一人上京
親からは一人暮らしを許されなかったために同居を続けていたが、ある日突然、親の都合で、同居していた家に住むことができなくなってしまった。
思い切って大好きな出雲を離れよう。時代はITバブルの真っただ中で、プログラマであれば仕事はある。2001年、中川さんは培ってきたスキルだけを持って、東京に出ることを決めた。
上京してすぐ、財閥系IT企業の派遣社員として2年勤めた。ここでは研修のプログラムを作っていたが、それを客先の社員に教える業務にも就いた。「自分は人にものを教えるのが好きなんだ」と実感したのはこのときだった。ただ、自分の裁量がないことはつまらなかった。
その後、大手シンクタンク系列企業の派遣社員になり、しばらくして正社員に登用される。ここではWeb開発もやってみたが、表面的に外側を作るWebには興味が向かなかった。システムそのものを作り、誰かを幸せにすることで、役に立ちたかった。
出産で予期せぬ異動でも“置かれた場所で咲く”
2009年に社内結婚し、その4年後に出産した。産後は仕事へのコミットを弱めることにして、育児休暇が明けたときには時短勤務に変更した。だが、そこからはシステム開発に携わる部署には戻れなかった。
このとき、他社のブランド構築をする部署に異動になった。今までとは異なる仕事ではあったが、「与えられたものに最善を尽くそう、と思いました。今までずっとそうでしたから」と中川さんは当時を振り返る。置かれた場所で咲く、それが中川さんの矜持だった。
二人目の妊娠が分かったころ、夫は中国・北京の駐在員となる辞令が下りた。辞令を断ろうとする夫に対して、中川さんは「私だったら絶対行く。チャンスじゃない。行きなよ」と背中を押した。中川さんも中国語を猛勉強し、産後すぐに子どもたちを連れて北京へ向かった。
そこで初めて、中川さんは「ファッション」と出会うことになる。
娘を笑顔にした「親子ワンピース」でファッションの道を進む決意
初めての北京暮らしは苦労の連続だった。
3カ月間懸命に覚えた中国語はまるで通じず、聞き取ることも全くできずに落ち込んだ。もともと一人でも平気なたちではあるが、慣れない生活の中で、友人を作ることにも苦労した。
同じような環境の駐在員の妻たちとの交流に加え、現地の中国人の人々にも話しかけ、少しずつ輪を広げていった。そのやりとりから、中国語も少しずつ覚えることができるようになった。
とはいえ、マンション内ではあまり目立ちたくなかった。そのため、それほど好きではないが、無難でカジュアルな服を着て過ごしていた。
そんなふうに過ごしていた2016年の秋、米・ニューヨークのブランドで、親子がお揃いで着られる「親子ワンピース」が売られているということを日本企業のメールマガジンで知った。さっそく、娘と二人で着るために海外から取り寄せると、娘の顔が輝いた。
「これを着たら、甘えていい合図だよね」
中川さんはハッとした。慣れない暮らしの中で、弟に母を取られたと思い、寂しさでいっぱいだった娘が、自分とお揃いのワンピースを着ただけで喜びにあふれたのだ。
「洋服は『着る』だけのものじゃないんだ」
自分に似合わないカジュアルな服を着ていたときに気持ちが晴れなかったり、娘のようにその服を着るだけでテンションが上がったりする。ファッションが人に与える影響の大きさに気づいたのはこの瞬間だった。
そこで中川さんは、「親子ワンピース」の意義を見いだし、自力で親子ワンピースを作るために、新しい世界に足を踏み入れることを決めた。