※本稿は、樋口恵子・上野千鶴子『しがらみを捨ててこれからを楽しむ 人生のやめどき』(マガジンハウス)の一部を再編集したものです。
妻の「やめどき」はいつなのか
【樋口】妻のやめどきというテーマで思い出すのが、労働組合の幹部同士のご夫婦ね。そのご夫婦、働いていたときは理想的に家事の分担ができていたんですって。でも、妻が定年になったとたん、一気にこれまで二人の間にあったセオリーが変わってきたの。要するに夫は、妻が定年になったら家庭の仕事はすべて妻がするものだと思っていたらしくて。
【上野】何、それ?
【樋口】私も、そういう理屈があることを初めて知ったんだけど。要するに、今までは君も働いていたから俺も家事をしたけれど、今日から君は専業主婦なんだから全面的に家事をして当たり前と言うわけ。そこで妻は夫と三晩くらい徹底的に討論をして、それは間違っているということを言って聞かせて、ようやく今まで通りに収まったんですって。
【上野】つまり、その男性の理屈だと、これまで妻は不完全な主婦だったと。それが定年を迎えて完全な主婦になるんだからということなのね。開いた口がふさがらない。自分だって定年退職者なのに。
【樋口】まったく(笑)。同じ年数を働いてきているから、もらう年金もほぼ同額なのに。
【上野】でも、とっても男らしい理屈ですね。その話で思い出しました。私と同世代の元大学院生カップルで、当時、妻は学生結婚で子どもを産んで、ワンオペ育児でどんどん疲弊していったんです。そんなときに夫が「君は普通の女性以上のことをしようとしているんだから、家事も育児も普通の女性並みにできて当たり前だ」と言ったんですよ。これもすごい理屈でしょう?
【樋口】すごい(笑)。
“真面目な妻”ほど損をする、男の理屈
【上野】妻がまた真面目な日本の女なものだから、彼の言葉に納得しちゃったんです。それで家事と育児を全部背負い込んで、そのうえ、大学院の勉強もあって、さらにどんどんやつれていって。私が忠告しようとしたら、夫のほうが「上野さん、親戚のおばさんみたいなこと、言わないでください。僕ら、うまくやってますから」と。そういう理屈が男のほうで成り立っちゃう、驚くべきことに。今の樋口さんの話は妻が納得せずに説得したケースですが、このカップルは妻が納得させられてしまったケース。結局、妻は退学しました。どうかと思います。
夫として最悪なケース
【上野】労働組合運動や社会運動をやっている男性は夫としては最悪のことがあります。というのは、社会運動って正義とか大義のためにあるものじゃないですか。これが仮にモーレツサラリーマンだったら、「あなたがやっているのは、せいぜい会社の利益のためでしょう?」と言えるんだけど、社会運動をしている夫が走り回って家を顧みなくても、同じようには言えないというのを聞いたことがあります。
例えば、いわさきちひろさん(絵本作家/1918~1874年)の夫の松本善明さん(弁護士・共産党所属の国会議員/1926~2019年)も、戦後最大の冤罪事件といわれた松川事件なんかを手がけたりして立派な人ですが、朝早く家を出て夜遅くまで帰らない。だから、ちひろさんが女家長で、両親や子どもの世話、家計の維持まで全部やって、もうボロボロだったらしいんです。で、ある日帰ってきた夫に「あなたが悪い」って言ったんですって。そしたら善明さんが無邪気に「僕のどこが悪い? だって、僕は一日中いないんだよ」って(笑)。
【樋口】善明さん、何もしなくてもいいと思ってる(笑)。
【上野】これもすごい理屈でしょう? でも、ちひろさんが立派なのは、それを聞いて啞然として思わず吹き出して終わっちゃったこと。
【樋口】それで終わっちゃっていいのかしらね。
【上野】そうなの。でも、愛があったからいいんでしょう。
【樋口】だけど、男の人って必要なときに出てきて、面倒くさいときにすーっと引っ込んでくれる幽霊のような存在が、一番いいかもね。男にとっての女も同じかもしれないけれど。
嫁と姑の仲が悪いのは当たり前
【上野】樋口さんの世代の夫婦で、妻が夫に敬語を使っている家庭はあります?
【樋口】ほとんどないと思う。そういえば、松本清張さんの『砂の器』という小説があるでしょう? あの中にハンセン病のことが出てくるから読んだんですが、妻が夫に使う言葉が敬語ばかりでした。
【上野】小説の時代設定は何年頃でしたっけ?
