今、世の中で言われている「男と女は同じでなければならない」という考えは、一般的に「政治的正しさ」と呼ばれるものだ。これについて、作家の橘玲氏は「男と女は生物学的にちがっているが、平等の権利を持っている。多様性を無視し、『同じ』でなければ人権は与えられないという考え方が差別的なのだ」と、著書『女と男 なぜわかりあえないのか』の中で述べている。さらに橘氏いわく、国内に優秀な女性政治家を増えない理由は「おっさん」のせいだと言う。どういうことなのか。

※本稿は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)の一部を再編集したものです。

政治的候補者は、市役所会議中に群衆に話します
※写真はイメージです(写真=iStock.com/SDI Productions)

女性は何故競争を避けるのか? 研究結果から読み解く

男の子は集団で戦争ごっこを好み、女の子はペアで人形遊びを好む。なぜ子どもの頃からこうした性差が生じるのだろうか。もっとも説得力があるのは、「進化の過程でリスクの異なる適応が発達した」という説明だ。

子どもを産み育てるには両親が揃っていた方が有利だろうが、どちらか一方の選択なら母親になる。妊娠中は流産のおそれがあるし、乳児は母乳を与えられなければ生き延びられない。それを考えれば、女性がリスクを避けるように進化したと考えるのは筋が通っている。

一方、男はどうかというと、人間社会はゴリラのようなかんぜんな一夫多妻制ではないものの、社会的な地位が高ければより若く魅力的な女を獲得できることは間違いない。“一発逆転”を狙ってリスキーな挑戦をするように進化したはずだ。

この理屈が正しいとすると、競争社会では必然的に、リスクを好む男が有利になり、リスクを避ける女は不利になる。

政治学者のサラ・フルトンらは、アメリカの地方議員への大規模な意識調査(全米435の選挙区からランダムに200選挙区を選び、2715人の州議会議員にアンケートを送り875の回答を得た)を使って、「なぜ女性の政治家は少ないのか」を解明しようとした。

ここで、「女性差別によって選挙に出ても勝てないからだ」と考えるひとがいるだろう。だが最近の調査では、性別以外の候補者の条件を揃えると、男女の当選確率に差がないことがわかっている。不思議に思うかもしれないが、有権者の半分が女性であることを考えれば当然ともいえる。

しかしそうなると、女はなぜ(選挙という)競争を避けるのだろうか。これがフルトンの疑問だ。

州議会議員(日本の県議会議員)は、アメリカでは連邦議会議員(国会議員)へのステップと考えられている(連邦議員の半数は地方議員の経験がある)。それにもかかわらず、連邦議員に立候補しようと考える割合は、女より男の地方議員の方が明らかに高かった。

まさにステレオタイプどおりの結果だが、データを分析してみると、女性の地方議員の“野心”が乏しい理由は別にあることがわかった。

たとえば年齢。政治家は若いほど野心的で、年をとると「いまさら冒険しても」と考えるようになる。実際、若い男の地方議員は、連邦議会にステップアップする意欲が高かった。それに対して女の地方議員は平均年齢が高く、その分だけ「チャレンジ」の意欲がそがれるのだ。

子どもの有無による「政治的野心」のちがい

勝てると思えば、女性は男性以上にリスクを取る

ではなぜ、女性地方議員の平均年齢は高いのだろうか。その理由を示したのが図表1で、子どもがいるかいないかで政治的野心がどのようにちがうかを調べている。

(年齢など)他の条件が同じで子どもがいなければ、男女の「野心」はほぼ同じだ。女性地方議員は、男性と同様に連邦議会を目指そうとする。

ところが子どもがいると、結果は大きく変わる。

男の地方議員は、子どもを持つことで野心がさらに大きくなる。「よき父親」であることが選挙を有利にするからだろう。

ところが女の地方議員は、子どもがいると逆に野心を失ってしまう。これにはさまざまな理由が考えられるが、研究者は、「母親が(幼い)子どもといっしょにいたいと思い、社会もそれを当然と考えるから」だと述べている。

日本では、子育てが一段落してから働く母親が非正規の仕事にしか就けないことが問題になっているが、アメリカの政治家も同じで、子どもの手が離れてから政治にかかわるため、地方議員を何期か務めたあとに連邦議員に挑戦しようとする頃には、自分が年をとりすぎていることに気づくのだ。──幼い子どもがいる女性政治家は、子どもと離れてワシントンに「単身赴任」するより、自宅から通える地方議会を選ぶだろう。

主観的な当選可能性による「政治的野心」のちがい

フルトンはこの調査で、もうひとつとても興味深い発見をした。それが図表2だ。

ここでは(子どもの有無など)他の条件が同じ場合、主観的な当選可能性(どの程度選挙に勝てると思っているか)で政治的野心がどう変わるかを示している。破線が「平均的な野心の持ち主」で、実線が「野心家」だ。

意外なことに、主観的な当選可能性が高くなるにつれて女の野心は急速に大きくなる。それに対して男の野心は、当選可能性にそれほど影響されない。誰が考えても当選できそうもない(本人もそう思っている)ときでも、男は勝負に打って出るのだ。

男が“一発逆転”を狙うというのは進化論による説明と整合的だが、「勝てると思えば女の方がリスクを取る」ことまでは予想できなかった。データでは、主観的な当選確率が20%を超えると女の野心は男性を上回るのだ。

女性は「損することがわかっている」勝負を嫌う

ここからわかるのは、女は男より競争に消極的なのではなく、「勝率を冷静に計算している」らしいことだ。成功の見込みが高いと思えば、女は男より冒険的になる。「女性は戦略的に競争に参加するかどうかを考え、きわめて慎重に行動している」のだ。

橘玲『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)
橘玲『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)

競争には負けるリスクがある。多くの時間、金、感情を投資するほど、負けたときに失うものも多くなる。このリスクを女の方が正確に判断できるとすれば、「損することがわかっている」勝負を嫌うのも当然だ。

ジェンダーギャップ指数が世界最底辺の日本では、国会はまだマシで、地方議会には女性議員ゼロのところも多い。“重鎮”などと呼ばれる男の政治家は「選挙に出ようとする女性がいない」と開き直るが、問題はこの「おっさん」たちが自分の議席にしがみついていることにある。当選確率が低ければ(現職議員を破るのは難しい)、リスクに敏感な女性は出馬を尻込みするだろう。

だとしたら、フランスなどのように女性に一定の議員数を割り当てるクオータ制にも一考の余地がある。女は男よりずっと「合理的」なのだから、制度的に当選確率を上げれば「政治的野心」が高まって、優秀な女性候補者が続々と現われるだろう。

38 Sarah A. Fulton, Cherie D. Maestas, L. Sandy Maisel and Walter J. Stone(2006)The Sense of a Woman: Gender, Ambition, and the Decision to Run for Congress, Political Research Quarterly