誰にでもイヤな人や苦手な人はいます。できるだけ距離を置きたいところですが、一緒に仕事をしなければならないことも。僧侶でマンガ家としても活躍する光澤裕顕さんが、そんなときに効くブッダの言葉を紹介します――。

※本稿は、光澤裕顕『生きるのがつらいときに読む ブッダの言葉』(SBクリエイティブ)の一部を再編集したものです。

2人の怒れるビジネスパーソン
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身分は前世での行いによって決まるのか

ブッダの言葉の中に、次のようなものがあります。

生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
『スッタニパータ』136

有名な言葉なので、聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。

個人的には、革命的な一文だと思っています。なぜなら、ブッダの時代では当たり前だった、生まれによって身分が決まるという「常識」に真っ向から異を唱えた言葉だからです。

ここには、有名な「輪廻りんね」という考え方が関係しています。

「輪廻」とは、人をはじめとする生き物が、何度も生まれ変わって違う生命を生きるという思想のこと。

余談ですが、仏教が生まれる前から、インドやネパールでは「輪廻」が当たり前のように信じられていました。

「輪廻」と聞くと、仏教発の考え方のように思われがちですが、実は仏教より前から存在していたのです。

仏教が「輪廻」を言い出したのではなく、「輪廻」のある土壌に仏教が生まれてきた……。そう表現した方が適切かもしれません。

話を元に戻しましょう。

「命は何度も生まれ変わりを繰り返す。だから、生まれたときの境遇は“過去”に理由が隠されているはずだ」

ブッダ以前の世界では、そのように考えられていました。

良い身分に生まれた人は、前世で良い行いをしたから。そうでない人は、前世で悪い行いをしたから。

文字通り、自業自得ということです。

しかし、それは誤りだと主張したのがブッダでした。

人は「行為」によってつくられる

ブッダ以前には、「善悪」も元々人に備わっているものだと考えられていました。生まれながらにして魂に刷り込まれた性質とでも言うのでしょうか。その人が善であるか悪であるかは、生まれる前からすでに決まっている、と言うのです。

しかし、ブッダはその常識を覆しました。

生まれる前から決められた事柄によって人がつくられるのではない。行動が人をつくるのだ、と。

「善い」行いをするから「善き人」になるのであり、「悪い」行いや「卑しい」行いをすれば、行動通りの人になってしまう。

これがブッダの言いたかったことです。だからこそ、ブッダは、どんな人とつきあうかが重要だと説きました。

どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
『ウダーナヴァルガ』第25章11

私たちが人とつきあうということは、行動や環境を共有することでもあります。

まわりの人が好ましくない行動をとることが多ければ、自分も知らない間に行動に表してしまうでしょう。だから、あなたがつきあっている人は、あなた自身を映す「鏡」なのです。

カフェの窓際の席に座り、会話する2人の女性
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イヤな相手と距離を置く

それでは、ブッダの言葉を日常生活で実践できるレベルまで落とし込んでみましょう。

あなたを悩ませる「悪い(卑しい)人」がいるとします。

その場合、どうすれば心を穏やかに保つことができるでしょうか。

置かれている環境によって、相手との距離感も変わってくると思いますので、ここではいくつかのパターンを考えてみます。

まずは、相手との関係性があまり深くないパターン。

たとえば、ネットの人間関係です。接触しなくても、実生活への影響が少ない相手ですね。この場合、あなたを苦しめる人と無理に関わる必要がないのであれば、距離を取りましょう。

わかりやすく言えば、接触を断つということです。

後ろめたさは無用です。つながっていた方がいい理由はあるでしょうが、それはあなた自身が「悪」に染まることと引き換えにするほど大事なことでしょうか。

イヤな相手と距離を取れない場合は…

相手と距離を取りたくても、現実的に難しい場合もあるでしょう。

「わかっているのにできない」という意味では、関係性が深くない場合よりも悩みが深いですね。

光澤裕顕『生きるのがつらいときに読む ブッダの言葉』(SBクリエイティブ)
光澤裕顕『生きるのがつらいときに読む ブッダの言葉』(SBクリエイティブ)

職場の人間関係であれば、イヤな先輩と完全に離れるには仕事を辞めるしかありません。でも、そんなことは簡単にできないので、ひたすら我慢し続けることになります。

ブッダの言葉がいかに核心をついていても、私たちの社会では最低限の人づきあいが欠かせません。これもまた、現代を生きる私たちの真理です。

では、どうしたらいいのでしょうか。

この場合は、せめて悪い行為や卑しい行為が生まれそうな場に近づかないことでしょう。イヤな相手と距離を取るのではなく、その人の悪い・卑しいアクションから距離を取るという作戦です。

