グレタさんの怒りを引いた目で見ていなかったか
女性であれ男性であれ、昭和生まれなあなたの率直な気持ち、本当に本当のところを教えてほしい。今から4年前の2017年、「#metoo」というハッシュタグをつけたSNSの投稿で、権力を持つ男たちの過去の性的な乱行を海外の有名な女優やニュースキャスターたちが続々と暴露・非難するのを見た時、あなたは「いったい何が始まったんだ?」と、ちょっと引かなかったか。
今から2年前の2019年、ニューヨークの国連本部で、濃いピンク色のワンピースにおさげ髪姿の少女、グレタ・トゥンベリさんが気候変動に無関心な大人たちへの怒りで顔を歪めながら「あなたたちを許さない!」と断じる映像を見た時、「今度は何が起きてるんだ?」と、あなたはやはり引かなかったか。
女性活躍や働き方改革という言葉が出始めた頃、「どうだろうねぇ」と意地の悪い表情を浮かべなかったか。隣国のアイドルがアメリカのヒットチャートを席巻したり隣国の映画がアカデミー賞を受賞したりするのを「もっと日本も頑張れよ!」と苦々しく見ていなかったか。LGBTという言葉の各文字の意味をようやく理解し覚えたところに、もう一文字「Q」がついて報道されるのを見て、「今度は何が増えたんだ?」と慌てなかったか。
「何が起こっているわけ?」と、目の前に流れるそんな新しい報道、新しい変化をまず批判的に見て、「ははーん」と鼻で笑い、「世の中を知らないな」「未熟だな」「自己満足だ」「子どもだましだ」「どうせ売名行為だろ」と意図的に過小評価し、賢いと自負する自分に言い聞かせるように結論しなかったか。それをSNSの自分と同じ「クラスター」の仲間同士で「だよな!」「だよね!」と、目くばせし合わなかったか。
虹色に輝くSDGsマークに戸惑う世代
さあ、昭和に生まれ、分厚い同世代人口の間で互いに蹴落とし蹴落とされながら必死に競争し、しょせん日本のローカルルールにすぎない「世間の常識」とやらを懸命に身につけ、親や先生や上司の顔色を見ながら気に入ってもらうことに腐心し、「社会とはそういうものだ」「適応できない奴は負け犬なんだ」と、自分の輪郭を(他人に与えられた)偽物の線で何度も何度も描き直してきたあなたはいま、虹色に光るSDGsマークを前に「何だこれ」と戸惑っている。
自分が必死にしがみついている組織で、どうやらこれが今後のわが社の方針に導入されるらしいとか、そうしないと競争に勝てないらしいとか、社員としてもそれが行動ルールになるらしいとか聞いて、「めんどくせえな!」と舌打ちをしている。
そんなあなたからは、化石燃料の匂いがする。
グレタさんを真正面から支持する世代がやってきた
この春、御社へやってきた2021年度の新卒社員たちは、いま挙げたようなニュースを学生時代にリアルタイムで見てきて、就職対策の一貫としてもそういった時事問題をつぶさに研究してきた若者たちだ。なんなら、卒論テーマがそのあたりという人だらけだ。
小学校時代から環境問題を教えられ、給食のあと始末や掃除だってクラスで毎日徹底的にごみ分別して育ってきたのだ。私たちが円周率は3.14で平安遷都は794年だと教えられたのと同じレベルで、彼らにとって環境問題への取り組みは当たり前であり、気候変動は地球の課題である。どこかの国の前大統領が「気候変動はフェイク」なんて言ったり、その発言に「そうだ!」と乗る大人たちがSNSで嬉しそうに騒いだりするのを、「バカな大人たちがいるなー」と冷静にスルーしてきたのだ。
グレタ・トゥンベリさんの「How dare you!」にびっくりしたりせず、「ああ、スウェーデンの子なんだな」「国連まで行って、自分の声を世界に届けたなんてすごい」と、ものすごく素直に真正面から支持する世代である。仮にグレタさんの様子や主張にちょっと特異なところを感じたとしても、それで足を引っ張ったりしない。「そういう子なんだ」と、多様性を理解して受け止める。人間的には未熟どころか、めちゃめちゃ成熟しているのである。
四大卒なら、たとえば入学してすぐに#metooの洗礼を受け、キャンパス内におけるセクハラの何たるかをしっかりたたき込まれ、次々と報道されるサークル不祥事による大学側の指導もあって「学生的な乱痴気騒ぎ」に対しては「アウトだし、都会でちゃんと遊び慣れてない感じでカッコ悪い」と冷めた視線を持ってきた。学生時代に誰かと付き合うにせよ、配慮のなさは「ハラスメント」になり、合意のない性交渉は「性暴力」や「デートレイプ」になるのだと教えられてきた。誰もが異性愛を当然だと思っているわけではないという知識もあり、人権意識も高いから、友人同士の付き合いにも相手への配慮と敬意を失わない。わきまえるという話をするなら、どこかの高齢政治家よりもよほど人間的にも社会的にもさまざまなことを「わきまえている」。
