小林照子さんがコーセーで女性初の取締役に抜擢されたのは50歳のとき。今から36年前だ。その席に座る予定だった男性陣の態度ががらっと変わり、さまざまな嫌がらせがあったという。そうした試練を、どのように乗り越えてきたのだろうか――。

欠点を修正するメイク法に違和感

メイクアップアーティストを夢見て、コーセーに入った小林が持ち続けてきた思いは、「メイクで人を輝かせ、ハッピーにすること」。それを〈ハッピーメイク〉と名づけている。

美・ファイン研究所ファウンダー 小林照子さん
美・ファイン研究所ファウンダー 小林照子さん(撮影=遠藤素子)

「ひとりひとりの個性を引き出し、その人らしさを生かしたメイクをすると、心まで明るくなって自信が生まれ、人生も幸せな方向に向かっていきます。それが究極の『ナチュラルメイク』。わざとらしさを感じさせず、自然にその人自身の本質的な魅力が醸し出されるように表現してあげることが大事なのです」

新人時代、美容部員として地方を回り、たくさんの人の顔にふれた小林は、誰にでもチャームポイントがあることをよく知っていた。その魅力を引き出すようにメイクすれば、表情がイキイキしてくることも実感していた。ところが本社の教育部門へ移ると、入社当初に習った「欠点修正法を、そのまま教えていた」。はじめに「美の基準」があり、それに近づけるため、欠点を目立たないようにメイクで修正するという考え方だ。「眉はこう、アイラインはこんな風に……」と、型にはまったメイクを教えるように言われた。

部長に向かって「それは違います!」

怖いもの知らずの小林は「それは違います!」と美容部長の講義に反論。すると、部長の顔にメイクすることになった。彼女はもともと可憐な顔立ちなのに、アイラインがきりりと入ったメイクできつい印象だった。そこで愛らしい雰囲気を活かすメイクを施すのだが、部長はメイクを落として元のメイクに戻してから帰っていく。そんなことを繰り返していたある日、部長は小林のメイクが気に入ったようで、授業が終わってもメイクを落とさず「このまま帰るわ」という。それからは「テコちゃんはメイクがうまい」と社内で噂が広まり、雑誌や宣伝ポスターのモデルのメイクを担当させてもらう。メイクの実技指導もどんどん任されていった。

猛反対を押し切って世界初の「美容液」を発売

時代は1960年代半ば、化粧品メーカーは資生堂、小林コーセー、マックスファクター、カネボウなどが並び、商品開発を競い合う。化粧品も、化粧水、乳液、下地クリーム、ファンデーション……と細分化していった。

「上司に腹が立つときは2頭身時代の上司を描くのがおススメ」と小林さん。不思議と怒りや恨みが静まるという。
「上司に腹が立つときは2頭身時代の上司を描くのがおススメ」と小林さん。不思議と怒りが静まるという。(撮影=遠藤素子)

小林がマーケティング部へ異動したのは30歳のとき。「美容研究室」が設けられ、たった一人の美容研究者として抜擢された。マーケティング、商品開発、撮影、プロモーションまで美容に関するあらゆることを一人でこなすようになる。

「私が作りたい商品は女性が望んでいるものでした。働く女性たちも増えてきた頃で、私も同じ女性としてこういうものを作ったら喜ばれるだろうとわかります。カバー力があるファンデーションとか、うるおいがある口紅とか、自分が欲しいと思うものを考えられるのが楽しくて」と小林は振り返る。

働く女性は忙しく、わずかな時間も惜しいもの。一本で効果を実感できるものがあればと開発したのが、世界初の「美容液」だった。だが、社内では「そんなものを出したら他の商品が売れなくなってしまう」と猛反対にあった。しかも5000円と当時としては高価だったこともあり、絶対に売れないといわれる。それでも押し切って発売すると、爆発的に売れた。続いて「パウダーファンデーション」など、数々のヒット商品を生み出していった。

現場は女性だが本社は男性だらけ

コーセーでは初のサマーキャンペーンを展開。小林は日焼けして溌溂としたメイクが似合うモデルを起用して、〈クッキールック〉のメイクを提案し、キャンペーンは大成功だった。だが、そうした活躍の陰には、“男社会”の壁も立ちはだかっていたと洩らす。

「化粧品業界も男社会です。現場には大勢女性がいるけれど、本社にいる管理職はほとんど男性なので、会議などに出ると紅一点。そういう時代でした。やりたいことを反対されても押し通すには、仕事で結果を出すしかありません。私は『生意気なヤツ』といわれていたけれど、結果を出しているからしょうがないと思われていたのでしょう(笑)」

自分で心がけていたのは、できるだけ低い声で冷静に話すこと。服装やメイクも、ベージュやブラウン系の色合いでまとめる。男性陣に仲間だと認識されるための工夫をしてきた。

外見は大切な自己表現だと、小林は考える。

「人前で話すときに緊張して上がってしまうのは、自分はどう見えるのかという不安、外見に自信がないこともあります。人は自分の印象をプラスに捉えられると、表情が明るくなり、自信をもって振るまえるようになるもの。メイクでその人の魅力を引き出すことで不安をとりのぞき、ぽんと背中を押してあげることも、私の仕事ですからね」

独立して学校を創る夢が会社にバレる

仕事に全力投球した30代。やがて40歳になると、小林は一人でアメリカを旅行した。日常から離れて、これからの生き方をじっくり考えたかったという。

「独立する意思が会社にバレちゃって……」ユーモアたっぷりに話してくれる。
「独立する意思が会社にバレちゃって……」ユーモアたっぷりに話してくれる。(撮影=遠藤素子)