「悪い言葉」はできる限り避ける

とくに「悪い言葉」は意識的に避けるべきです。

たとえば、人の悪口で盛り上がるような飲み会は避ける、雑談の中で人の悪口が出たら同調しない(自分自身が「悪い言葉」を使わないようにする)といった対策が挙げられるでしょう。

善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すな。善いことばを口に出した方が良い。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。
『ウダーナヴァルガ』第8章8

「悪い言葉を口に出すな」なんて、そんなに大事なことなのかと疑問に思うかもしれません。でも、自分の発した言葉に自分自身が影響を受ける例は、身近にあります。

たとえば、パソコンの検索履歴やメッセージの予測変換に汚い言葉が残っていて、ドキッとしたことはありませんか?

データ上で履歴が残っているように、その言葉を使った記録が私たちの心の中にも残っているのです。たとえそれが本心でなくとも、口に出た言葉は行動につながり、行動は結果に結びつきます。

たかが言葉と侮ることなかれ、なのです。

自分自身を犠牲にしない

関係が深いと、思い通りにならないこともあります。

そうなると、「自分さえ我慢すれば……」と、距離を取ること自体をあきらめてしまうかもしれません。

相手から離れることに、後ろめたさや罪悪感を感じてしまうのでしょう。

でも、それは本当に望ましい解決策でしょうか。

私は学校で「誰とでも仲良くすること」が大切だと教わりました。

もちろん、そのこと自体は素晴らしいことです。でも、本当にそんなことができるのでしょうか。

私は自分の実体験から、疑問を感じてしまいます。

先生に「誰とでも仲良くしましょう」と言われ、その結果、クラスの中がどうなったかと言えば、みんなが自分の意見を押し殺して、まわりに同調するばかり。自分の意見は表に出さないで、過剰に周囲の空気を読むだけの環境がつくられてしまいました。

「ストレスを感じることなく、誰とでも仲良くする」

それは現実問題として不可能です。

「仲良くする」という表面的な目的を達成するために、自分を押し殺し、自分を犠牲にする人が生まれる環境は、ひずみをもたらします。

感情を抑え込むと反動が起きる

抑圧された自我は、どこかで反動を生み出すでしょう。そして、その反動は望まぬ「悪」を誘発することになるかもしれません。

人は、抑圧された感情を自分の力で処理できるほど強くありません。うまく処理されなかった感情は、いずれ必ず牙をむきます。ならば、自分の感情を押し殺さなければならない状況や原因をあらかじめ避けることも必要だということです。

ただし、これはわがままに振る舞え、ということではありませんよ。他者を慈しむのと同じように、自分自身も慈しむのです。

もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは、容易ではないからである。
『サンユッタ・ニカーヤ』第Ⅲ篇第1章第4節6

人間関係がうまくいかないときに、まずすべきこと

人間関係がうまくいかないなと思ったら、まずは自分自身のことを冷静に見直してみてください。

あなたを取り巻く人々が、あなたにとっての「人間関係」であるように、あなた自身も誰かを取り巻く「人間関係」の1人です。

あなたが「善い友」と交わりたいと思うのと同じように、他の人たちも「善い友」と仲良くなりたいと思っているでしょう。

だから、あなたが自分を顧みないで「善い友」を選ぼうするなら、まわりは「自分は何もしないけど、あわよくば善い友と仲良くなりたい」という人だらけになってしまいます。

あなた自身の考え方は、周囲の人たちに影響を与えます。

また、あなた自身の内面は、少なからず周囲の人の内面によってつくられています。

親交があるということは、まわりの人たちも今のあなたと似た部分があるということでしょう。だからこそ、あなた自身が「善き友」であり続けることが大切なのです。

「善き友」との出会いは人生のターニングポイント

結局のところ、あなたの行動の結果は、まわりの人を通して自分自身に返ってくるのですから。

最後にお伝えしたいことは、善き友は生きる上で唯一無二の宝であるということです。

善き友を得ることは容易ではありません。しかし、生涯をかけて探す価値のあるものです。

仏教では「善友(ぜんう)」を「善知識(ぜんちしき)」と訳すことがあります。この「善知識」とは、正しい道に導いてくれる人のことです。その証拠に、歴史に名を刻んだ名僧たちも、「善き友」に導かれ、仏教に触れてきました。

「善き友」との出会いこそ、人生のターニングポイントとなるのです。