「非正規という言葉を一掃する」と言っていたが……
退陣した安倍晋三前首相のレガシーとして評価する向きも多いのが「女性活躍推進」と「働き方改革」だ。前首相は「金融緩和」「財政出動」「成長戦略」の3本の矢からなるアベノミクスを掲げて経済の再生を図ろうとした。
雇用・労働分野の成長戦略が女性の就業拡大と戦力化を目指した「女性活躍推進」であり、生産性の向上と賃金の底上げを目指したのが「働き方改革」であった。しかし働き方改革に関しては、法律はできたもののその効果を見ないまま退陣してしまった。
その1つである非正規社員の処遇改善を図る「同一労働同一賃金」の法制化を念頭に安部氏は「この国から非正規という言葉を一掃する」と言っていた。ところがコロナ禍によって非正規社員の雇用そのものが失われつつある。今年4月の非正規社員は前年同月比97万人の大幅減となったが、その後も減少をたどり、7月は131万人も減少している。“派遣切り”も相次ぎ、7月の派遣労働者は125万人。6月から17万人も減少し、2013年1月以降、最大の落ち込みとなった。処遇改善どころか非正規の雇用がなくなるという皮肉な状況に直面している。
なぜ働き方改革は“中途半端”に終わったのか
また、安倍政権の働き方改革を検証すると、アメリカ流の新自由主義的「規制緩和」とヨーロッパ流の「規制強化」が混在した政策と呼ぶことができる。その中身の中途半端さに加えて、相反する政策を束ねた一括法案(働き方改革関連法案)として提出したことで経営側と労働側、与野党の対立や世論の批判を生む騒ぎにまで発展した。主な法律と政策は以下の通りである。
アメリカ流規制緩和政策
①高度プロフェッショナル制度(時間外労働や残業代などの労働時間規制を撤廃。米国のホワイトカラー・エグゼンプションに近い)
②企画業務型裁量労働制の営業職への拡大(1日の労働時間を設定し、それ以外の労働時間については深夜・休日労働を除いて残業代支払いを免除)
ヨーロッパ流の規制強化政策
①残業時間の上限規制(これまで事実上無制限だった残業時間を年間720時間、2~6カ月平均で80時間、単月100時間未満とする)
②同一労働同一賃金制度(EUの正規と非正規の賃金格差を禁じる法律を参考に同一会社内の正規と非正規の不合理な待遇差をなくしていく)
また、これらの政策は本来、厚生労働省マターであり、労使の代表が参加する厚労省の労働政策審議会で議論するのが普通であるが、内閣官房の下に設けられた会議体で議論するという異例の官邸主導で行われたことも大きな特徴だ。
2013年からの「働き方改革」振り返り
では安倍政権の働き方改革の流れを改めて振り返ってみたい。まず就任直後の2013年。最初の成長戦略(日本再興戦略、13年6月)で「我が国最大の潜在力である『女性の力』を最大限発揮できるようにすることは少子高齢化で労働力人口の減少が懸念される中で、新たな成長分野を支えていく人材を確保していくためにも不可欠である」と述べ、女性活躍推進を掲げた。そして2020年に女性管理職比率を30%にする「2030」プランの推進、それを後押しする「女性活躍推進法」の制定など誰もが異論を挟まない政策を打ち出し、女性を含む世論は歓迎する。
しかし、翌14年の成長戦略(「日本再興戦略」改定2014)の中に①の「ホワイトカラー・エグゼンプション=WE(労働時間規制の適用除外)の導入が盛り込まれ、世の中を驚かせた。じつは04年のアメリカのWEの大幅な規則改正の実施を契機に経団連が05年に導入を提言。それを受けて第1次安倍政権下で法案作成の作業が進んでいたが、メディアや野党の「残業代ゼロ法案」の批判を浴び、07年1月に法案提出を断念した経緯があった。
当時は解雇の金銭解決制度も議論され、小泉純一郎政権から続く新自由主義的な労働規制の緩和が相次いでいたが、安倍政権もそれを継承し、その1つがWEの実現だった。
それが新たに成長戦略の労働政策の目玉として登場。年収1000万円以上の労働者を対象とする後の「高度プロフェッショナル制」(高プロ制度)につながる制度として復活した。
同時に提起されたのが②の裁量労働制の拡大だった。安倍氏にとってはまさにリベンジともいえるものだったが、労働組合をはじめ国会審議では野党から「長時間労働につながる、働かせ放題制度」と、批判を浴びた。それでも政府は法案作成を続行し、翌15年の通常国会に向けて法案を閣議決定した。ところが国民の批判を恐れた与党が国会での審議入りすることはなく、誰もが廃案になったものと思っていた。
16年、規制緩和から規制強化策へ