「野蛮な昭和」とは常識が違うスマートさ
そもそも、小学校の時だって出席番号は男女混合で50音順、男子でも女子でも先生からは平等に「〜さん」と呼ばれ、まさか呼び捨てされるようなことなどなく育った。50音順でまず男子が1番安藤君から25番渡辺君まで、そして26番からようやく女子の相田さんが始まったり、ちょっと朝礼で私語があった程度で「そこ、うるせえぞ山田!」と怒る教師に殴られたりケツバットを喰らったりした野蛮極まりない昭和とは「常識が違う」のだ。
まして、今年の新卒組にとって大学生活最後の1年は「コロナイヤー」であった。授業も就活もほぼ全面オンライン化され、地方出身の学生は実家へ帰ることもままならず、飲食店や学習塾などでのアルバイト収入は減り、友人との付き合いも飲み会もオンライン。もちろんそんなデジタルシフトはSNSで友達に聞きながらささっと指先一つで終了、戸惑いなんかない。そんな彼らの隠れた悩みは、「目上の大人に電話で話すのが苦手」というかわいいものである。だって電話なんてレガシーな伝達ツール、基本使わないから。
大学でちょこっと教える筆者、就活中の学生や、秋学期に対面授業を履修してそっとキャンパスへ戻ってきたごく数名の学生に「大変だねぇ」と声をかけてみた。彼らの返答はほぼ一律でこういうものだ。「仕方ないですよね。この1年、みんな同じ条件ですから」。自分たちの学生生活はこういうものであってこれしか知らない、他の世代と比べたってしょうがない、と、彼らは達観していた。
若くして、スマートなのである。
私たちの価値観を上書きする存在
豊かさが前提の社会で育つ、ITが当たり前の社会で育つとは、こういうことだ。もちろんこの四半世紀、日本は自分たちが期待していた豊かさとは違う時代を経験してきた。でもその間、政治や経済は「ITスキルを!」「語学力を!」「知識偏重ではないクリエーティブな発想力を!」と求め、教育や家庭や地域はそういう需要に応え、少子高齢社会日本はこういう子どもたちを大事に育ててきたのだ。
四半世紀越しの答えが、SDGsという新たなグローバルルールとともに社会人となった、「今の私たちの価値観やありようを上書きする、彼らという存在」である。
コロナ禍のほんの少し前、ウェブカルチャーとライティングを教える大学での講義で、私は当時ウェブをにぎわせていた話題を扱ったあと、こう言った。「#metoo運動で声を上げた女性に対して、男性ばかりか、既にある程度のポジションにあるような著名な女性たちが反感を持ったり、非難したりしている心理とはいったい何だろう」。
1人の男子学生が手を挙げた。「あのー、レイプって問答無用で悪いことですよね。被害者がそれを正当な手段で告発するのは、まっとうなことですよね。その訴えが裁判で正当な手続きを経て認められたわけですよね。自分たちの非を認めたくない、女性の気持ちを理解できない男性が非難するのは、僕は賛成しないけれどまあそういう人もいるんだろうなとわかる。でも同じ被害を受ける可能性のある女性たちが、その恐怖や怒りに共感せずに当事者の女性を非難する意味が、僕にはわかりません。その人たちは、自分が同じ立場になってもレイプを受け入れるんですか」。
忖度と目配せ文化の終焉
本当だよね。その人たちは、レイプを受け入れるんでしょうか。なぜそういう人になったんでしょうか。問答無用で悪いことを、犯罪を犯罪だと言えなくなる、そうならざるを得ない何かがあったんでしょうか。男子学生の発言のまっすぐさに、私は時代が新しい価値観で上書きされる音を聞いた気がした。忖度や目配せに慣れることが、生き残るために必要な「賢さ」だとされてきた時代は、ルール改変とともに終焉を告げる。大ざっぱに言ってしまえば、新ルールはSDGsだ。そっちが「人類の文明」だ。
今年の新卒社員たちはおおむね1998年生まれ、現在の大学生は2000年ベビーたちである。社会人となってやってくる「21世紀未来の子」たちは、文明人なのである。自分では認めたくないけれどいかんともしがたく化石燃料の匂いを放つおじさんおばさんたちは、自分たちが新人や中堅として頑張っていたあの頃、同じ社会の空の下で生まれて育ち上がってきた彼らに文明を教えてもらうのを忘れちゃいけない。