【樋口】60年代頃ね。だから、私よりも上の世代。
【上野】私の世代も、周囲の学生に聞いても、妻が夫に敬語を使っている家庭はゼロでした。
【樋口】そのあたりはずいぶん変わりましたね。もっとも、うちの両親は二人とも明治生まれなので、母は父に向かって「お父様、何になさいますか?」でしたけどね。
【上野】それが今ではまったく消えてなくなった。
【樋口】そう考えると、嫁と姑の仲が悪いのは当たり前よね。自分は夫に敬語を使っていたのに、どこの誰とも知れない女が、自分の大事な息子に向かって「あんた、何してんの」って言うんだもの。
【上野】そこが、娘の母と息子の母で全然態度が違うんですよ。息子の母だと「嫁があんなふうで、息子がかわいそう」とか言って怒るのに、娘の母だとそうでもない。
【樋口】そうそう。私の小学校時代の同級生は、やっぱり息子がかわいそうとか、嫁に威張られていると感じているわよ。ところが、彼女らの息子たちはみんな何かがあると決まって嫁サイドについて「ママが悪い」って言うんですって(笑)。
“頑張る妻”ほど、後々つらくなる
【樋口】今の話ともつながるけれど、私が今度書きたいものの一つが「嫁哀史」なんです。日本全体の女性の地位と諸悪の根源は、やっぱり嫁だと思う。でも、いい嫁ぶると後々つらくなるものね。だからダメ嫁と思われるくらいがちょうどよろしい。
【上野】そもそも、愛する息子を奪った女が「いい嫁」になれるはずがないですからね。
【樋口】そうそう。姑はそんなにしてくれと頼んでいるわけでもないのに、独り相撲をとって、勝手に疲れ果てて病気になったりしてね。いい嫁であろうとすると、相手を放っておけなくなるのね。
【上野】よく姑と嫁のいい関係について、「母と娘のようです」なんていう人もいるけど、ムリがあります。
50年間、嫁の悪口を一切言わない姑
【樋口】私の身近な女子集団の中に、姑歴50年くらいの人がいるの。彼女は、絶対に嫁の悪口を言いません。とにかく嫁とはずっと同居。それでいて相手に介入しないの。それに、その姑さん、完璧に家事をやる人で。
【上野】そういうできた姑が介入しないで黙ってそこにいるっていうだけで、嫁にとってはすごいプレッシャーですよ。私は耐えられないな。
【樋口】ちょっと意地悪心で、彼女はいったいいつ嫁の悪口を言い出すんだろうって待ってるんだけど、全然言わない! 逆に、ことあるごとに褒めるんですよ。「うちのハルコさんはお料理が上手で」、「うちのハルコさんはこんな言葉をかけてくれるの」、「ハルコさんのご実家から電話があって、いついつハルコを貸していただけますかっておっしゃるの。そんなご両親に育てられたからハルコさんはよくできているんですわ」って。
確かに、ハルコさんは器量もいいし、姑の友人とのつきあいも出ず入らずで、姑を差し置いて何かするようなこともないし、さりとて失礼に当たるようなことは絶対しないし、人に抵抗感を持たせない。よくできた人だと思います。でも、どんなにできのいい嫁でも、ずっと一緒にいるとどっかで文句は出るものだろうと思うんだけど、やっぱり出ない(笑)。
【上野】賢い姑と賢い嫁が絶妙の距離をとりながら、お互いの悪口を言わずに半世紀過ごすって、考えただけでも胸が圧迫される思いです。ハルコさん、かわいそう。
【樋口】でも、ハルコさんもストレスでやせて、なんてことはなくて、ふくよかで、穏やかで。これはどっちが偉いんだろうと思ってね。
【上野】それにご実家が「ハルコを貸してください」とおっしゃるのも、ドキッとします。嫁にやるっていうのは、娘を他家にくれてやるという意識、すごいですね。それも嫁哀史の一例ですよ。
【樋口】ハルコさんは、上野さん世代よ。
いい嫁は福祉の敵になる
【上野】私の世代の女たちは、結婚して都会に出てきた場合が多いから、核家族を築いているケースがすごく多いんです。ところが自分が産んだ子どもの数は少なくて、一人か二人だったりするでしょう? そうなると息子か娘を手もとに置いて、できたら同居してほしいと思ってるようです。そういうのを見ると、自分は嫁をやってこなかったくせに、何考えてるんだろうって思う。完全に夫を自分の側に引き込んで、親戚づきあいは妻方ばっかり。好き勝手にやってきた女が、息子は手放したくないなんて、どうかと思う。そういえば樋口さん、昔「いい嫁は福祉の敵」という名言を吐かれましたね。
【樋口】そうそう。模範的な奥様は、ボケた夫や嫁ぎ先の両親を自宅で介護して、あの世に送り届けなければ死ねませんでしたから。
【上野】そういう真面目で責任感の強い嫁が、家父長制を再生産します。
【樋口】やっぱり、「よい嫁は社会の足を引っ張る」ってことね。