飛行機でロサンゼルスへ、さらに大陸横断鉄道でニューヨークを目指す。そこでヘアデザイナーとして活躍する日本人女性と出会い、意気投合する。彼女と話すなかで自分のやりたいことが明確になっていった。

「世界に通用するメイクアップアーティストを育てたい」。そのためには高い志と技術をもった人材を育成する学校を創りたいと。目標は45歳。当時は女性の定年が45歳だったから、会社を辞めて学校を創るつもりでいた。

それが一転したのは数年後、あるとき雑誌の取材でその夢をオフレコで話したところ、すっかり記事になり、会社にバレてしまう。創業社長に呼ばれて「辞めるつもりか?」と聞かれ、正直に打ち明けると、「美容業界の活性化にもつながるから社内でやればいい。企画書を出して提案しなさい」と言われたのだ。

困難は覚悟のうえで提案したが、頭の固い重役たちは社内ベンチャーに理解がなく、女性ゆえの反発も根強い。幾度も壁にぶつかり、やはり社内では無理とあきらめかけたが、就任間もない2代目の社長が、全国の販売店が集まる大会で「小林照子が学校を創る」と発表してしまう。すると、あっという間に取締役会で企画が通った。

取締役就任で「男の嫉妬」の根深さを思い知る

小林は48歳で念願の「ザ・ベストメイクアップスクール」を設立。校長に就任し、独自のカリキュラムで指導にあたる。すでに女性の定年は延長され、小林は美容研究部長も兼任した。さらに50歳になると、いきなり役員にならないかという話が持ち上がる。

「取締役だか戸締り役だか知りませんが、どういう仕事をするのか私にはわかりません。お断りいたします!」

最初は固辞したものの、同僚に後押しされた小林は後に続く人たちに道を拓けたらと、女性初の取締役という任を引き受けた。すると「次こそは自分が」と狙っていた男性たちは人生設計が狂ったようで面白くない。出世にこだわる男性からの風当たりは強かった。

役員の朝食会に初めて出席したときのこと。8時からと聞いていたので10分前に行くと、もう皆が揃って、朝食を終え和気あいあいと談笑している。たいてい1時間前には集まるという慣習を、自分だけ知らされていなかったのだ。

社内でも応援してくれていたはずの男性が急によそよそしくなったり、伝えられるはずの情報を受け取れなかったり。社長との面談の約束をなかなか取ってくれないという嫌がらせをする幹部もいた。彼は小林に辞任の意思があると知るや、「何でも相談しなさい」と手の平を返したように親切になる。男の嫉妬を思い知らされる体験だったが、それも自分の考え方ひとつで乗り越えられたという。

どん底の景色を見た経験が生き方に影響

「メイクの仕事でいろんな人を見てきたから、どんな反応も面白がる癖があるの。変わっている人ほど面白いし、アクの強い人には興味がわいてくる。意地悪する人の心情も、なるほど男の嫉妬はこういうものかとわかれば、あまり腹も立たなくなります。私はもともと浮き沈みのある家庭環境で育ち、戦争で何もかも失くした親のどん底を見ていたから、周りの人がいかに離れていくか、どんな人が近寄ってくるかもよく見ていた。どん底の景色を見ることは大切で、自分の生き方にも関わっているのかもしれませんね」

子どもの頃からの体験が自立の意思を育み、人を幸せにするという仕事の夢につながったのだろう。美容業界の最前線で奮闘してきた小林は、1991年にコーセーの役員を辞任。56歳で会社を創業し、「美・ファイン研究所」を設立する。自身が生み出した〈ハッピーメイク〉のノウハウを提唱し、59歳のときに「[フロムハンド]小林照子メイクアップアカデミー」を開校。数多くの人材を世に送り出してきた。

「3つの会社が100年後も続くように」86歳が描く夢

2010年、75歳で「青山ビューティ学院高等部」をスタートし、多感な高校生たちの教育にも情熱を注ぐ。美容とは自分を愛することが原点にあり、それがあってこそ他人に思いやりを持てる。美容を通して自分を表現し、美意識を磨いていく学びを実践してきた。

青山ビューティ学院高等部の学長(右)は孫と同じ世代。
[フロムハンド]メイクアップアカデミーの学長、関野里美さん(右)は孫と同じ世代。(撮影=遠藤素子)

その傍ら、美容のプロを志す若者たちを支援する奨学基金、社会で活躍する女性人材の育成にも取り組む日々。86歳を迎えた今、さらなる夢があるのだろうか。

「30代の頃からずっと10年後の未来を描きながら、何をすべきかを考えてきました。今はさすがに10年後とは思わないけれど(笑)、もっと近未来のことを考えます。私は3つの会社を興しているので、どうやって未来を担う人に渡していくか。そのためには人を育て、次の世代に委ねることが大事。学校というのは灯をともし続けなければいけません。卒業生にとって母校がなくなるということはあってはならないこと。これは私のポリシーでもあります。100年、200年と続けていくにはできるだけ若い人を育てて後継者にする。それが今の使命ですね」

小林が掲げる理念は「アーツ&ビジネス」。人を育てることは楽しく創造的なアートだが、ビジネスとして存続しなければ守り継げない。ならば変わりゆく時代を見据え、自分がやるべきことに力を尽くす。小林はたえず10年先の目標を決め、メイクアップアーティストとして描く夢もすべて実現してきた。

今、仕事で悩む女性たちに何かアドバイスをと頼むと、こう答えてくれた。

「人と比べないことと『自分の芯』を持つことです。誰でも経験の積み重ねがあり、そこから学んだ知恵が自分の芯になっています。何事も迷ったときには、自分の芯に聞いてごらんなさい」

本当に信じられるものはいつも、自分の中にある。「だから、心配しなくていいのよ」。そう背中を押してくれる小林の笑顔はやはりはつらつと輝いて、美しい。