※本稿は、光澤裕顕『生きるのがつらいときに読む ブッダの言葉』(SBクリエイティブ)の一部を再編集したものです。
何千年もの歳月を経て残った言葉
人間関係に関する悩みは根深いものがあります。それを裏付けるように、ブッダの言葉にも他者との交わりに関する言葉がいくつも残っています。
今日残っているブッダの言葉はブッダ自身が書き残したものではありません。ブッダの死後、弟子たちが集まって文字に起こしたものです。
これが「お経」です。
漢文に訳されたお経には「如是我聞」という定型句で始まるものがありますが、これは「私は(ブッダから)こう聞いた」という意味です。弟子たちが、師との大切な思い出を丁寧に記録している姿が想像できますね。
もちろん、当時はボイスレコーダーなんてありませんから、頼れるのは弟子一人ひとりの記憶だけ。そのため、記録する作業も細心の注意を払って行われたのではないでしょうか。
残念ながら、長い時間の経過の中で消失してしまった言葉や、胸の奥にそっとしまわれたエピソードもあったはずです。
ですから、何千年もの歳月を経て今日まで残った言葉は、弟子たちにとって、とくに印象深かったものや共有すべきだったもの、また、多くの人が求めた事柄だったのでしょう。
説法は一対一で
ちなみにブッダは、説法をするときに「対機説法」というスタイルをとっていました。これは一対一で対面し、相手の能力や素質、理解度に合わせて話の仕方を変える手法のことです。
難しい内容であれば、やさしい言葉を使ったり、動物のたとえ話にしたりと、さまざまな工夫をしながら教えを説いたのでした。
表現を変えながら、相手に正しくメッセージを伝えようとする、ブッダの柔軟性とやさしい人柄が感じられます。
人間関係のイザコザは2500年前も
ブッダとその弟子たちは、「僧伽」という集団を形成して修行に励んでいました。
しかし、農業や牧畜など集団内での生産活動は行っていなかったので、生きていくのに必要な最低限の物資は布施などによって支えられていました。王様や富豪たちから土地の寄進を受けたこともあります。施しを受ける中で、悩みごとの相談も受けていたのでしょう。
ブッダや弟子たちのまわりには、僧俗を問わず、さまざまな人たちが集まっていました。そうした中で、人間関係のトラブルもしばしば発生していたようです。
有名な逸話としては、美男子ゆえにそのモテっぷりが修行の妨げになったアーナンダや、教団の乗っ取りを画策したダイバダッタの話が挙げられます。
「仏説観無量寿経」というお経には、マガタ国(紀元前413〜395年)という国で起こった、親子間の争いの話が語られています。
シチュエーションが違うだけで、問題の本質は現代と何も変わっていません。
ブッダに直接教えを聞くことができた時代でもこんなトラブルが起こっていたくらいですから、たとえ仏の声でも、嫉妬や欲望に駆られた人間の耳には入らなかったということでしょう。
本当に必要なのは「気が合わない人」
では、実際のところ、ブッダは人間関係についてどのように考えていたのでしょうか。私がとくにシビれた一文を取り上げてみましょう。
尊い人と交れ。
『ウダーナヴァルガ』第25章3
シンプルですが、力強い言葉ですね。
きっとブッダも悪い友や卑しい人に苦労させられたことがあるのでしょう。そうでなければ、こんな実感のこもった言葉は出てきません。
さて、私はここに重要なポイントがあると思います。
それは、ブッダが「気の合う人とだけつるんでいればいい」とは言っていないことです。私たちは自分と気の合う人、つまり自分と似た意見を持つ人を肯定的に捉え、「善い人」と考えがちです。逆に、気の合わない人は「間違った人」として遠ざけ、その人自身に対しても否定的な見方をしてしまうところがあります。
しかし、自分自身の意見が必ずしも正しいとは限りません。あなたが無自覚のうちに、よこしまな考えを正しい判断だと考えていたとしたら、気の合う人もまた、よこしまな意見を持っている人になってしまいます。それならば、耳が痛くても正しい意見をしっかり言ってくれる人の話を聞く方がいい。
私たちは、物事を自分の都合のいいようにねじ曲げて捉えてしまうところがあります。ですから、実は「自分は正しい」と思っているときこそ、落ち着いて考えてみることが必要なのです。
油断して心に隙が生まれると、ブッダの言葉でさえ自己肯定や言い訳に利用しようとします。
気の合う人と過ごす時間は愉快ですし、何より楽でしょう。でも、多少うるさく感じても、あなたの本質をよく知っている友こそが、あなたに必要な気付きを与えてくれるのです。
ブッダの示した「卑しさ」とは
ブッダが残した言葉の中には、短くて簡潔なものが多くあります。けれども、その背景には深い意味が込められています。ここからは、その本質について解説していきましょう。
まず、ブッダが言う「卑しい」とは、どういうことなのでしょうか? これについては、『スッタニパータ』の「蛇の章」で詳しく語られています。
この章の背景は、以下の通りです。
托鉢をしていたブッダが、火を崇める司祭の家を訪れます。そこには聖火が灯され、多くの供物がそなえられていました。近づいてくるブッダの姿を見ると、司祭は、「卑しい奴め、聖なる火が汚れるからこれ以上近づくな!」と横柄な態度を取ります。
ブッダの質素な身なりを見て、見下したのでしょう。
するとブッダは応えます。
「司祭よ、あなたは卑しい奴と言うが、そもそも卑しい人とは何か知っているのですか? 人を卑しい人たらしめる条件を知っているのですか?」
これには司祭もたじろいで、こう思ったでしょう。
(この人はタダ者じゃない!)