翌16年になると、安倍政権はそれまでの規制緩和路線から一転し、規制強化策に乗り出す。その第一弾が1月26日の施政方針演説での「同一労働同一賃金」の実現だった。EUの労働指令のパートタイマーや有期契約労働者の待遇差別禁止をヒントに日本でも制度化し、非正規社員の待遇を改善することで経済の好循環につなげようとの狙いがあった。6月2日に閣議決定された「ニッポン一億総活躍プラン」では「欧州の制度も参考にしつつ……関連法案を国会に提出する」と明記された。
さらに同プランでは、これまで無制限に残業させることができた労働時間の規制を強化し、残業時間に上限を設ける方針を打ち出した。16年9月には電通の女性新入社員が過労自殺していたことが世間の関心を集め、幹部社員や社長の辞任にまで発展したことで、残業時間の上限規制は世間からも歓迎された。
翌17年3月、安倍氏を議長とする働き方改革実現会議が「働き方改革実行計画」をまとめ、この中に同一労働同一賃金の法制化と労働基準法改正による上限規制が盛り込まれた。ところが、その後、具体的な法律案が出されて誰もが驚いた。法律案の中に廃案になったと思っていた「高プロ制度」と「裁量労働制の適用拡大」が入っていたのである。
裁量労働制の適用拡大は法案から削除
これまで政府の働き方改革実現会議を含めた一連の会議では高プロ制度について議論されることはなかった。残業時間の上限規制という労働時間管理の規制強化の法案と一緒に労働時間の規制を緩和する高プロ制度と裁量労働制の適用拡大という一見正反対の内容が含まれていた。しかも法律は同一労働同一賃金の法案も含めた「働き方改革関連法案」という束ね法案として18年の通常国会に提出された。つまり、野党が高プロ制度に反対して法案が成立しなければ同一労働同一賃金や残業時間の上限規制も成立しなくなる。
国会審議では与野党の攻防が続いたが、18年1月29日、安倍氏が「厚労省の調査によれば裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均的な方で比べれば一般的労働者より低いというデータもある」と発言。しかし、後にその厚労省の調査が客観性を欠く不適切なデータであることが判明し、法案から裁量労働制の適用拡大を削除することになった。そして6月29日、「働き方改革関連法案」が国会で成立した。
ここまでが安倍政権の働き方改革の一連の流れである。
実際の法律の施行日は、高プロ制度が19年4月、残業時間の上限規制が19年4月(中小企業は20年4月)、同一労働同一賃金が20年4月(中小企業は2021年4月)である。
ではその成果はどうなっているのか。
残業時間の上限規制は国際的に見てクレイジーなレベル
高プロ制度は19年4月から20年3月末までの1年間に導入企業は約10社、対象労働者は414人と低調だ。労働時間規制の適用から外れる管理職を除いた労働者の年収要件が1075万円以上というハードルが高すぎたのか。いずれにしても今後どうなるのか注視していく必要がある。
他の法律については中途半端さを拭えない。残業時間の上限規制については、EUは1週間48時間を超えてはならないとする絶対的上限規制がある。それに対して新法では月平均60時間(年間720時間)、しかも単月で100時間未満となっている。週5日労働、年間52週だと年間の労働日は260日。1日の法定労働時間(8時間)に換算すれば2080時間。これに720時間の残業上限を加えると2800時間になる。ヨーロッパの労働者から見たらクレイジーと言われそうな時間だ。
非正規社員と正社員の基本給格差是正には遠い
同一労働同一賃金については、当初は法律にEU諸国の法律のように「客観的合理的理由のない不利益な取り扱いを禁止する」という書きぶりの条文にする予定もあった。そうすれば非正規社員から正社員となぜ違うのかと聞かれたときに会社側に説明責任が発生し、裁判では立証責任が生じ、会社側はその差について合理性があることを説明する必要がある。
ところが新法では、従来の法律と同じ「労働条件に相違がある場合、その相違は不合理と認められるものであってはならない」とし、①職務の内容(責任の程度)、②配置の変更の範囲、③その他の事情――の3つの要素に照らして裁判官が判断するという幅広の解釈ができるようになっている。しかも立証責任は原告と被告双方が負うことになっている。この法律だと非正規社員と正社員で明らかに違う食事手当などの福利厚生と扶養手当や住宅手当、皆勤手当、ボーナスなどの支給では一定の効果があるかもしれないが、基本給の違いを是正するのは難しいとの指摘もある。
いずれにしても残業時間の上限規制と並んで同一労働同一賃金法制は施行されたばかりである(同一労働同一賃金の中小企業の施行は21年)。これによって過労死が減るのか、非正規社員の処遇は改善されるのかなど、本当に実効性があるかどうかは今後の行方しだいである。その効果を見ぬうちに安倍首相は退陣したが、それが見えない限り、レガシーと呼ぶには早いだろう。