ブッダに諭されて、さすがの司祭も素直になります。
「ブッダさん、私は人を卑しい人とする条件を知りません。どうか、私に教えてくれませんか」
そして、ブッダは卑しい人の条件について語り出します。
アドバイスにはタイミングが重要
ブッダは教えを請われて初めて冷静に語り出すのですが、私だったら絶対に無理ですね。最初の発言でカッとなって、即座に言い返してケンカになりそうです。
ブッダは自分が答えを持っているとわかっているときでも、その答えをむやみに振りかざしたりはしませんでした。相手が受け取ってくれるタイミングをしっかりと見極めていたのです。
仏教では、教えの中身もさることながら、この「(タイミングを)見極める」という姿勢を大切にしているんです。いくら正しいことを言っていても、それがまっすぐに伝わらなければ意味がありません。タイミングを間違えてアドバイスをすれば、それは相手にとってイヤ味なお説教になってしまいます。
では、卑しい人の条件をいくつか取り上げてみます。
『スッタニパータ』116
自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、
――かれを賤しい人であると知れ。
『スッタニパータ』132
実際は尊敬されるべき人ではないのに尊敬されるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、――かれこそ実に最下の賤しい人である。わたくしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に〈賎しい人〉と呼ばれる。
『スッタニパータ』135
この他にも『スッタニパータ』の「蛇の章」では、卑しい人を説明する言葉がいくつもあります。
この場ではすべてを紹介することはできませんが、「ああ、こんな人、いるなぁ」と納得すること間違いなしです。ぜひ、一度読んでみてください。
自分の基準が正しいと信じる怖さ
ここで、ちょっと疑問に思いませんか? なぜ、ブッダはこんなにも悪い人の特徴に詳しいのでしょうか。
それは、悟りに至る過程で人間の心の作用を深く観察したからです。ブッダをブッダたらしめた所以の1つは、この観察による客観性でした。
客観性。
これは仕事でもよく聞くキーワードですよね。マーケティングや企画の立案時には、必ずと言っていいほど触れられます。うまくいくプランはこの「客観性」が十二分に考慮されているものが多く、反対に「客観性」を欠いたものは往々にして失敗しがちです。
「○○君は一生懸命なんだけど、客観性が足りないね。思い込みは捨てなきゃ」なんて言われたことはありませんか。
私もマンガを描くときや法話をするときに、よくダメ出しをされます。自分が描きたいことや伝えたいことが先走り、つい独りよがりの内容になってしまうのです。
人は無意識のうちに自分の基準=世間の基準だと勘違いしがちです。「善悪」に対する評価も、自分の基準で判断すると逆転してしまうことがあります。
妙な言い回しになりますが、「正しい悪」や「正しい卑しさ」を見分けるためには、客観的な物差しが必要です。
ブッダに善悪の基準について切り返された司祭はドキリとしたでしょう。自分の価値観で人の善悪を決める行為は、ブッダの言う「誤った見解」を信じること、つまり卑しい行為そのものなのです。
ちなみに、このエピソードの最後では、横柄な態度をとった司祭はブッダの言葉に深く感服し、弟子入りを申し入れています。